第二十六話 静かな寝息と別れの決意
青藍の体温が、胸の上でじんわりと広がっている。
……重い。息苦しい。嬉しいとか恥ずかしいとか、そんな感情を通り越して、純粋に「重い」。
何度か身じろぎしてみたり背中を叩いてみたりしたが、腕の力が強く、びくともしない。眠っているとは思えないほど、しっかりと抱きしめられている。
「……青藍、頼むから……離してくれって……」
返事はないと分かっていても、声に出さずにはいられなかった。
仕方なく視線を横にずらすと、すぐ傍で金の髪が柔らかい灯りを受けて揺れている。
椅子に腰かけた陽騎が、頬杖をつきながらこちらを見ていた。穏やかな笑みを浮かべているが、どこか楽しげでもある。
「息、できてる?」
その声音は柔らかかったが、瞳の奥が笑っているのが分かった。
……絶対、この状況を面白がってる。
半ば涙目になりながら、俺は訴えるように声を上げた。
「……できてません……! むしろこのままだと死にます……!」
陽騎はふっと笑い、軽く息をつく。
立ち上がり、寝台の反対側に回って青藍の肩を軽く叩いた。
「おい、青藍。そのままだと朔が潰れるぞ」
返事はない。青藍の眉がわずかに動いたが、腕の力はむしろ強まった。
陽騎が呆れたように息を吐く。
「……駄目だな。完全に落ちてる」
肩をすくめながらも、陽騎が青藍の体を慎重に持ち上げてずらしてくれた。
ようやく息が通う。肺いっぱいに空気を吸い込むと、胸の中の圧迫が少し和らいだ。
安堵と同時に、離れていく温もりに妙な寂しさが込み上げる。
「はぁ……生き返った……」
思わず呟くと、陽騎が寝台脇のスツールに腰を下ろし、柔らかく微笑んだ。
その笑みはどこか懐かしさを帯びていた。
「まったく……こいつがここまで誰かに執着するのは、久しぶりだ」
その言葉に胸の奥がずきりと痛む。
俺のせいで、青藍はここまで疲弊して……そして倒れた。
目を落とすと白いシーツの上に無数の赤い痕が散っている。乾いた血が、まるで夜空の星のように点在していた。
「これ……血、ですか……?」
喉の奥から掠れた声が漏れる。
陽騎は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「ああ。お前を目覚めさせるために、自分の血を与えたんだ。寝不足の体に負担が掛かると止めたんだが、聞く耳を持たなかったよ」
淡々と語る声の奥に、わずかな苦みが混ざる。その言葉が胸に突き刺さる。
息が詰まり声が出ない。胸の奥で熱いものがこみ上げた。
「今までみたいに無視してくれれば良いのに……なんで、そこまで……」
自嘲するように呟いたが、陽騎は答えなかった。代わりに軽く指を鳴らすと、すぐに扉の外からノックの音が響く。
静かに入ってきた使用人たちは、言葉少なに深々と頭を下げた。
「シーツ取り替えてやってくれ。それと――消化に良いものを。温い粥と果実を少し。それから薄い茶を用意してくれ」
穏やかな声で指示を出す陽騎。その声音には王としての威厳よりも、仲間を思いやる人間的な温かさがあった。
手際よくシーツを外し、清潔なものへと取り替えていく使用人たち。
青藍と俺の体は、陽騎の魔力によってふわりと宙へと浮かび上がる。まるで風に抱かれているような軽やかさだった。
新しいシーツは雪のように白く、ほのかな花の香りが漂っていた。ベッドに下ろされると、洗いたての布からお日様のような温もりが広がる。思わず深く息を吸い込んだ。胸の奥の張り詰めた糸が、ほんの少し緩む。
暫くして、使用人たちが食事を運んできた。行儀が悪いと思いつつ青藍が離してくれないので、枕を背にベッドに預けたままいただく事にした。取り皿に分けた優しい薄味の粥を一口食べると胃が刺激を受けたのか、クーと小さく鳴く。二口三口と食べすすめ、半分くらい食べて「ごちそうさま」をした。
「少しは落ち着いたか?」
「……はい。ありがとうございます」
息を整えながら背中を枕に預ける。体も頭もまだ重い。七日間も眠っていたせいだろう。それでも、こうして胃に食べ物を通すと、ようやく“生”に戻ってきた気がした。
陽騎がひとつ息を吐き優しい眼差しを向けてくる。
「……あの、俺は一体……あの時、中型竜が暴れて、青藍が傷ついて……あ、そうだ。中型竜は大丈夫ですか?まさか処分されたとか無いですよね?」
思い出すたび、喉の奥が震える。あのときの咆哮、風圧、飛び散る光――。
自分の体が動かなくなっていくあの感覚が、まだ皮膚の裏に残っている。
「……君という人は」
陽騎が思わず苦笑し、金の髪を指先でかき上げる。
その瞳には呆れと安堵が半分ずつ混ざっていた。
「中型竜なら無事だよ。暴走は止まり、いまは竜舎の奥で眠っている。お前の光があの子を鎮めた」
「……俺の、光?」
ぽつりと呟いた自分の声が、思ったよりも遠く響いた。その瞬間、頭の奥で記憶の断片がはじける。竜の咆哮、光、そして青藍の声。あのとき確かに――呼ばれた。
夢じゃなかった。あの光景は現実だったのだ。
陽騎は、ふと視線を落とす。
「七日の間、眠っていたんだ。少しゆっくりするといい。お前がこうして目を覚ましたこと、それが何よりの救いだ」
「……七日、かぁ……」
呟く声が震えた。
七日という時間の重みを、言葉にできずに飲み込む。その間、青藍はずっと傍にいたという。眠らず、食べず、ただ俺の名前を呼びながら。
青藍にとって、俺は異世界人という異物にしか過ぎないはずなのにーー。
胸が詰まる。嬉しさと罪悪感が入り混じって息が苦しかった。
(……青藍。俺は、もうあの頃の“雪月”じゃない)
心の奥で呟き目を伏せる。
このままでは、また彼を傷つけてしまう。そんな恐れが静かな光の中でじわじわと広がっていく。
意を決して、言葉を紡いだ。
「……ハルキ様。この世界から……元の世界に戻る方法って、本当にないんですか」
陽騎の瞳が静かに揺れた。
蝋燭の炎が風もないのにわずかに震え、部屋の空気がひととき止まる。
「……異界から来た者の記録は、確かに残っている。だが――帰った者はいない」
「帰った者が……いない……」
口の中で繰り返した言葉が、自分の声とは思えなかった。
陽騎は目を細め、低く続けた。
「ただ、古文書の一部に“門”の記述がある。時空を繋ぐ術――今では失われた古代の魔術だ。探すなら王城の書庫をあたるといい。許可は出しておこう」
希望と現実の狭間で、胸がひりつく。消えかけた光が、再び小さく灯ったような感覚だった。
(……青藍。俺は、また君を置いていくかもしれない)
眠る青藍に目を向ける。白銀の髪が朝の光を受け、静かに輝いていた。
その一房が、自分の罪を映す鏡のように見えて――胸が締めつけられた。
「……ありがとうございます、ハルキ様」
小さく頭を下げる。
陽騎はふっと笑い、立ち上がった。
「君は……いや、今は体を休めろ。青藍が目を覚ましたら……きっと、話したいことが山ほどあるだろうからな」
「……はい」
返した声は、わずかに震えていた。
陽騎が部屋を出ていくと再び静寂が戻る。新しい白いシーツの上で青藍の寝息が穏やかに響く。その音に耳を澄ませながら俺は胸の奥で静かに誓った。
――この世界から、帰る方法を見つける。
たとえ、それが青藍との別れを意味しても。それが、きっと俺たちにとって最善の形なのだから。
窓の外では夜明けの光がゆっくりと昇り始めていた。
白銀の髪が陽を受けて淡く光り、その光が部屋の空気を溶かしていく。
まるでこの世界の“最後の朝”のように、美しかった。




