Prologue ――空の背にいた日
——夢の記憶
ヒュウ――、と風が鳴いた。
ゴウ――、と空気が揺れる。
耳を切り裂くような風音の中、少年の小さな身体を撫でる風は、なぜか不思議と優しかった。
冷たさも痛みもない。ただ柔らかな羽毛に全身を包まれるようにして、彼の存在が空に受け止められていた。
空を飛んでいる。
それだけは、確かにわかった。
何か、大きなものの背に乗って。高く、高く。
眼下に広がる雲海は、綿のようにふかふかと膨らみ、ゆっくりと流れていく。
その向こうには、金と紅に染まる空。朝焼けとも夕焼けともつかない不思議な光景だった。
虹色の光が、斜めに射し込んでいる。
少年は、目を細めて小さく呟いた。
「......きれい」
その声は風に乗って空へと溶けた。
小さな手が空へと伸ばされる。
まるでその光を、世界そのものを掴もうとするように。
指先に、太陽の熱が触れた気がした。
だが届きそうで、届かない。
そのときだった。
『突風だ、捕まれ!』
低く、くぐもった男の声が頭の中に響く。
耳ではない。意識の奥深くへ届くような声だった。
反射する間もなく、空気が一変する。
風が牙を剥いた。暖かかった風が冷たく鋭利な刃へと変わる。
空が、世界が、敵意を持って襲いかかってくる。
少年の体がふわりと浮いた。
背にあったはずのぬくもりから、無造作に放り出される。
視界が反転し、地と空の境がわからなくなる。
瞼が風圧で押し返され、目が開かない。
肌が裂けるように痛み、息すら吸えない。
重力が容赦なく彼を地へと引きずっていく。
仰向けに身体をひねった瞬間、彼の目に映ったのは——
白銀の影。
空を裂くように飛ぶ、ひとつの竜。
その鱗は陽光を浴び、宝石のように煌めいていた。
その背に、いたはずだった。
温かくて、柔らかくて。安心できる場所。
けれど、今は。
遠く、遠く、離れている。
口を開こうとする。
名前を呼びたかった。
けれど、声にならない。
思い出せない。
知っているはずなのに、呼べない。
竜の咆哮が響く。
けれど風に掻き消され、耳に届かない。
『――××××......!!』
音が途切れても、気配は伝わってくる。
自分を呼んでいる。
そう、自分の名前を——
彼の体は落ち続ける。
雲が近づく。冷たい白が視界を覆い尽くそうとする。
その刹那、少年の唇が震え、淡くつぶやく。
「......また、落ちるんだね」
あきらめにも似たその言葉。
だが、次の瞬間。
視界の端に閃いた光。
白銀の竜が雲を突き破って降下してくる。
風を裂き、光を抱いて、一直線にこちらへ向かってくる。
初めてのことだった。
今までは、ただ落ちて、終わっていた夢。
でも、今回は違う。
誰かが、追いかけてきている。
意識の輪郭が朧げなまま、少年は目を見開いた。
竜の口が開かれ、呼吸のように咆哮が溢れる。
その声は、なぜだか懐かしかった。
——あのときと、同じだった。
太陽の下、背に抱かれ、空を舞っていた記憶。
あたたかさ。安らぎ。あの声。
たしかに、そこに“誰か”がいた。
でも、思い出せない。
声も、顔も、名前さえも。
竜の鱗が七色に輝く。
その光が、少年の胸の奥に、鋭く突き刺さる。
『――サク!!』
ドクン、と心臓が跳ねた。
今度こそ、聞こえた。
自分の名前。
自分を呼ぶ、たった一つの声。
視界が崩れ、音も光も遠ざかる。
風が引き、闇が世界を覆っていく。
その直後。
青年は、目を覚ました。