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第二十七話  雪月の影を抱いて

 あれから、一週間が過ぎた。

 長く眠っていたとは思えないほど、体は軽く頭痛もない。けれど、目に映る世界は――少し違って見えた。

 目覚める際に取り込んだ青蘭の血がそうさせるのか、それとも雪月の記憶がそう思わせるのか分からない。けれど空気の流れがやわらかく、風の音が遠くで滲むように感じる。

 同じ場所なのに、どこか現実の輪郭がぼやけているような不思議な感覚。


 今日は、中型竜の見舞いに来ている。

 竜舎の奥。冬の日差しが差し込む区画で、灰青の鱗を持つ竜が丸くなって眠っていた。乾いた藁と薬品の匂いが入り混じる中で、その呼吸に合わせ光が揺れる。元々の傷も、暴れた際に付いた傷もほとんど塞がり、もう痛みもないはずだ。


「もう大丈夫そうだね。よかった……」


 そっと鼻先を撫でると、薄く目を開き瞼の下で金の瞳がかすかに優しく光った。生きている――それだけで胸がじんと温かくなる。

 あの暴走のとき、俺はただ必死だった。守りたい一心で、この子の前に立った。

 結果的に自分の中に眠っていた未知の力が暴走して、七日も眠り続けることになってしまったけれど、後悔はしていない。

 あのときの光――ハルキ様が言うには、”癒しの力”なのだそうだ。あれが自分の中の“何か”なのだとしたら、まだ怖い。


 一週間前、雪月の記憶を覗き見て目覚めた後。

 朔の体には幾つもの変化があった。一つ目は鎖骨の下、小さな雪の結晶を抱く三日月の形をした痣。二つ目は、髪の一房が青藍のそれと同じ。白銀に変わっていること。三つ目は、この体の中に渦巻く温かくも力強い光。

 本来なら、誰かの傷を癒せるこの力を躊躇なく発揮すべきだと思う。けれどきっとあの光は、雪月の記憶と繋がっている。痣もそうだ。二人からの説明も無いし、雪月の記憶の中にも出てこなかったけれど、形から想像するに足りる。今後あの力を使い続ければ、いつか俺は”朔”ではいられなくなるかも知れない。水無月朔という存在が居なくなる。そう考えるだけで胸が痛んだ。

 思考の渦に沈んでいたとき、背後から声が落ちた。


「寒くないか」


 低く、やわらかい――けれど胸の芯に触れる声。振り返るまでもなく、誰の声か分かる。青藍だ。

 この一週間。いつも気づけば傍にいる。以前は近寄りもしなかったのに、この変わりよう。

 まさか、俺が雪月だと勘づいていたりは……しないよな。


「大丈夫です。ほら、見てください。もうすっかり元気そうですよ」


 中型竜の鼻先を撫でながら笑って振り向くと、青藍は数歩離れた場所で腕には薄布を持って佇んでいた。

 その顔は穏やかではあるものの、竜を監視するように鋭く見つめている。まるで竜がまた暴れるのではないかと、注視しているようだ。


「そうか。だが、来るなら来ると一言声を掛けてくれ。お前がここに来ると聞いて慌てたぞ」


 青藍の声音には、わずかに安堵の色が混じっていた。その響きを聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 ――慌てた。

 たったそれだけの言葉が、まるで心の奥をくすぐるようだった。けれど、それを素直に受け取るほど、もう無防備ではいられない。

 朔は小さく息を吐き、笑みを作った。軽く聞き流すように、けれどほんの少し棘を含ませて言葉を返す。


「放っておいてくださいよ。俺、もう子供じゃないんで」


 口調は軽い。だが胸の奥では何かがきしむ。“子供じゃない”と言いながら、本当はまだ、こうして心配されることをやめられない自分がいる。それを悟られたくなくて、竜の方へ視線を戻した。

 眠る竜の鼻先を撫でる。静かな寝息が、張りつめた心をわずかに緩めてくれる。けれど背中越しに感じる青藍の気配は、それ以上に息苦しいほどに近かった。


「知っている。……だが、そういう問題ではない」


 短く切るような声。その中に、どこか自分を責めるような響きがあった。

 朔は目を閉じ、ほんの一瞬苦笑が零れた。

 どうしてこんなにも真っすぐに向き合ってくるのだろう。放っておいてほしいのに、そんな優しさに救われてしまう。

 沈黙が落ちた。

 竜の寝息だけが、遠くで静かに揺れている。胸の奥のざわめきを押し込めるように、朔は餌皿を置いて立ち上がった。努めて平静を装い、笑顔を貼り付けて青藍に向き合う。


「午後は、書庫に行きます。“門”の記述を探したいので」


 その声には、ほんの少し投げやりな響きが混じっていた。

 さっき言われた「来るなら来ると声を掛けろ」という言葉が頭をよぎる――だから言っておく。これで文句はないだろう。

 そんな、ささやかな反発の気持ちを言葉の隙に忍ばせた。けれど内心では、また青藍が何か言い返してくるのをどこかで期待している自分がいて、その矛盾がひどく煩わしくも愛おしかった。


「またか。……無理はするな。書庫は冷える」


 青藍の声は低く、静かに響く。その言葉が、まるで小さな灯のように心に触れた。

 彼の眼差しの奥にある心配を感じて、朔はわずかに息を詰める。それ以上何かを言えば、胸の奥が揺れてしまいそうでーー。


「分かってます。でも、今しか時間がないんです。青藍こそ、仕事はいいんですか?」


 軽く笑ってごまかす。けれどその笑顔の奥で、どこか痛むものがあった。

 青藍の優しさが、雪月の記憶を揺さぶる。

 自分の感情が“朔として”のものか、“雪月”の残響なのか――その境界が、また曖昧になっていく。


「お前を見ているのが、今の俺の仕事だ」


 真顔でそう言われ、言葉が喉に詰まる。青藍の瞳には、もうかつての冷たさはなかった。ただまっすぐに、自分だけを映している。胸の奥が、静かに疼いた。

 ――この距離を保ったまま、どうして笑っていられるだろう。


 心臓が跳ねた。

 いつもなら、笑い飛ばせたはずなのに。

 真顔で、真剣に言うから、返す言葉が見つからない。


「……そうですか。じゃあ、“監視役”として、どうぞご自由に」


 無理に笑ってみせると、青藍は小さく息を吐き視線を逸らした。

 光が差し、白銀の髪がやわらかく揺れる。

 その色を見るたび、胸が痛む。

 ――俺の髪の一部も彼と同じ色が存在する。

 彼が俺を目覚めさせるために吹き込んだ力。そしてこの世界に触れてしまった印。

 だからこそ、離れなければならない。

 この場所にいる限り、青藍は過去から解き放たれない。

 俺がここにいる限り、彼はまた俺に"雪月"に縛られてしまう。

 それでも。目の前で差し出された手を突き放せない弱い自分がいる。


「行こう。寒い」


 静かに言った青藍の声に頷く。

 外の空気は透き通っていて、遠くの山の頂には薄く雪が残っていた。

 青藍の肩越しに見える白が、懐かしくて――心が少し軋んだ。


(……俺は、絶対探し当てる。“門”の記述を。そして、そのときが来たら――)


 振り返ると青藍が穏やかに微笑んでいた。

 その笑みが、眩しくて怖かった。


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