第一話 青の墜ちる先
――パシンッ。
「……水無月。おーきーろ!」
乾いた音が、深い眠りの境界を突き破った。
額に微かな痛みが走る。こめかみの奥がじんと鈍く疼き、意識の奥底に、誰かの声が沈み込んでくる。
「……ん……うぅ……」
朔は、まだ熱を残す頬を机に押しつけたまま、鈍く唸った。まだ眠っていたい。瞼は重く、くっついたまま開こうとしてはくれない。無意識に首を百八十度回転させ、深く息を漏らす。
オフィス机の天板は思いのほか冷たく、皮膚にぴたりと張り付くような感触を残していた。その無機質な触感が、ようやく“現実”だと気づかせてくれる。
「おい、二度寝すんな。コーヒー、淹れたぞ。ほら」
コトッと軽い音を発して、紙コップが机に置かれた。
ぼんやりとした視界の中で、鼻をくすぐる焦げた香り。それは深く焙煎された豆の匂い――一瞬で脳が“覚醒”の方向へ引っ張られる。
手探りで差し出された紙コップを受け取り、頭を持ち上げ一口飲んだ。中身はいつもの苦味の強いブラック。覚醒しきれていない寝起きの体に、飲み込んだ熱さが喉から胃へと落ちて行く。
「……ありがと……」
コーヒーを飲んだことにより、少し頭がハッキリとしてきた。まだ掠れた乾いた声でそう呟きながら、背筋をゆっくりと伸ばす。肩甲骨から背骨へと続く筋が、ごりりと軋む音を立てた。身体はまるで古い機械のように鈍く、油が切れたように軋む。
軽くストレッチを行うだけで、少しだけ血の巡りが戻ってきた。それでも、三徹明けの体には睡眠が足らず欠伸が出てしまう。
「今の、そんなに痛かったか?」
斜め前に立つ同僚がコーヒーの紙カップを片手に、からかうように眉を上げ、自分の目の下を指差す。朔はその仕草に反射するように、指先を自らの目頭へ運んだ。
指の腹に触れたのは、意外な感触――湿り気とザラつき。それは涙だった。眠っている間に流していたらしい。欠伸をした拍子に出た感じでなく、乾いて跡になるくらい目頭から鼻筋にかけて濡れていた。
どんな夢を見ていたのか、さっぱり思い出せない。けれど何か大切な夢を見ていた気がする。とても懐かしく、ひどく愛しい……物、だったのか人だったのか。まるで、目覚めと同時に水に流れたように、思い出せなかった。
(……思い出せないなら、大した事はないのだろう)
納得できない感情を、熱い苦味でもう一度、喉の奥に沈めた。
水無月朔、二十五歳。
都内の中堅IT企業に勤務する、システムエンジニア。
慢性的な人手不足と、終わらない仕様変更に追われて三年。朝も夜も、“開発”と“修正”の往復に消耗し、私生活などというものはとうに失っていた。
家に帰っても出迎える声はない。恋人も、家族も――待ってくれている誰かなどいない。ただ最低限の家具が並んだ一人暮らしの部屋と、押し黙るような沈黙だけが、待っているだけだ。
それでも、彼は生きていられた。
必要とされる場所が、ここにある――それだけで、立っていられた。
朔は、幼い頃に施設で育った。
生まれた日も本当の名前も分からない。拾われた日以前の記憶が無かった。だから拾われた日が「新月」だったことから、彼は「朔」と名付けられた。そして、その日がそのまま彼の誕生日になった。
与えられた名。与えられた日。だが、自分の輪郭は曖昧なまま。記憶は一向に蘇る事はなく、施設での生活・記憶が全てだった。
決して施設での生活で愛に飢えていたという事はない。施設長ほかスタッフの人達は、とても優しく慈しんでくれたと思う。ただ心の奥に何かポッカリと穴が空いたように寂しさと虚しさがあり、幾つになってもその理由は分からなかった。その寂しさを埋めるように誰かに必要とされたいという願いだけが、いつのまにか彼の心を占めていた。
――けれど、その“居場所”さえ、今日で終わる。
そんなことを、このときの彼はまだ知らない。
◇ ◇ ◇
夜の二十時を回った頃、ようやくその日の業務が終わった。
「……ふあぁ……」
欠伸をかみ殺しながら椅子を引き、背中を伸ばす。
PCの電源を落としデスクの書類を片付ける。しわだらけのスーツジャケットに腕を通しながら、まばらになったフロアの人達に聞こえるか否か「お疲れ様です」と声を掛けて、朔は会社をあとにした。
三日間、ろくに眠っていない身体は、すでに限界を迎えていた。
(……今日は風呂に入って、ベッドで寝よう)
寝る、という細やかで当たり前の願いが、まるで遠い未来のように思えた。
外は夜風が吹き街灯の光がアスファルトに滲んでいた。朔はふらつく足取りで駅へと向かう。霞んだ視界。うまく回らない頭。思考回路は停止寸前だ。ただ感覚だけが、奇妙に冴えていた。
点滅を始めた横断歩道の信号に気づいたときには、もう足が動いていた。
(……あ)
光。クラクション。誰かの悲鳴。
白く鋭いヘッドライトが視界を切り裂いた。思考が追いつくより早く、衝撃と同時に身体が空中へと弾き飛ばされる。
瞬間、視界から地面が消えた。
重力が消える感覚――それはむしろ、何かに“すくわれた”ような奇妙な浮遊感だった。
(……こんなふうに、俺の人生、終わるのか)
死ぬと覚悟した瞬間、妙に頭は冷静で痛みは無かった。ただ空気がやけに冷たく感じた。人は死ぬ時、走馬灯が流れるというが、そんなものは流れなかった。ただ浮かんできたのは放置していたバグと、明日の会議資料のこと。
(……最後まで、仕事かよ。俺)
乾いた自嘲が心の奥で鳴った、そのときだった。
――世界の重さが変わった、気がした。
落ち続けているはずなのに、地面がいつまで経っても近づいてこない。思えば人の声もクラクションも、街の雑踏も聞こえない。
(……おかしい。どこまで落ちる?)
体に打ち付ける風を感じながら、まぶたをこじ開けるようにして朔は目を開いた。
そこには、見たこともない空が広がっていた。目を大きく見開き、落ちているのも忘れるくらい見入っていた。
空に浮かぶ島々。空へと吸い込まれていく水の滝。紅く染まった雲の切れ間には、二つの月が重なり合うように浮かんでいる。その雲海の向こう――白銀の鱗をまとう一頭の竜が舞っていた。その姿は、まるで水の中を泳ぐ魔法生物のようだった。流れるような動きで、空を裂き滑空する。
「……夢、じゃない……?」
いや、夢にしてはあまりに――“本物すぎた”。
風の温度も、空の匂いも、五感のすべてが、ここが現実であると告げている。
この世界が現実なら、このまま落ちればいずれーー冷たいものが体を突き抜け、途端に恐怖が押し寄せた。
「たすけて――っ……!」
震える喉から絞り出した叫びが、無情にも空に溶け消されていく。車に轢かれ死んだと思っての異世界転移。助かったと思った瞬間にまた死ぬって何?二転三転する必要ないだろ?
『――何者だ』
死を目の前に愚痴を言いたく成りつつ諦め掛けた瞬間、頭の奥に鋼を擦るような低く重い声が響いた。どこから聞こえたのか、ハッと目を開き辺りを見回す。
視界の端にキラリと上空に輝くものが見えた。雲を切り裂き影が降りてくる。銀の鱗。翼。鉤爪。そして、鋭く澄んだ薄紫の瞳――それは竜だった。
(……知ってる。どこかで、見たことがある)
初めて見るはずなのに、どこか懐かしい感覚。夢か、記憶か、それとも――もっと深い、魂の記憶か。
思いを巡らせる間もなく、竜が牙を剥いているのが目に入った。大きく開かれた顎が、こちらを飲み込もうとしている。
「や、やめてぇえっ!」
叫び、思わず腕で頭を庇い身を固くした瞬間、軽い衝撃と共に風が変わった。
がしり、と何かが身体を掴い包む感触。ゴォーと風が横に流れる。落下が止まり世界が一転した。
恐る恐る、ゆっくりと目を開けた。胸の前にあったのは、自分をしっかりと支える白銀の鉤爪。見上げれば、白銀に輝く鱗と大きな躯体――そして空を滑空する竜の瞳が垣間見えた。
その瞳が、朔を捕え“感情”を宿し見つめていた。
怒りでも、興味でもない。どこか、哀しみに近い――深い、色を持たない光。
「……た、助かった……?」
その言葉を呟いたとたん安堵のせいか眠気の限界か、胸の奥に張り詰めていた何かがぷつりと切れた。
全身から、力が抜ける。瞼が落ちる。意識が、暗く、静かな場所へと沈んでいく。
朔の身体は、白銀の竜の鉤爪に抱かれたまま――静かに、眠りへと落ちていった。