第十九話 白銀を染めた血と祈り
竜の瞳に映るのは、狂気に近い赤い光。
完全に我を失っている。朔の声など届かない。巨大な顎が開かれ、牙が月光を反射して鋭く光った。
「……っ!」
間近で浴びる息は熱く唸り声は地を震わせる。恐怖が全身を貫いた。それでも足は動かない。逃げるという選択は無かったからだ。
(怖い、でも逃げちゃ駄目だ。俺が逃げたら……この子は死んでしまう)
必死に伸ばした手が、竜の鼻先に触れる寸前――。
「下がれ!」
鋭い声と同時に、朔の体が強く引き倒された。
銀の影が目の前を覆う。青藍だ。大きく広い背に朔を庇い、そのまま竜の正面に立ちはだかる。威嚇するように竜は怒号のような咆哮を上げ唾を飛ばす。
青藍はわずかに目を細め、冷徹な気配を纏うと――鋭く命を放った。
「鎮まれッ!」
声が空気を裂く。竜の巨体がびくりと痙攣したように止まり、一瞬の静寂が広がった。
だが次の瞬間、竜は再び咆哮を上げ再び暴れようとする。
「くっ……!」
青藍は牙をかわし、竜の顎を片腕で受け流す。その衝撃で石畳が砕け、砂塵が舞い上がった。体勢を崩した朔は地に倒れ込み、見上げる視界の先で銀髪が月光を散らしながら激しく揺れていた。
(青藍……!)
彼の背中は、まるで絶望と戦い続ける孤独な影のように映った。
必死に立ち上がりながら、朔は拳を握った。怖い。命を奪われる恐怖が全身を震わせる。けれど、それ以上に胸を締めつけるのは――青藍の背中だった。
(どうして……どうして、俺を庇ってくれるんだ)
竜の暴走と青藍の冷徹な声が交錯する中で、朔の胸の奥でひとつの確信が芽生えていた。
これは憧れでも、同情でもない。恐怖を超えて、命を懸けても離れたくないと思ってしまう――。
(俺は……青藍が、好きだ)
自分にしか聞こえないその心の声が、全身を熱くして震わせた。
淡い余韻を打ち消すように、竜の咆哮が轟き暴れる翼が地を打ち砕いた。石片が四散し、竜舎の壁までも軋む。
青藍は朔を背に庇い、鋭い眼差しで竜を睨み据える。冷徹さを纏いながらも、その背は揺らぎなく朔を守り続けていた。
「退け、朔……!」
声が鋭く響く。だが、次の瞬間――。
竜の尾が閃き、避けきれず青藍の脇腹を打ち抜いた。
「……っ!」
目の前を鮮血が飛沫のように宙を舞う。銀の髪を紅に染めながら青藍はよろめきつつも倒れず、必死に竜の顎を押し返した。
その光景が、朔の目の前でスローモーションのように焼きついた。耳鳴りがする。喉が焼ける。胸の奥で、何かが弾け飛んだ。
(青藍が……血を……流してる……俺のせいで……!)
目の前が真っ白になる。震えが怒りと恐怖に変わり、やがて言葉にならない叫びとなって溢れた。
「……やめろォッ!!」
その瞬間、朔の体から光が爆ぜた。白銀に近い蒼白の光が一点から柱のように立ち上がり、竜舎全体を呑み込んでいく。
光はただの光ではなかった。柔らかく、それでいて力強く、触れたものの痛みを融かすような温もりを帯びていた。青藍の負傷した脇腹から流れる血がすっと止まり、裂けた皮膚が光に縫い合わされるように閉じていく。
息を荒げていた中型竜の瞳からも狂気の赤が薄れ、暴れる体が徐々に鎮まっていった。竜は呻き声を漏らしながらも次第に頭を垂れ、朔の立つ位置を中心に光へと身を委ねていく。
眩い柱の中心で、朔は自分が何をしているのか分からなかった。ただ心臓が裂けるほどに叫んでいた。
(……嫌だ。死なせない。誰も、死なせたくない……!)
その祈りが光となり、すべてを包み込んでいた。やがて光が収まると、そこには静寂が広がっていた。
荒れていた竜は力を失い、穏やかに身を伏せている。青藍もまた地に膝をつきながら、己の傷が癒えたことに気づき、驚愕の眼差しを朔へ向けていた。
「……おまえ、今のは……」
掠れた声。
朔は息を切らしながら、ただ震える手を見下ろした。
自分の内から湧き出した光――それが何なのか、本人さえ理解できていなかった。
世界が白く塗り潰されていくようだった。
暴走した竜の咆哮、砂を巻き上げる突風、耳を打つ怒号――そのすべてが遠のき、ただ胸の奥から溢れ出す熱だけが全身を突き動かしていた。
気づけば、俺の体は光に包まれていた。眩しいほどの白金の光が胸から迸るように広がり、まるで柱のように天へ伸びていく。驚愕に目を見開いた竜の瞳が、その光を映して震えていた。
「な、んだ……これ……」
声にならない囁きが零れる。けれど恐怖はなかった。むしろ胸の奥が安堵で満たされていくのを感じた。光は脈打つように広がり、俺の腕から竜の全身へと滲み込んでいく。
荒れ狂っていた竜の翼が少しずつ力を緩めていく。荒い呼吸が静まり、血走っていた瞳から狂気が抜けていく。
その光は――青藍も包んでいた。
竜の尾により切り裂かれた脇腹。血に濡れた銀の髪。そこへ光がやわらかく降り注ぐ。俺の目の前で、その血が、裂けた皮膚が、ゆっくりと閉じていく。
(……治ってる……? 俺の……力、なのか)
まるで夢でも見ているかのように意識はフワフワとしていて信じられなかった。だが目の前の現実は否応なくそれを示していた。青藍の眉間に寄っていた皺がほどけていく。その横顔が、ただ静かに俺の方を見ていた。
あの冷たく拒絶する瞳に――揺らぎが宿っていた。
どうしてだろう。胸が熱い。息が苦しい。もっと彼を見ていたいのに、光が広がるほどに体から力が抜けていく。
「っ……」
膝が崩れる。地面が揺れたように感じた。頭の奥が遠く霞み、視界の端で竜が静かに身を伏せるのが見えた。暴れる気配はもうない。ただ鎮まった呼吸が、光に包まれて規則正しく続いていた。
「よ、かっ……た」
最後にそう呟いた途端、ゴフッと咳き込み口から血が溢れ出る。朔は疑問を口にする事なく、体は耐えきれず崩れ落ちた。
「朔ッ!!」
視界が途切れる刹那、確かに感じた温もり。
青藍の薄紫の瞳が――冷徹でも拒絶でもなく、迷いと痛みに揺れていた。
(青藍が、無事で良かった)
視界が暗闇に包まれ、意識を手放したーー。




