第二十三話 縛られた誓い、揺らぐ祈り
王城の一室。分厚いカーテンが夜気を遮り、蝋燭の炎だけが淡い揺らめきを落としていた。外はすでに三度目の夜が更け、月の位置も巡りを繰り返している。
けれど青藍の目には、時間という概念はとうに存在しなかった。ただひとつ、寝台の上で眠り続ける青年の姿だけが彼の世界を占めていた。
薄布の下で朔の胸はかすかに上下を繰り返す。時折、額に汗を浮かべ荒く短い呼吸を漏らす。そのたび青藍は濡らした布で額や首筋を拭い、荒熱を宥めることしかできなかった。陽騎には、使用人に任せれば良いと言われたが、どうしても他人に任せる気にならず、ココにいる。
癒しの光を放ち、あの場にいた全ての人の傷を癒した彼が、いまは己の身体ひとつ癒すことが出来ないほど弱り切っている――その現実に、青藍の胸は締めつけられていた。
「……せ……らん……」
掠れた声が、不意に空気を震わせた。医者が言ったように二日目の夜から熱に浮かされ始め、乾いた唇がかすかに動き自分の名を呼ぶ。
「……ここにいる。目を開けろ、朔」
届かぬと知りながらも囁かずにはいられなかった。 そんな夜が幾度も続いた。青藍は寝台脇の椅子に腰掛けたまま、片時もその場を離れない。運ばれてくる食事も食欲が湧かず、殆ど口をつけぬまま冷えていくだけだった。 見かねた陽騎が部屋に入るたび同じ言葉をかけてくる。
「青藍。少しは休め。おまえが倒れては本末転倒だ」
静かな声の底に焦りが混じっている。
「……必要ない」
短く返す青藍の声音はかすれていた。三日三晩まともに睡眠も食事も摂っていない身体は既に限界を訴えている。それでも目は逸らさず、ただ眠り続ける朔を見つめている。
ふと肩に重みを感じた。陽騎の手だ。温かく、しかしその温もりが今は鬱陶しくも思え、青藍は力なく振り払った。小さく首を振り声にならない拒絶を示す。
「そんなわけあるか。三日だぞ。今どんな顔しているか鏡、見てこいよ。起きたらすぐに知らせるから、少し寝てこい。」
陽騎の声が荒くなる。いつもの気さくさをかなぐり捨て、兄のように慕う男の頑なさに胸を抉られるような怒気を孕んでいた。
だが青藍は根を下ろした木のように動かず、ただ眠る青年に目を注いだ。――目覚めたとき、最初に映るのは自分の顔であってほしい。それだけが、揺らがない。
「青藍!」
ついに陽騎は苛立ちを抑えきれず両肩を強く掴んだ。勢いで椅子から引き起こされ、青藍の体は陽騎の方へと向けられる。至近距離でぶつかる視線。目の下には色濃い隈。薄紫の瞳は憔悴の色に濁り、それでも決して揺らごうとしない固い光を宿していた。
「……離れるわけには、いかない」
かろうじて声になる。震えは疲労のせいではない。失う恐怖に縛られた男の必死の抗いだった。
陽騎は舌打ちまじりに金の髪を掻きむしり、踵を返して部屋を出た。扉の音が遠のくと、青藍はまた椅子に沈み、朔の呼吸のリズムに自分の鼓動を合わせるように耳を澄ませた。
さらに三日が過ぎ――六日目の夜。
張り詰めていた心の堤防が、とうとう音を立てて崩れ去った。
寝台の上で、汗に濡れた唇がかすかに震え、か細い声が零れた。
「……ゆづき……俺が……でも……」
その声を聞いた瞬間、青藍の胸の奥で何かが裂ける音がした。目の前の青年の唇が確かに紡いだのは、三百年前に消えた名――二度と聞けぬと思っていた響き。頭では否定する。熱に浮かされた幻聴だと、ただの偶然だと。だが心臓は嘘をつかない。鼓動が暴れ馬のように暴れ、血管を駆け抜ける。
視界が白く霞み膝が震える。ほんの刹那、寝台に横たわる姿が雪月の幼い笑顔と重なった。笑って、呼んで、手を伸ばして――そして風に呑まれて消えた、あの光景。
「……やめろ……違う……」
掌で額を押さえ、必死に否定する声が掠れる。けれど、胸の奥からせり上がる声は止められない。
まるで押し込めてきた痛みと悔恨が、一気に噴き出すように。
「……まぶしい灯り……こわい……かえりたい……せいらん……」
声にならぬ呼吸が漏れ、胸が締めつけられる。
今は「朔」であるはずの青年が、なぜあの名を――理性は偶然だと告げるのに、心は違うと叫んでいた。
強張った手が震え、額を押さえる。熱と疲労で霞む視界。三日どころか六日もまともに眠っていない。食事もろくに取らず、指先には力すら残っていなかった。
自分が崩れ落ちてもおかしくない。だが、目を離すことなどできなかった。
「青藍。頼むから、少し寝てくれ」
扉が開き、陽騎が静かに近づいてくる。懇願するかのように聞こえた、その声は王としてではなく古くからの友人としての声音だった。
気づけば肩に手が置かれ、弟のように慕う存在が必死に兄を止めようとしている。
「……必要ない」
声はかすれ、拒絶というより執念の吐息に近かった。陽騎が用意してくれたソファもあるのだが、そちらに座る気持ちにもなれない。ただただ、朔の顔から一時も視線を逸らしたくは無かった。
陽騎は苛立ちを露わにし、肩を強く揺さぶる。
「いい加減にしろ!鏡を見てみろよ。おまえの顔はもう死人のようだぞ!」
至近距離でぶつかる視線。
薄紫の瞳は憔悴で濁っていたが、揺るがぬ光を宿していた。
「……今、離れるわけにはいかない」
囁きは掠れ、しかし鋼のように硬かった。
その瞬間だった。寝台の上の青年が、また掠れ声で名を呼ぶ。
「……せい、らん……ごめ…」
何度目かの自分の名を呼ぶ朔の目から一筋の涙が溢れた。何を謝ることがあるのか、か細いのに鋭く胸を貫き全身に衝撃が走る。青藍は思わず膝の力を失い寝台の脇に崩れ落ち、抑え込んできた感情が暗い水脈のように一気に噴き上がってきた。
「……なぜだ……なぜ起きない?」
震える声。枯れそうな喉から絞り出したその言葉は、懇願でもあり呪詛のようでもあった。
「朔……頼む、目を開けてくれ。お前が……誰なのか、俺に教えてくれ」
嗚咽にかき消されるように声が途切れる。青藍は背を丸め両手で顔を覆った。強靭なはずの指先は小刻みに震え、冷徹さで覆ってきた仮面はひび割れ今にも崩れ落ちそうだった。目の奥が焼けるように熱く、視界が滲む。長く抑え込んできた痛みと悔恨が、いまは容赦なく溢れ出す。
――もう、耐えられない。
「……また失うのか……俺は、また……」
声にならない呻きが、ひび割れた唇から滲み出る。押し殺そうとすればするほど震えは強まり、肩が大きく揺れた。
脳裏に焼きつくのは三百年前の記憶。番の儀式を行う直前、背中からふっと消えた小さな重み。笑い声も、拙い言葉も、温もりも、すべて一瞬で奪い去られた。あの時からずっと、胸の奥には凍てつく空洞が空いたままだ。あいつが俺の番だと意識した時から、龍玉を渡し共に生きると決めていた。なのにーー俺が手を離したせいで失った。
ーーもう嫌だ。半身をもぎ取られるような痛みも、常にどこか欠けている感覚も、もう二度と。
蝋燭がぱちりと弾け、壁の影が崩れ落ちそうに歪んだ。
「そうか――龍玉を、渡せば」
口から零れ落ちた言葉に、自分自身が凍りついた。
言ってしまった。心の奥底に封じていたはずの答えを。その重さを知りすぎているからこそ、決して口にすまいと誓っていたのに。本来は、番の儀で雪月に授けるはずだったもの。己の生死を結び、同じ時を生きる誓い。託すべき相手は最初から、ただひとりだったはずだ。朔が雪月ならば、迷う理由などない。
今すぐにでも――この眠りを断ち切れるかもしれない。
握り締めた手が震え、爪が掌に食い込む。




