第四十七話 幸せな、夜の空気
ほのぼのまったり……
ご飯を食べて、久しぶりすぎる本物のシャワーを浴びる。いつぶりか分からない。シャワーを浴びたということすら数えるのも面倒なほど遠い記憶。
研究所にいた時は週に一回……ここにきた時は毎日、当然シャワーぐらいは浴びてるし、研究所ではほぼほぼ洗濯してくれなかった服は、今はちゃんと毎日洗濯している。なにせアネモスの施設には、生活で欠かせない全てのものが揃っているから何も困ったことはない。
ただ……そのシャワーの水は、自然から湧き出る水ではない。全て魔力を固めて作ったに過ぎない、人工的な水だった。
今浴びているのは、自然の水だ。蛇口を捻って、水圧で勢いよく飛び出す水の粒。それを全身に浴びる。川から浄化された水が水道管を通って、今全身に浴びている。
――あぁ……気持ちいい。
この国にもやはり浴槽というものはない。浴槽なんかに浸かれるのは、貴族とか、そういう人間だけだから、通常の国民の家はどこもシャワーだけだ。でも、浴びれるだけマシだ。
なんて、幸せなのだろう。
たった一本の、今にも切れそうなほど脆い糸の上に立つ幸福を全身に浴びる。一個も取り逃がさないように……。
「ね、リトル。今日は皆でベッドの上で寝られるの?」
風呂から上がって部屋に行くと、リアが飛び出してきた。
「うーん……?そうね。いいんじゃないかな?」
施設にいる間、部屋が個室で分かれているせいで、五人一緒になって布団の上で寝た回数は少ない。岩の上、木の下、洞窟の中、鉄格子の檻の中。一緒に寝た記憶があるとしたらこのどれかが一番多い。冒険者時代は一緒に寝てたけれど、本当に指で数えられるぐらいの回数だ。
「ね!アネモス!いいでしょ?」
部屋の中で転がるようにくつろいでいたアネモスが頭だけあげてこちらをみる。
「いいよ。そのための大部屋だから!」
「やった!」
リアはその声を聞いて早速、敷布団を引っ張り出してきて、その上にダイブするように寝転がり、足をバタつかせ始める。すぐにスケールが、嗜めるように、その足を優しく掴んで静止させたのが目に入った。
「ねぇ、ソルフィアも一緒に寝ようよ」
うん?ソルフィア?
リアの視線の先、見ているのは私……ではなく……
「ひぇっ……!」
心臓がドクッと大きく跳ねた。魔力や研究員特有のオーラすらも完全に仕舞い込んだ彼が、音も無く私の真後ろに立っていた。
「ねぇ!びっくりさせないでよ!」
勢いよく振り返って、彼に向かって言ったはずが、ソルフィアは軽く目を瞬かせるだけで全く動じない。
「別に驚かせてはないはずだが……」と小さく言うのが聞こえた。
「ねぇ、ソルフィア!おいでよ!」
そんなことはお構い無しにリアが満面の笑みで手招きする。しかしソルフィアは静かに瞑目し、数秒の間の後、口を開いた。
「…………すまないが、俺は後で行く。やることがあるんだ。少しの間だけ時間が欲しい」
「………………」
こちらを見つめるリアの笑顔が少しだけ崩れる。
「後で行くよ。先に寝てていいから」
彼はそれだけ言い残して、廊下の奥にあった、もう一つの部屋へと消えていった。
私はその背中をただ見つめるだけで、止めようとは思わなかった。
✳︎
「アネモス。明日は何をするの?」
まだ眠くないのか、ずっと起きているルティアが、話し相手を探るようにアネモスに声を掛ける。
スケールは眠そうだし、リアはもう既に静かな寝息を立ててぐっすり眠っている。まだ明日のことについての話すらもしていないのに。それにまだソルフィアは来ていない。一緒に寝ると誘っていたのに、待っているうちに眠くなってしまったらしい。
「明日は、施設に帰る。明後日からまた施設生活に戻るわけだから。それに帰らないと、ここから施設まではだいぶ距離がある。まだ言っていない場所とかも通りながらゆっくり帰ろうと思う」
アネモスは布団の上で地図を広げなから、その上を指でなぞっていく。ルートでも確認しているのだろうか。
「まあ、転移使っちゃえば楽なのは楽なんだけど、それだと一瞬すぎてつまらないでしょ?」
アネモスの魔力。一体どこからそれだけの量が生み出されるのかすら分からないほど多量の魔力を抱えている。私なんて一時期は雷属性魔法一発で地面にへたばっていたのに。
「…………ねぇ、アネモス。どうしてそんなに余裕なの?」
と、私が疑問に思っていた時、ルティアが同じようなことを質問した。
「まあ、使えば使うほど魔力の総量は上がっていくからね」
「そうなの……?」
言われてみればそうなのかもしれない。今の私がどのぐらいの能力を行使できるかは分からないが、少なくともあの時より動ける時間は伸びたし、使える魔法の種類も増えた。
治癒力は魔法とは違うからなんとも言えないけれど、以前は一人治癒するだけで息が上がって苦しかったのが、今では全くそんなことはない。
慣れ、というものなのか……?
「…………まあ、魔力を増強させる魔法とかもあるから、明後日以降、それぞれ教えてもらいな」
「それぞれ……?アネモスは?」
私は、それぞれ、というのに単純な引っ掛かりを感じた。
「今までは一気に四人分指導してきたけれど、属性によって違う部分があって、私も正直なところ、氷と光は分からない。リトルちゃんならルミナに教わるのがいいと思うしで……」
「そっか」
「教えたくないわけじゃないよ。ただ、ちょっとやりにくさもあるから。魔法には特性がある。そういう作りである以上は……」
アネモスの語尾が少しずつ萎んでいく。迷うような口調に、でも私は納得した。
理由はとてもよくわかる。無理に教えろという義理はない。
「明日は、村の方でも渡って行こうかな」
地図をなぞっていたアネモスの指が一点で止まる。
「村……?何かあるの?」
ルティアが身を乗り出すようにして聞く。
「いや、何かあるというよりも、通り道だから寄っていくっていう感じ。美味しいもの色々調達できると思うし、素材とか、そういうのも」
なるほど。そういえば、私は村というところにすら、生まれてから一度も行ったことはない。そういう意味では研究所での四年間は本当に長かったと思う。
だんだんと夜の色が濃くなっていく。太陽が沈んで時間が経つと、肌寒い空気で満たされて、風に乗ってカーテンの奥。数センチほど開いた窓の外から運ばれてくる。その風を受けていると、だんだん眠たくなってきた。
ソルフィアはいない。でもまあ、彼のことだし勝手にこっちにくるだろう、などと思いながら、私は布団に入った。
✳︎
「いてっ……!」
腕の辺りを、鋭利なものが掠めた感触がして、神経がピクッと動く。私はそれで目が覚めた。
なんだ?と思い、チラリと横を見る。と……そこに、私よりもずっと大きい男の体が、私とアネモスの布団の上に覆い被さるようにあった。腕を掠めた、尖った感触は……角だ。
「ソルフィア!ねぇ!」
全く、と少々呆れながらも、体を起こす。
夜とは違う空気感。暖かな、日の光。少し湿った冷たい空気。でもそれも、日の光で少しだけ温められて、刺すような冷たさはなく、ほんのりと温かい……。
朝だ。
「ん……?あ、リトル。おはよう……」
唐突に眠そうな声がした。いつもの声よりもより低い、少しだけ掠れた声。
瞼が小さく揺れ、潤った血赤の瞳が覗いた。
「ねぇ、ソルフィア!痛いってば!」
動くたびに刺さる角の先端の感触に、私はその角を折ろうと本気で思い、彼の角を強く掴んだ。
艶々の黒い角。硬く、立派だ。
「あ、ああ、すまない……」
ようやく状況に気づいた様子で、面倒くさそうにしながらも、再び生えた角は二本とも綺麗に折られて無くなった。
それからしばらくして、私とソルフィアの声に気づいたのか、他の四人も起き出した。
スケールは「なんだかすごい寝てしまったな」などとぼやく。確かに彼がこんなにも気持ちよさそうに寝ているのはあまり目にしない。それに、これだけ疲れて一番最初に寝込むというのもまた珍しいことだ。
「じゃあ、ルティアとリトル以外には言ってはいないけれど、今日は近くの村を辿って資材を調達しながら施設に帰るということで!」
身支度も終わった。
さぁ、今日も清々しい一日を過ごしていこうか。




