第二十一話 記憶を映す夢のプリズム
――風が吹いていた。
眼下に広がる雲海は、綿のようにふかふかと膨らみ、ゆっくりと流れていく。その向こうには、金と紅に染まる空。朝焼けとも夕焼けともつかない不思議な光景が広がっている。
虹色の光が斜めに射し込み、目を細めた。
あ、これ夢だーーこの世界に来てから見ていなかったのに……なんで。
五、六歳の少年の体に意識だけが取り残されたような感じで、少年から見た景色が通り過ぎていく。
「......きれい」
意識とは別に勝手に体が動く。その声は風に乗って空へと溶けた。
小さな手が空へと伸ばされる。まるでその光を、世界そのものを掴もうとするように。届かないと分かっていても伸ばさずにはいられない。とても穏やかで温かい景色。
『突風だ、捕まれ!』
低く、くぐもった男の声が頭の中に響く。耳ではない。意識の奥深くへ届くような声だった。
この後、体が投げ出されるんだ。何度も何度も夢で経験したことだ。いつも同じ結果。目覚める時も同じタイミング。
でも、今はわかることがある。この声、何度も聞いたこの声を間違うはずがない。じぁ、今この少年が乗っている竜は……青蘭?なら、この少年はーー。
考えが纏まる間もなく、体がふわっと宙に投げ出され風が牙を剥く。暖かかった風が冷たく鋭利な刃へと変わり少年の体を叩いていく。息も出来ないくらいの空気の流れに逆らうように、必死に体を捻って青蘭の姿を探す。何度か試して、ようやく視界にどこまでも青い空が広がり、遙か上空に白銀の翼が大きく揺れているのが見えた。
「……青藍っ!」
声を張り上げても届かない。伸ばしたはずの腕は霞んで消え、小さな体が虚空へと落ちていく。
あぁ、これで目が覚めるんだ。この夢は一体何なんだ?誰の夢を見させられているんだ?頭の片隅で疑問が浮かんでは消えていく。
いつもなら目覚めるはずの体は、そのまま雲の中に入り視界が真っ黒に覆われる。次第に落下速度が遅くなり、上とも下とも分からない空間にポツンとひとり立っていた。周りを見ても、さっきの青蘭の姿も声も聞こえない。
――静寂。
何も見えない、何も聞こえない、ただただ真っ暗だった。静止しているような、落ちているような不思議な感覚に、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いている。
どれだけの時間が過ぎたのだろ。暗闇の奥でかすかな光が瞬いた気がした。目を凝らすと点々と散らばる光は次第に形を帯び、朔を囲むように空間全体に広がっていく。まるで宙を漂うガラス片のように、色とりどりのプリズムが浮遊していた。
一つひとつが淡い光を放ち、無数の記憶の断片のように揺れている。
(……なんだ、これ)
恐る恐る近づき、指先でひとつのプリズムに触れた。
次の瞬間、視界が白く弾け目を瞑った。
「大丈夫か?」
優しく耳に届く声。それは、くぐもった声ではなくクリアに直接耳に聞こえた。
声が聞こえた方に顔をあげ目を開けると、そこは新緑の森だった。手には自分の手よりも大きな温かい手に包まれ、陽だまりの小道を青年と歩いている。
声が今より少しだけ高いけれど青年は若き日の青藍だろう。背は高く、けれど柔らかな眼差しで俺を見下ろす顔は、今まで一度も見たことがないけれど青藍に間違いない。
低い視線で空を見上げると木々から木漏れ日が降ってきて眩しいと感じるほどだ。小さな手で光を遮り、拙い足取りで繋いだ手を頼りに歩みを進める。とても穏やかで幸せな時間だ。
「眠たいのか?転ぶなよ」
彼の顔を見上げれば、薄紫色の目を細め愛おしそうに見つめ薄く微笑んでいる。
なんだ、これ。こんな光景知らない。知らない青蘭の顔。誰の記憶だ?誰に向けて笑ってるんだ?これは……「雪月」の記憶?なんで、俺が見てるんだ?なんで知ってるんだ?
半ば混乱しつつも、体は自分の意思に反して勝手に動いていく。幼い少年は目を擦りながら「うん」と答え、繋いだ大さな手をぎゅっと握り返していた。その温もり安心し切って瞼が重くなっていく。
「おい……言った側から。仕方ないなぁ」
そういう言葉は、とても優しく今の青藍からは考えられない程の声音だった。
体がふわっと浮き上がり、逞しい胸に抱き上げられたのを感じる。彼の首に腕を回し、この体の主は心底安心して意識を手放した。
朔は再び、真っ暗な空間に戻され周りにはキラキラと光るプリズムが淡く輝いている。先ほどは、興味本位にすぐに触れてしまったけれど、今回は慎重に近づきプリズムをじっくり見つめることにした。すると中に浮かぶ微かな映像のようなものが見えるのに気がついた。
(これは……記憶?)
プリズムの中には、自分が現世での同僚と飲み明かしている様子だったり、夜中一人で会社のパソコンと向き合って毒舌を吐きながら奮闘している映像もあり、これは自分の記憶なのではないかと思った。
けれど自分の記憶というには知らない映像も含まれていて、イマイチ確信することが出来ない。その中で一際小さく、鈍い光を放っているプリズムがあるのに気がついた。それは周りのプリズムとは異なり、奥の方にひっそりと隠れるようにあった。
朔は近づいて、どんな記憶があるのか覗きこむ。しかし真っ暗闇のまま何も映し出されていない。
なんだろう?真っ暗闇だなんて記憶にない。何か手掛かりになりそうなものが無いか更にプリズムを覗きこんだ。もしかして、俺が拾われた日の記憶か?
なぜそう思ったのか分からない。けれど瞬間的にそう思った。知るのが怖いと思う反面、指は動いていた。プリズムに人差し指が触れ、また目の前の景色が移り変わる。
目を開けると真っ暗な闇の中にいた。一瞬、さっきの空間かと思ったが、自分の手は幼く小さな手になっているし視線も低い。ちょうど竜の背に乗っていた少年と同じくらいだ。空には月は愚か街灯もなく、あたりは真っ暗。
次第に、自分がどこにいるのか不安が押し寄せ心臓がドキドキし始めた。
「どこ?……怖い。誰かいないの?……誰か……助けて、xxxx」
「助けて」の後に続く言葉が聞き取れなかった。確かに少年は、自分は言葉を発したのに何かに邪魔されたように雑音になって朔の耳には届かなかったのだ。
だんだんと少年の目には溢れんばかりの涙が溜まっていき、朔自身の心も共鳴するように苦しくなっていく。暗闇にだんだん慣れてきた頃、周りにはベンチや遊具があるのに気がついて、ここが公園だと分かった。けれど朔自身の頭は冷静に判断していくのに、この少年の心はパニックに陥っていく。
(ここ、見覚えがある……やっぱり、ここは俺が拾われた公園だ)
実際のところ朔は、夜のこの公園は知らない。一度だけ養父である孤児院の院長が、昼間にこの公園で拾ったのだと連れてきてくれたのだ。けれど、その頃の俺は既に記憶がなく他人事のように思えていたのを覚えている。
「君、ひとり?親御さんは?」
「ヒィッ」
不意に頭の上の方から女性の声が降ってきた。あまりの恐怖に、両手を胸の位置で強く握ったまま一歩後退りする。
「ねぇ?」
「ッ……やっ」
肉付きのいい手が触れようとした瞬間、避けようとして足がもつれ、そのまま尻餅をついてしまった。ジワジワと下着が濡れて生暖かい感触がズボンまで広がっていく。怖くて、恥ずかしくて、ここから居なくなってしまいたい衝動に駆られるのに、体が動いてくれない。




