第二十五話 七日目の朝と抱擁
――光が、差している。
まぶたの裏で白が滲み、意識の底に沈んでいた何かがゆっくり浮かび上がってくる。
長い夢を見ていた気がする。けれどそれは、夢というにはあまりに生々しく、心の奥を焼き付けるほどにリアルだった。
冷たい風、眩い鱗の光、そして――自分を呼ぶ声。幼い自分の手を包み、微笑んでいた青藍の姿。あれは幻ではない。過去の記憶。雪月としての“俺”が確かに生きていた時間。
けれど、その温もりが消えた瞬間の痛みも、あまりに鮮明で。胸の奥がずきりと疼く。
(……雪月。そうだ、あれは俺だ。でも今の俺は――朔だ)
その瞬間、眩い光が走った。
体の奥が焼けるように熱くなり、どくん、と心臓が跳ねる。誰かが名前を呼んだ気がした。
“朔”――懐かしいようで、どこか切ない響き。その声に導かれるように、意識が現へと引き戻されていった。
ゆっくりとまぶたを開ける。ぼやけた視界の先に、銀の髪が揺れていた。
「……青藍?」
掠れた声で名を呼んだ途端、視界がはっきりした。
目の前には、泣きそうな顔でこちらを抱きしめる男の姿。その表情に、息が詰まる。その目に映る”人”は朔か雪月か。どちらにしても、あの冷徹な近衛長の面影はどこにもない。
震える腕が、まるで命を確かめるように俺を強く抱き締めていた。
「……ちょ、青藍……?」
声をかけても、返事はない。ただ、青藍の肩が微かに震えているのがわかる。静かな嗚咽に胸の奥で何かが軋んだ。
どうして、そんな顔を。俺が目を覚ましただけで、なぜ――どういう状況?今まで、あんなに距離をとって関わらないようにしていたのに、どうしてーー。
少し低い温もりが、あまりに近い。熱が伝わるたび、青藍への恋心が刺激され心臓の鼓動が速くなる。
混乱と羞恥と戸惑いが一度に押し寄せ、息が詰まる。
「……いや、ちょっと……待って……」
押し返そうと手を伸ばした瞬間、思ったより力が入らずバランスを崩して青藍の体がそのまま俺の上に倒れ込んだ。
「わっ――!」
柔らかい布団が沈み二人の体が重なる。朔はベッドの上で両手を大の字に開き、大きな安堵のため息を吐いた。
顔のすぐ近くに青藍の髪がふわりと流れ、月光を受けて淡く輝いている。頬に触れる吐息が熱い。心臓がまた跳ね上がる。
なんなんだよ。俺が声を掛けた時はいつも迷惑そうに視線すら合わせないのに、なんで抱きしめてきてるんだよ。なんの心境変化?
「……あの、青藍……?」
反応がない。息を整えながら頭だけを持ち上げそっと覗き込むと、彼のまぶたは静かに閉じられていた。
穏やかな寝息。まるで、この瞬間にすべての力を使い果たしたように。
「……は?」
思考が止まる。まさか、抱きしめたまま寝落ちしたのか?
目を瞬かせ、そっと腕を外そうとする。だが――離れない。
まるで意識がなくても、決して離すまいとするように腕が絡みついていた。
「……嘘だろ……何これ……拷問?」
力なく頭を枕に落とす。心の呟きが思わず口を注いで漏れた。
体温が混ざり合い、鼓動が妙にうるさい。
離れようとするたび、余計に腕の力が強まった気さえする。そのとき、部屋の隅から静かな声がした。
「良かった……目が覚めたか」
声がした方に視線だけを向けると、陽騎がベッド脇に佇んでいた。顔を横に傾け彼を視線を交わす。
蝋燭の炎に照らされた金の髪が薄闇の中で柔らかく揺れている。彼の顔には安堵と、少しの呆れが入り混じった表情が浮かんでいる気がした。
「ハルキ様……? これは……一体……」
状況が掴めずに問いかけると陽騎は軽く肩を竦め、深く息を吐いた。そして「悪いが、そのまま寝させてやってくれ」と苦笑交じりに言うと、スツールに腰掛けた。
「朔。お前は、七日間眠っていたんだ。その間、青藍は一睡もせずお前の傍から離れなかった……寝覚めてくれて、ありがとう」
「……七日、も?」
思わず息を呑んだ。
七日――そんなに。夢の中では、もっと長い時間を彷徨っていた気がした。プリズムの世界。俺の失われた記憶。俺が雪月であった記憶。今でも信じられない。俺が、青藍が探し求めていた番だったなんてーー。
現実でも、これほどの時が過ぎていたのか。
目の前の青藍を見つめる。穏やかな寝顔。けれど、その目の下には深い隈が刻まれている。
その痩せた頬を見た瞬間、胸が締めつけられた。
(……この人は、俺のために……)
唇を噛む。嬉しいはずなのに、同時に怖かった。
俺が目を覚ましたことで、この人がまた過去の鎖に囚われてしまうのではないか――そんな予感がした。
(青藍……俺は、もうあの頃の“雪月”じゃない。あの時の約束を、もう一度結ぶことはできないんだ)
静かに息を吐き、腕の中からそっと抜け出そうとする。けれど、その手が微かに動いた。青藍の指が自分の服の裾を掴んでいる。眠っているはずなのに、まるで本能のように。
「……勘弁してくれよ」
囁いた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
振り払うことができず、ただ視界を覆うように手の甲を眉間に乗せ深く息を吐いた。
――この人を、また傷つけるわけにはいかない。
だから俺は、離れなければならない。この世界から、いなくなる方法を見つけなければ。
外では、夜明けを告げる鐘の音が響いていた。窓の隙間から差し込む光が、白銀の髪を淡く照らす。
その光景が、美しすぎて目が離せなかった。
(……ありがとう、青藍。でも――俺はもう、ここにはいられない)
その心の声を、誰にも聞かれぬように胸の奥で噛み締めた。




