side研究所6 冷徹な心
これは、ラリージャ王朝の研究所で起きた話。
ーーラリージャ王朝研究所・研究員視点ーー
リトル達の治癒力結晶を分析していた時だった。
淡い光を帯びた結晶が、ガラス皿の上で静かに脈打っている。内部で微粒子が流動し、ゆらゆらと揺らぐ様は、まるで小さな生命の鼓動のようだった。触れれば壊れそうなのに、同時に途方もなく強い力を秘めている。
その時――
地の底から突き上げるような声が、研究棟を震わせた。
『全ての研究員よ、職務室に来い。報告がある』
空気が一瞬で変わる。
鼓膜が震え、背骨を冷たいものが走った。
声というより圧だ。命令というより、決定。その瞬間、俺達は“行く”ことが確定する。逆らうという発想は、浮かぶ前に消える。
試験管を持つ手が震えた。落とすな、と自分に言い聞かせる。割れた音が響けば、それだけで処分理由になる可能性がある。
喉がひりつく。
嫌な予感が、はっきりと形を持ち始める。
これは、ただの報告ではない。
廊下は薄暗かった。灯りはあるはずなのに、影が濃い。壁に掛けられた装飾の金具が赤く反射し、まるで目のようにこちらを見ている気がする。
足音が妙に大きい。
呼吸が浅い。
額から冷たい汗が落ち、首筋を伝う。
――次で最後だ。
怒り狂った長の声が、昨日の記憶のように鮮明に蘇る。
ソルフィア。
あいつが研究所を離れてから、長の機嫌は明らかに変わった。
リトル達と共にいるという報告。捕らえもせず、遊んでいるという噂。長の支配を真正面から受けながら、死なない男。それが、長の誇りを傷つけている。
職務室の扉の前で一瞬足が止まる。
ほんの数秒。
だが、その遅れは取り返せない。
扉を押すと、ぎし、と重い音がした。
中はかなり暗い。
壁際に灯された赤い燭台が、ぼんやりと空間を照らしているだけだ。
四十名ほどの研究員が、狭い室内に押し込められている。
全員、片膝を立て、頭を垂れている。漆黒の太い角が一斉に前方へ向いている。
角の先端には赤い光。支配の証。長に絶対逆らえない印。
俺も慌てて後方に紛れ込み、同じ姿勢を取る。
その瞬間、空気がひりついた。視線ではない。だが、確実に睨まれた。俺が遅れたことを、空間そのものが咎めている。
「気づかれないとでも思ったか? エルシス」
低く、静かな声。
背中が凍る。名を指されるだけで、胸が締め付けられる。見ていないのに、見透かされている。今長の赤い瞳は、闇の奥で光っている。
「申し訳ござ――」
「言い訳は不要だ」
淡々とした声。それ以上の叱責はない。それが逆に恐ろしい。本当に怒っている時、長は余計な言葉を使わない。そして、それは、支配を発動する直前の印でもあった。
重たい沈黙。
やがて、長が言った。
「ラリアが死んだ」
室内に小さなざわめきが走る。抑えた息の音。
副所長ラリア。
長の最も信頼していた女。
忠実で、冷静で、強かった。
彼女が死んだ。
今、長は自らの口からそう言った。
「俺のお気に入りだった」
ドン、と何かが床に叩きつけられる。衝撃が足元に伝わる。
「だが死んだ」
怒りが空気を揺らす。
「だが、ソルフは生きている」
長の声が、皆、口を閉ざして静寂に包まれる空間に響き渡る。それがどんどん地を這うように低くなっていく。
「何故だ」
長の質問に誰も答えられない。
「何故、俺の支配を受けて耐えられる」
その名を聞くだけで胸が痛む。
ソルフ。俺の研究仲間。今は外でリトル達と共にいる。捕らえることもせず、笑っている。長の命令を拒みながら。それでも、生きている。
それが、長には許せない。
「思い通りにならぬ」
低い声が漏れる。
「捕らえられぬ。処分できぬ」
空気が重く沈む。
「……許さん」
その時だった。
「……なぜ、そのようなことを……」
長以外の声が封印された空間で、どこからか女性研究員の声がした。震えている。
「私達の研究は、彼らを殺すためではないはずです。治癒力を解明し、発展へ繋げるための――」
言い終わらないうちに、彼女の体が硬直した。
「……っ」
小さな声。その次の瞬間。
「い、痛い……!やめて……!」
重たい物が、地面に押さえつけられるような音がした。床が衝撃で小さく揺れた。
「ああああああああっ!!」
その叫びは、部屋の壁に反響した。何人かの研究員が思わず顔を上げかける。俺の体はその場で硬直していた。顔を背けてはいけない。聞かなかったことにしてはいけない。ここから逃げるなんてもっての外だ。
どこかで誰かが小さく「やめろ……」と呟いたのを聞いた。それに続くように別の誰かが震えながら「長……お許しを……」と声を漏らす。
空気が揺れる。動揺が広がる。
それはほんの一瞬だったが、確実にあった。
恐怖だけではない。
怒りと、絶望と、混乱。それがここに集まっている研究員の喉の奥から絞り出された声になって、波紋のように広がっていく。
だが次の瞬間。
「黙れ」
一言だった。たったそれだけで、全員の体が強張る。
あれだけざわついていた波が一瞬にして静まる。
女性の苦しむ声と、その女性の骨が砕ける音と、内臓が捻りあげられるような不快な音だけが取り残された。
誰も動けない。空気が重い。血の匂いが広がる。体を動かせない。動かせば、支配が締め付ける。
やがて、その悲鳴も消えていった。ただ、鉄の香りだけがそこに残り続けた。
長が、俺からは見えないところでわずかに笑った気がした。血赤の瞳の下で浮かべた、長の冷たい、薄い笑みが想像できる。
「理想を語るな」
静かな声。
「理想は、支配できる者だけが持つ資格だ」
そして、告げる。
「お前達ももう要らぬ」
その一声にざわ、と空気が揺れた。
「どうせ俺に反感を抱いているのだろう。そしていつか確実にここを出ていく奴が複数出てくる……ソルフィアのように」
「違います……!」「そんなこと……!」「私達は忠実です……!」長の声に反応した研究員の悲痛な訴えが重なる。
恐怖に濁った懇願。それがだんだん涙混じりの声へと変わっていった。
「死にたくない……死にたくない、死にたくない!!」
だが長は、楽しんでいるように感じた。吐き出される息に微笑が含まれているから。
「不要な部品は廃棄する。抵抗したって無駄だ。抵抗すれば、骨も残さず粉々にする」
その言葉が落ちた瞬間。
悲鳴が爆発した。
「やめろ!やめてくれ!!やめてくれ!やめてくれ!!!たのむ!!」
「長っ!!」
「助けてぇえええ!!」
絶望が空間を満たす。
誰かが床を掴み、誰かが涙を流し、誰かが声を枯らす。それでも、誰一人立ち上がれない。
支配が、それを許さない。体は動かない。逃げられない。まるで見えない糸で心臓を掴まれているかのように。
これ以上の支配の力を込められれば、呼吸が止まる。抵抗しようとする意志すら、圧し潰される。
「っ――!!!!」
俺の胸にも激痛が走った。心筋が破られ、視界が揺れる。膝が崩れる。冷たい床が近づく。止めることはできない。
その中で、ただ一つだけ浮かぶ。
ソルフィア。
あいつは、この支配を受け流している。支配に折れていない。強い。俺達とは違う。だから――
「長を……たおして、くれ……」
最後の願い。
胸に、もう一度、鋭い痛みが走って、それは脳を焼き切った。赤い光が視界を覆う。
だんたんと生の音が遠ざかる。現実の空気が感覚から消えていく。凍えるように寒い体温だけを最後に残して……




