第三話 白銀の再会と、王の名
朔は暫く、その景色に魅入っていた。
遥か彼方には、二つの月。一つは青白く淡く、もう一つは微かに金の光を灯して――昼空に溶け込むように、静かに寄り添っていた。
眼下には、果てのない雲海。そこから、幾筋もの水が滝のように零れ落ちていく。
どこへ向かっているのかも分からない。底知れぬその景色には、美しさとともに、現実味を拒むような“異界の気配”が漂っていた。
「……異世界、なんだな」
乾いた喉からこぼれた言葉は、宙に溶けるように消えていく。現実味はない。けれど見るもの、触れるものが全て現実だと言っている。疑う余地はない。
――バサッ、バサッ。
朔が現実と向き合っている時、頭上から空気を押し裂くような羽音が降ってきた。熱を含んだ風が頬を撫で、逆巻いた髪が宙に舞う。
朔が反射的に顔を上げると、眩い光の中から――あの白銀の影が、滑るように舞い降りてきた。
竜だ。空から落ちる自分を救ってくれた、あの白銀の巨影。鱗は西陽を浴びて白くきらめき、その滑らかな輪郭に黄金の縁取りが生まれている。
大きな翼を静かにたたみながら、バルコニーに優雅に降り立ったその姿は、神話から抜け出たかのような神聖さを帯びていた。
いつか見た恐竜博物館に展示してあったティラノサウルスほどの大きさを誇る目の前の生き物。地に添えた前脚は獣のものだというのに、その仕草には不思議と気品があった。
そして――薄紫の瞳が、まっすぐに朔を見つめている。冷たい眼差し。けれどどこか懐かしく、胸の奥の“忘れていた痛み”に触れてくるような、不思議な感覚があった。
『ようやく目を覚ましたか』
その場にいた誰も口を動かしていない。ただ低く、くぐもった声が頭の奥に直接届いた。それは耳ではなく、心の奥、胸のすぐ隣に“落ちて”くるような響きだった。
低く、深く、どこか憂いを帯びた声。“声”というより、“記憶の振動”。
朔は息を呑んだ。喉の奥で言葉が転がるのに、うまく外に出せない。驚きもあるかもしれないが、恐怖ではない。ただ胸を振るわせる、その声に惹きつけられ竜を見つめていた。
二人の間に風が吹く。夕暮れの光に照らされ、白銀の鱗が虹色に揺れる。静かな時だけが二人を包んだ。
「……綺麗……」
あまりにも幻想的な姿に小さく零れ落ちる言葉。朔のその声に竜の眉間がぴくりと動いた。
表情はないはずなのに――その反応は、まるで戸惑いのようだった。
『綺麗、だと……?』
今度の声には明らかな動揺が混じっていた。その響きに、朔の胸に何かが灯る。
触れてみたい、そう思った。ゆっくりと手を伸ばす。夢の続きをなぞるように、指先が白銀の鼻先へ――
『触るな!』
瞬間、怒りに震える声と共に翼がバサリと開き、激しい風が巻き起こった。
拒絶の声と熱を帯びた風が朔を打つ。
「わっ、ご、ごめん……!」
突然の出来事に思わず手を引き、数歩、後ずさった。
数歩離れた朔をみて竜はそれ以上何もせず、静かに翼を下ろした。そしてまた静かにその場に佇み、鋭い瞳で朔を見据えている。
何が起きたのか理解できない朔は、ただ竜を見つめ返すことしか出来なかった。
――バンッ!
ベランダの奥。部屋の扉が勢いよく開く音がし、年配の男性を筆頭に数人が飛び込んできた。そして迷いもなくベランダに駆け寄ってきて、慌てたような声を上げる。彼もまた、耳がとんがっていて鱗が見える。どうやらメイドの女の子同様、人とは異なる人種のようだ。
「Navia tor=Zeram!? Rashve, naikat!?」
相変わらず、何を言っているのかは分からない。けれど言葉が分からずとも、その場に漂う緊張感がただごとではないことを物語っていた。
何かいけないことをしてしまったのだろうか。竜も「触るな」と言っていたし、この国では竜は神聖な何かなのだろうか。朔が思案を巡らせていると、先ほどのメイドがベランダの扉から恐る恐る顔を覗かせていた。
彼らは竜と朔を交互に見たのち、ベランダの扉から少し離れて突然ひざまずいた。まるで誰かが来るのを待っているように。
そして読み通り――部屋の中か軽やかな足音が響き、一人の青年がベランダに姿を現した。
まるで太陽のような青年。金の髪が陽光を受けて輝き風に揺れるたびに光が舞う。白と金を基調とした豪奢な衣装を纏い、誰が見ても“高貴な人物”と分かるその人が、悠然と歩を進めてくる。
その顔は、気高さと温かさを同時にまとっていた。
翠玉のような瞳が、静かに朔を見つめた。
柔らかな雰囲気が彼の周りに漂うも、笑っているわけではない。怒ってもいない。ただ、まっすぐに“見る”。
青年は手を胸に当てると、口を開いた。
「Riena... Safurtia, Olphen?」
またしても理解できない言葉。けれど、その音の流れは詩のように美しく、どこか耳に馴染んだ。
朔は助けを乞うように自然と竜に視線を向けていた。唯一、言葉を交わすことができる存在。通訳を頼むのにはもってこいだが、それを彼がしてくれるとは限らない。視線を投げかけたとして朔の意思を汲み取ってくれるかどうかも不明だ。
『……名を、聞いている』
不意に、竜の声が静かに頭の中に届いた。
朔の視線の意図が伝わったらしく、青年の言葉を伝えてくれた。そのことが嬉しくて、「ありがと」と小声で竜に囁いたのち、呼吸を整えて青年に向き直り口を開いた。
「……朔。水無月朔です」
控えめに、けれどしっかりと名乗る。すると青年は、一瞬竜の方へ視線を向けたかと思うと、ふわりと微笑んで朔をみた。もしかしたら、竜が通訳して青年に伝えてくれたのかもしれない。
どこまでも柔らかく人懐っこいその笑みに、緊張の糸が少し緩む。
青年は竜と再び視線を交わし、お互い何も言わぬまま少しの時間が過ぎた。朔は、直感で二人が話をしているのだと思い、静かに二人を見つめ待った。
竜が短く鼻息を漏らしたかと思うと、朔の頭に再び声を響かせた。
『彼は、この国の王。名を陽騎――“ハルキ”という。失礼のないように』
「ハルキ……」
服装から”高貴な人物”だとは思っていたが、まさか王だとは思わなかった。何気なく呟いた彼の名に、呼び捨てにしてしまったと慌てて口元を押さえるも、彼は気にしていない様子でふっと笑みを浮かべていた。
太陽のように輝く王――ハルキ。その存在は眩しく、それでいて、どこか懐かしい温度を持っていた。
この世界で出会った、最初の“人”。
そして、この世界が――ただの夢ではないと、心から確信した瞬間だった。