第五十五話 もう一度
視界がぐにゃりと歪む。
一体、何をしているんだ、私は。こんなモンスターの咆哮如きで眩暈がするなんて…………
鉄の擦れる音、鉄砲と大砲の音、橙色の炎を煙でいっぱいになった空に向かって揺らめかせながら燃え崩れる建物の音を散々聞いてきた。あっちの方が、いつ自分に迫ってくるか分からない、いつどこで爆発するか分からないという状況でよほど怖かったはずなのに。
「………………!」
足元の雪を見て、一気に血の気が引いた。
湿った雪原の上に、純赤の血が広がっていた。
見ると左腕の皮膚が避け、その下の肉を奥深くまで抉り、抉られたそれの壊れた血管から血が滲み出して溢れ、そして足元の雪原の一部を赤黒く変えていた。
このぐらい、いつもだったら痛くもなんともない。痛み慣れした私の体は他の人なら絶対痛がるはずの痛みにだって動じない――はずなのに。
何故だか、今の私は、そのいつもならが全く通用していない気がした。
切られた周辺が早まる心拍に合わせてズキズキと痛む。私は片手で杖を持ち、その傷を抱えたまま、ただ立ち尽くす。
再び、モンスターが牙を剥いた。
再び大きな口が開かれる。
再び喉の奥から、漆黒の魔力の塊でできた光線が――飛び出した
雪原の上を漆黒の光がとても逃げることのできないほどの速さで撫でていく。その度に積もった雪が舞い上がって雪煙となって、私の長い茶髪をはためかせた。
体に当たるギリギリでジャンプしたり、体を反らしたり、屈めたりして交わす。当たりどころの無くなった闇の光線は辺りに生えている木の幹に当たって砕けていった。
攻撃をする暇すら与えてくれない。そして、この腕の傷を治す隙も、どうすればいいのか考える隙すら与えてくれない。
私はただひたすらに避け続けた。
何度目かの回避動作の最中、踏み出した足裏に、嫌な感触が伝わった。
ぎゅ、と雪が潰れる音。だが、いつもの確かな踏み応えがない。
湿った雪の下に隠れていた氷の層――気づいた瞬間には、もう遅かった。
足が、横に流れる。
「――っ!」
体勢を立て直そうと杖を突き立てるが、先端は雪を抉るだけで止まらない。視界が大きく傾き、空と地面が反転する。
背中から、雪原に叩きつけられた。
肺から空気が一気に押し出され、声にならない息が漏れる。衝撃で左腕の傷が悲鳴を上げ、鈍い痛みが一段強く弾けた。
起き上がらなければ。
分かっているのに、体が言うことを聞かない。
その一瞬の停滞を、モンスターは見逃さなかった。
耳をつんざく咆哮。
雪を震わせる重い足音。
そして――影。
見上げた視界の先で、再びあの大きな口が開かれているのが分かる。喉の奥に集まる、嫌になるほど濃密な漆黒の魔力。
避けられない。
そう理解した途端、時間が、奇妙に引き延ばされた。
だんだんと本当に危機感を感じた。
練習のはずだ。だからなんとかなるはずだ、と思っていた自分が甘すぎた。
「お願い……ルミナ…………たすけて……たすけて…………」
助けを求めるのはずるい、自分で対処しなければ、という思考と、助けを求める心が混在する。
漆黒の光線が、視界いっぱいに迫る。
――全身を打ち抜く衝撃
音も、痛みも、遅れてやってきた。体の芯を貫かれるような感覚に、思考が一気に白く染まる。雪が舞い上がり、視界が闇と白に塗り潰されていく。
熱いのか、冷たいのかも分からない。
「勝てるわけ、ない。光が……闇に、なんて……」
ただ、意識が、ゆっくりと沈んでいくのを感じた。
✳︎
ううん……光だって、闇に勝てる隙は必ずあるよ。
――ルミナ?
ルミナの声がした。
暗闇に閉ざされた空間。遠くの方が、明るくなる。私に背を向けて立つ少女の淡い茶髪が優しく揺れている。
『お願い、ルミナ……助けて……』
私がいくら心の声で語りかけても、彼女には聞こえないことは分かっている。
声をかけても彼女は来てくれない。それどころか奥に広がる明るい方へと進んでいってどんどんその背は小さくなってゆく。
『待って……!!』
腕を動かしても、体を捻っても、私の体は全く前に進まない。
『なんで、助けてくれないの……?練習じゃあないの……?少しぐらい助けてくれたって、いいじゃないか……』
私の心から発せられる声が、SOSから憎しみに変わっていくような気がした。
『スパルタにはしないって、不安なことは全部拭ってあげるといったことも言っていたのに……この、裏切り者……』
『その心だと、勝てないよ』
遥か遠くの方の彼女の声が、きっぱりとそういうのが聞こえた。
『私が言ったこと、教えたこと、まるっきり分かってない。ただ逃げるだけ。ただ攻撃するだけ。極め付けには相手を酷く憎む。そんなんじゃ、勝てない』
その言葉は、私の傷をさらに深くまで抉る。腕の傷だけではない。今まであのモンスターに浴びせられた攻撃で付けられた傷が強く痛み出した。私の視界は赤く染まっていき、暗闇の地面を手で掴む感触は湿っていて、ベトベトしていて、そして鉄の香りがする。
『光が闇に勝つ方法――思い出して』
『………………!』
しばらくして、そっと、手を差し伸べるような優しい声音が脳内に響いた。
ルミナに教わったこと。
光は、憎しみの塊では生み出せない。
………………光は多くの人を優しさの塊で温めることで強くなっていく。
そこには多少の憎しみがあるのは当然だけれど、憎しみ百パーセントの魔術の中には、自分の意図しない魔力が大量に用いられてしまう。
難しいかもしれない。特にリトル、あなたにとっては。でも私がそれを言うのは、あなたが光属性の特性を持っているからなのよ。
そうだ…………思い出した。
必要なのは、恐怖でも、それによる怯えでも、相手に対する憎しみでもない。
相手を思い、立ち向かうその強い心だ。
✳︎
目の前に、モンスターの犬歯が迫ってきていた。噛まれたら終わる。
私は必死に血で染まった雪原を掴んで全身に力を込めて立ち上がった。意識を失って倒れ込んだせいで、雪解け水を吸った服が重いのも気にせず。
そうして、傷を庇っていた手を離して、両手でしっかり杖を握りしめる。
杖の中で、先程とは違う魔力の流れを感じた。
なんだろう、どこか暖かくて優しい。
ガルルルルゥ…………とモンスターは低く唸り声を上げ、まだなお余裕そうに私を見下ろす。
まだ、少しだけ心臓が高鳴っている。
何度か深呼吸をした。周りの冷え切った空気が肺を冷たくさせる。脳からの不安と緊張が全身に広がって、心臓をキュッと引き結ぶ。
それでも私はしっかりと、モンスターの血赤に輝く瞳を見つめた。
もう一度。
ただ逃げるだけでも攻撃するだけでもない、ほんの少しの練習の成果を、私の最大の力を。発揮する…………
私の気迫が変わったのを察知したのか、モンスターは更なる攻撃を繰り出してきた。
もう、もはやそれはただの漆黒の光線ではない。毒々しさを纏っている。
右に左に私は避ける。
雪原に当たって弾けてを繰り返し、雪を溶かして地面を焦げ付けせるほどの威力に変化した。
よし、今だ……!
私は大きく踏み込み、雪原を蹴った。
ぐしゃり、と雪が潰れる感触と同時に、体がふわりと浮く。重力が一瞬、曖昧になる感覚。胸の奥がきゅっと締めつけられ、喉が鳴った。
――あの時と同じだ。
脳裏に、はっきりとした光景が浮かぶ。
ルミナが空中で軽やかに身を翻し、笑うような余裕を浮かべながら杖を振り抜いた姿。雷光をまとい、宙を舞いながら放たれた『サンダーショック』。
その時の私は、ただ真似をしようとして失敗した。
空中で魔力の流れを制御できず、バランスを崩し、情けなく地面へと落下しただけだった。
――でも、今は違う。
私は、無意識に歯を食いしばっていた。
怖い。正直に言えば、まだ怖い。
このまま落ちたらどうなるか、失敗したらどうなるか、考えれば考えるほど足元が遠く感じられる。
それでも。
杖の中を流れる魔力は、乱れていなかった。
冷たい雪原の中で、確かに“温かい光”が、私の意志に応えるように脈打っている。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、私は小さく呟いた。
恐怖を押し殺すためじゃない。恐怖を抱えたまま、それでも前に進むための言葉。
空中で、私は体をひねる。
視界の端で、モンスターの漆黒の光線が再び放たれるのが見えた。
避ける。
――ただし、逃げるためじゃない。
身体を流れるように回転させ、光線の軌道を紙一重でかわす。同時に、杖を両手で強く握りしめる。
雷属性の魔力が、私の中で弾けた。
バチッ、と空気が裂ける音。
淡い金色の光が、雷となって杖の先に集束していく。
その瞬間。
視界の奥で、ルミナの姿が重なった気がした。
空中で微笑み、迷いなく技を繰り出す、あの背中。
――一人じゃない。
『サンダー……ショック!!』
叫びと同時に、杖を振り抜いた。
雷光が、空中から叩き落とされる。
一本ではない。幾重にも重なった光の奔流が、一直線にモンスターへと突き刺さった。
轟音。
空気を割く音。
雷光が直撃した瞬間、モンスターの巨体は硬直した。
血赤の瞳に走る亀裂。漆黒の魔力が悲鳴を上げるように逆流し、身体の表面から細かな光の粒が剥がれ落ちていく。
ガ――――……ッ、
喉奥から掠れた音だけを残し、黒い輪郭は崩壊を始めた。肉体という形を保てなくなった魔力が、雷に焼かれ、風に砕かれ、雪原の上で淡く輝く灰へと変わっていく。
チリになったそれは、熱を失った火花のように宙を舞い、やがて音もなく消え去った。
そこにはもう、敵の気配はない。
――勝った。
理解した途端、張り詰めていた力が一気に抜ける。
浮遊していた体が、重力に引かれて落ち始めた。
「……っ」
反射的に体を丸め、杖を抱え込む。空中で一度、体をひねり、背中から落ちないよう角度を調整する。
ドサッ、と雪に落ちる直前、片膝と手で受け身を取った。
衝撃はあったが、致命的ではない。雪がクッションになり、体は前へと転がって止まった。
そのまま、しばらく動けなかった。
荒い息が白く空に溶ける。心臓の鼓動が、ようやく少しずつ落ち着いてくる。
左腕の傷がズキリと主張したが、さっきまでのような絶望的な痛みではなかった。
私は仰向けになり、雪原の空を見上げる。
鉛色だった雲の隙間から、淡い光が差し込んでいた。
「……できた……」
呟いた声は、驚くほど弱く、それでも確かに自分のものだった。
指先に残る、あの温かい魔力の感触。
私は杖を胸に抱き、目を閉じた。
✳︎
サク、サク、と優しく雪を踏む、別の足音がして、私はそっと体を起こした。
「よくやった、リトル」
「…………!」
その声を聞いて、急に胸が、瞼が鼻の頭がじんわり熱くなった。喉の奥がピンと張る。そしてじわじわと瞼の奥から涙の膜が浮かんできて、視界が滲み出した。やがて弾けて頬の上を優しく撫でるように伝って、雪原の上に一滴、二滴……と零れ落ちる。
「遅いよ……ルミナ……」
ようやく見れたルミナのぎこちない笑みに、生きてそして一人でモンスターを倒せたのだということを実感した。
「なんで、追い詰められて意識を失ってもなお、助けに来てくれなかったの……?」
ルミナのことは責められないけど、なんだか複雑だった。
――大丈夫、私はアネモスほどスパルタ指導にはしないよ
全然スパルタだよ……いや、想定外だったのならしょうがないか……。
ルミナはその場でそっとしゃがみ込み、私の雪を被って冷たく濡れた頭に手を伸ばし、私の目をしっかり見て、そして、言った。
「リトルなら大丈夫だって、信じていたから」




