第十話 蒼空を越えて
霊山への出発の朝。まだ陽が昇りきらぬ中庭に、朔は目をこすりながら足を運んだ。荷物は昨晩のうちに準備していていたので、忘れ物はないはず。
以前も来たことがある中庭には、涼やかな朝の風が吹き抜け、石畳の一角には大きな籠が据えられていた。それは気球のゴンドラのような形をしており、底と縁には分厚い革と金属で補強が施されている。
さらに、青藍が鉤爪で掴むための取っ手が、四隅に突き出すように固定されていた。
「……これに、乗るのか」
現実味がなくて半ば呆然と籠を見上げる朔の周囲では、数人の使用人たちが安全に飛行出来るように声を掛け合いながら点検を行っていた。
荷物の積み込み、補強の確認、緩衝材の整備――そのどれもが手慣れており、この籠が何度も使われてきたことが窺える。
「おはよう、朔」
背後から陽騎の声がし振り返る。寝巻きに羽織を肩にかけただけの、リラックスした様子の陽騎が歩いてきた。後ろには、いつも控えている青藍の姿はなく代わりに執事のような黒服を着た初老の男性が付き添っている。
「青藍は後から来るよ。緊張してる?」
「……少しだけ」
後ろを気にしていた朔に気がついたのか、悪戯っぽく笑う。それを見た朔は、自分の気持ちがバレた気がして「別に、そんなんじゃ……」と否定の言葉を小さく消え入るように零した。
「まあ、無理もないよ。初めて空を飛ぶんだろう?」
頷く朔に、陽騎は籠の縁に手を置いて言った。
確かに空から落ちることはあっても、飛ぶのは初めてだ。元の世界でも、ロープウェイや遊園地のジェットコースターには乗ったことはあるものの、ゴンドラのように籠の中に乗り上空を飛ぶというのは経験したことがない。別に高所恐怖症という訳でもなく、少しの緊張とワクワク感が鼓動を早めていた。
「そう言えば、竜に直接乗る訳じゃないんだね」
「竜の背に直接乗れるのは……特別な関係にある者だけなんだ。だから、今回は専用の籠を使う」
言い回しは穏やかだが、何かを濁しているようだった。言えないこともあるのだろう。特別な関係ってことは恋人とか家族なのだろう、と軽く受け流した。
「……そうなんだ」
少し残念な気持ちが掠めたそのとき、空を切り裂くような風が吹き抜けた。視線を上げた朔の目に、ひときわ大きな白銀の影が映る。朝の光を受けて輝く鱗、鋭くのびる翼――青藍が竜の姿で舞い降りてきたのだ。
その姿に朔の喉が自然と鳴った。いつ見ても圧倒される神々しさ。それでいて、美しさに魅入ってしまう存在。籠のすぐ横にふわりと舞い降り、翼を閉じる。
『……乗れ』
薄紫色の瞳と目が合う。低く、くぐもった声が頭に響いてきた。竜の口は開いていない。念話のように、直接意識に語りかけてくる。
朔は頷き、小さく息を吐いて気合を入れると、使用人たちの手を借りて籠に乗り込んだ。籠の中は意外にも安定しており、しっかりと腰を下ろせる構造になっている。寒さ対策のためか、毛布や安全帯も整えてあった。
至れり尽くせり。あとはしっかり自分が薬草採取をしてくること。任せられた仕事はきっちりこなして見せましょう。
朔は安全帯を自分のベルトに繋ぐと、すぐに外に視線を向けた。
バサバサッと大きな翼が羽ばたいて空中に浮いたかと思うと、籠の上空から巨大な鉤爪が籠の四隅の取っ手を確実に掴んだ。
『行くぞ』
その言葉とともに、ふわりと地面から浮き上がる感覚。浮き上がる瞬間だけ、少しぐらついたけれど後は安定していた。かなり気を使ってくれているのではないかと思い、朔は嬉しくなってしまった。
「行ってきまーす!」
気を良くした朔は、高度が増すにつれ小さくなっていく陽騎や使用人たちに、元気よく手を振って叫んだ。
使用人たちも「お気をつけて」と心配そうに手を振り返してくれる。朔は、彼らか見えなくなるまで手を振り続けていた。
風が籠の下から吹き上がり、世界が傾く。しっかりと籠の内側に設置された手摺りを握り、飛ばされないよう気を付ける。重力がふっと消え、空へと突き上がっていく感覚に、朔の心が少年のように踊りワクワクしていく。
「……すごい、すごいなこれ……!」
思わず顔を上げると、雲がすぐそこに見える。竜の鋭い鉤爪に、大きな躯体。こんなに間近に竜の姿を見ることは滅多にないので、朝日に光る鱗が虹色のように輝き、いつもより数倍綺麗だ。
トクン……上空を飛ぶ高揚とは別に、心臓が跳ねる。
(なんだ、これ……)
理由のつかない感情に朔自信戸惑い視線を地上に向けると、木々や城がどんどん小さくなっていく様子に意識がむいて、その思いは奥の方に追いやられてしまった。
「うわっ、速っ……!青藍、青藍!もう、城があんなにも小さく見える。凄いなぁ」
籠の縁に身を乗り出し目を輝かせ青藍に届くように叫んだ。
まるで子供のように無邪気にはしゃぐ彼の姿に、空中を翔ける青藍がフンッと鼻を鳴らした。それが呆れて出したものか青藍も楽しんでいるのかは分からない。
「わぁ〜綺麗。届きそうだ」
朔が籠の中から、朝日の光のへ手を伸ばして掴もうとする。籠の中は安全帯もあるし、振り落とされるという心配はない。
安心して手を伸ばしているのだけれど――あれ?この景色、この感覚。どこかで見た気がする……。記憶を手繰り寄せるけれど、思い出せない。
『……静かにしろ。揺れる』
意識が内に向かっていたのを現実に引き戻すように、冷静な言葉が届く。ふと視線を上に向け、薄紫の瞳と目があう。
「……っ、ご、ごめん」
朔は叱られた子犬のように姿勢を正し、大人しく腰を下ろした。
けれど、その頬にはまだ興奮の余韻と少しの戸惑いが色付いていた。
青藍の竜の目が、ちらりと籠を覗き込む。
その瞳には、言葉にはならない感情の揺らぎが微かに宿っていた。
だが誰にもそれを悟らせることはないまま、朔を乗せた青藍はさらに高みを目指して、空を翔け続けていった。