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絶望の世界に、光を   作者: しらつゆ
第四章 隣国・ミリステッド国 保護編
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Side研究所8 企み




 どうすれば、いいのだろうか。


 俺一人の力で、リトルたちを救うことなどできはしない。


 今日もまた、ただの研究員として研究所に立ち、日々の業務を淡々とこなす。それだけのことなのに、今ではその一つ一つの動作が、無数の刃のように俺の心を傷つけていく。白衣にこびりついた赤黒い染みを目にするたび、胸の奥が強く締めつけられた。


 以前の俺は、それを何とも思わなかった。感じなかった。――それが、今は恐ろしい。


 「人間の心」を取り戻したことで、俺は、二度と後戻りのできない苦しみに堕ちた。

 長から日々注がれる支配の声。その鎖に耐えながら、理性を取り戻した目で、自らが行ってきた残虐を振り返るたび、二重の苦痛が俺の精神を蝕む。


 救いたい。今もなお彼らに対して、優しさを持って接しようとしている。だが――彼らの瞳は、二度と戻ることはない。むしろ日を追うごとに、群青の冷たさを濃くしていく。

 当然だ。俺は、つい先日まで笑いながら彼らに毒を注ぎ、その苦悶の声を聞き流していた人間だ。そんな俺が、今さら優しさを見せたところで、信じるはずがない。


 塗装すらされておらず、コンクリートの壁が剥き出しになった廊下。灯りもないその場所で、俺は壁に手を突き、膝から崩れ落ちた。頭に生えた角が深く壁を削る。灰色の壁に白い傷が刻まれる様が、目で見えなくとも分かった。


 ――俺は、逆らえない。

 逆らって、もし俺が殺されたら……あの子たちはもう、誰にも救われない。拷問実験を繰り返され、そして行き過ぎた方法で彼らを殺し、残った治癒力結晶を掻き集め始めるだろう。命が絶たれた後であっても治癒力結晶は生成され続けるためだ。


 今まで、彼らを本気で救おうとした研究員を、俺は一人たりとも見たことがない。ならば――やるしかない。俺が。



『ソルフ。お前、何をしているのだ。こんな場所で』


 長の声。だがもう、反応する気力すら残っていない。


『答えろ。ソルフ』


「……………………」


 耐えろ。これは、支配に屈しないという意思の証明でもある。


 けれど、声が、鎖が、徐々に強くなる。締めつける力が強く、深く――


『指示が聞けないか!!』


「あっ……うぐっ!!!!!」


 怒声が響き、胸の奥が灼かれるように痛む。


「くっ……うぅ……」


 支配――これほどまでに苛烈なものだったのか。

 身体が軋み、内部から破壊されていく感覚。

 血が熱を持って暴れ、胸を押さえた右手がじわりと濡れていく。


 何か掴むものが欲しい。

 俺の左手は咄嗟に角を掴んだ。無意識に力が入り――ボキッ、という音が響いた。角の根本にも張り巡らされた神経が跳ね上がり、痛みに震える。


 それでも、諦める気にはなれなかった。この程度で死んでたまるか。こんなもので、俺の意志は折れない。


「っ………………!!!ソルフ……!!!」


 ふいに周囲が明るくなった。誰かが来たのか。こんな時に?

 この狭い廊下を通れるのは一人だけだというのに。

 その声を、俺は知っていた。耳の奥で共鳴する、柔らかい波長――


「君は……テルヌか」


 ひどく冷静な声が出た。数回深呼吸をして、気を落ち着ける。すると不思議なことに、さっきまでの痛みがほんの少し和らいだ。


「ソルフ……大丈夫……?」


 心底不安そうな顔でテルヌが問いかける。

 彼女の纏う香気は、他の研究員のものとは違っていた。柔らかく、穏やかで、何より――優しい。


「ああ、俺は平気だ。悪いな、タイミングが悪かった」


「……支配を、かけられていたの?」


「……長の気まぐれさ」


 この痛みも、奴にとってはただの遊びの一環に過ぎない。


 テルヌの持つロウソクの光に、震える両手をかざす。掌は自身の血で真っ赤に染まり、俺は思わず言葉を失った。


「ソルフ、何をしていたの」


 彼女は俺の正面に静かに座ると、まっすぐ問いかけてきた。

 俺はすべてを話すことにした。少しずつ、慎重に、そして正直に。


「……あの声を……聞いたんだ。彼らの心の叫びを」


 俺は白衣の内側から、一台の機械を取り出す。血の滲む手でそれを握りしめる。


「彼らは、言葉を口にできない。痛みを受けても、恐怖に襲われても、『痛い』と叫ぶことすらできない。でも、心の中では――喉が裂けるような叫びを、絶え間なくあげている」


 リトルの泣き声、ルティアの絶望。スケールの無言の苦痛――俺は今も、それを聞いている。


「……私も、聞いてみてもいい?」


「……聞くのか?」


 君のような優しい者が、この声を聞いてしまえば――


 それでも彼女は、うなずいた。


 俺は静かに機械を作動させ、テルヌに繋ぐ。


『痛い痛い痛い……やだ、やだ、やだ、死にたくない……!!!』


「っ……!」


 彼女は凍りついたように目を見開き、手を震わせる。

 まさか今この瞬間にも実験が――声が聞こえるのは、リトルのものだけだった。ルティアとスケールの心は沈黙し、ただ冷たい“無”だけが響いていた。


「なんて……ことを……」


 その彼女の呟きに、俺は他の誰とも違う何かを感じた。


「なあ、テルヌ。お前は、この声を聞いてもなお、彼らに危害を加えたいと思うか?……とはいえ、俺たちに逆らう自由はないのだが」


「私……なんで、こんな場所にいるんだろう……」


 彼女は、俺と同じように膝から崩れ落ちた。冷たい床に手をつき、呟くように言った。


「……この機械を使えば、『人間の心』が戻る。だがその代償として、自分の罪が容赦なく降りかかる。それを……すまない。君は優しいから」


「それでも……リトルだけでも、感情を取り戻せるかもしれない。私は……そう思う」


 それは微かな囁きだったが、確かな決意の響きを持っていた。


「お前も、死ぬ覚悟か」


「……私はね、もうこの場所にいるのが苦しくて。

 何度も、自分の短刀で手首を切ろうとした。でも、できなかった。彼らに、見られている気がして……どうしても、手を動かせなかった。だからせめて――彼らが、幸せになってくれるのなら、それだけで、私は」


 彼女の言葉は震えていなかった。ただ、静かに、強く響いていた。


「きっと、それが……今の私の、生きる理由なんだと思う」


 その顔に、どこか安堵の色が見えた気がした。


 ――決めた。

 この女と手を取り、共にリトルたちを救う。


 だがそれは、確実に誰かの犠牲を伴う。

 逃げた時点で、必ず長に察知され、処刑される。

 支配の呪縛を受けている以上、それは避けられない。


「分かった。俺も協力しよう……だが、見た通り、俺は長の支配が深く刻まれている。だから頼む。君が囮となって、彼らを逃がしてくれ。後は、俺が引き継ぐ」


「――私は、最初から支配に屈するような人間じゃないわ。やるべきことがあるなら、私はそれをやる」


 その日――


 長への“企み”が、静かに幕を開けた。





これで一話のシーンへ繋げていきます。次回もSide研究所続きます

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― 新着の感想 ―
なるほど、ここから1話につながって来るわけですね。 二人がどうやって、今の状態まで持ち込んだのか楽しみです
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