第一話 研究所
追記 2025年 11月1日
表現・描写を追加しました。
導入部分の変更を実施しました。
どうして、私はここにいるのだろう。
考えるたび、胸の奥が痛くなる。
答えは分かっているのに、口にはできない。
薄暗い部屋。
灰色の壁が冷たくて、触れると、指先から心まで凍っていく。
ここでは、時間が動かない。息をしても、吐く息すら音にならない。
白衣の女が目の前に立っている。
目は笑っていない。
けれど、どこか悲しそうにも見える。
「リトル。さあ、今日も始めようか」
声を聞いた瞬間、心がきゅっと縮んだ。
私はいつものように、腕を差し出す。
冷たい刃が触れる。
次の瞬間、肌が裂ける音がして、赤いものが流れ落ちた。温かいはずなのに、どこか遠くで起こっているみたいに感じる。
女は淡々とその血を器に集める。何も言わず、ただ数字を見つめ、まるで私の痛みなんて存在しないかのように動いていた。
「はい、おしまい……毎日悪いね。でもこれがあるのとないのとでは、世界の形が変わってしまうのよ」
世界。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
――世界って、どんな色をしているんだろう。
私はその「世界」を、見たことがない。
ここしか知らない。
この冷たくて、狭い場所だけ。
「……それでも……毎日は、嫌です」
声が震えた。
勇気を出して言ったのに、すぐに後悔した。
怒られるかもしれない。
また刃が増えるかもしれない。
けれど、女は少しだけ沈黙して、
何かを考えるように目を伏せた。
「……そう。じゃあ、二日に一度――ここに戻ること。その条件で、外へ出ていいわ」
心臓が一瞬、止まった気がした。
「……外……?」
思わず顔を上げる。
赤い瞳が、私をまっすぐ見つめ返していた。
どこまでも冷たいのに、ほんの少しだけ温度があった。
「上の許可は取ってある。外での実験、ということにしてあるの」
外。
その言葉が、胸の中で何度も反響する。
外に出たら、風に触れられるのかな。
空を見上げたら、光があるのかな。
痛みのない場所なんて、ほんとうにあるのかな。
「……ありがとうございます」
唇からこぼれた声は、ほとんど息のようだった。
それでも、確かに自分の意思で出た言葉だった。
「ただし、二日に一度は戻ってきて。外で困っている人がいたら、助けてあげて。実験が終わったわけではないわ」
涙が出そうになった。
実験が終わったわけではない。その言葉が強く刺さった。
ただ、その涙ではない。
この生暖かい涙は、嬉しさによるものだ。
「……はい」
目を閉じる。
まぶたの裏に、まだ見たことのない光が浮かんだ。
✳︎
うっ…………ま、眩しい………
私は久しぶりに外に出た。本当に久しぶりだ。地面を焼く太陽の光がやけに強く感じる。
研究所は酷く暗く、廊下はもちろん室内ですらロウソクの光が無ければ、ほとんど周りが見えない密閉空間。さらには凍えるほど寒い北風が体に打ちつけてくるのにも関わらず、当然空調すらない。
私は錆びついた鉄格子の檻の中でそのような環境にずっとずっと閉じ込められ、心を抉られる実験を繰り返されてきた。
だけれど先程の女の研究員(名前は知らない)は信頼できる優しい人だと思っている。正直それ以外の研究員は皆、凶暴で薄笑いを浮かべるような奴なのだが。
ある程度の教育は受けていたので読み書きはできる。
しかし本当にそのレベルの教育しか受けていないせいでこの世界のことなど何も知らない。
ちなみに実験内容については簡単に。
一、狭い空間に閉じ込めて一週間に一回必ず重症者を治療する実験
二、毎日体のどこかしらに傷を付けられる実験。どの程度の切り傷を治せるかを確かめられる。
三、毎日治癒力を抜かれる。場合によっては失血で失神する。
…………という酷い実験だ。これで何回死にそうな目に遭ったか分からないぐらいだ。
でも今こうして外に出られたのだから二日に一回必ず行かなければならなくても外の空気に触れられるだけで一歩前進したと思う。ゆくゆくはここから出ていきたい気持ちもほんの少し、心の一片にある。
どこに行こう。
私はそう思い、一度足を止めた。
家の場所が、分からない。
住所を忘れてしまった。それにこの場所が家からどのぐらいの距離にあるのか、果たして歩いて行ける距離なのかどうかすらも分からない。
私は途方に暮れて、空を見上げた。
ただ、雲が流れる。その度に影が現れたり消えたりを繰り返す。
私の感情など何一つ受け取ってくれない。ただ、何事も変わったことはなく、時間だけが流れていく。
私には誰かを助けなければならないという義務が付き纏っている。だから研究所の正門から一歩、二歩離れるたびに誰かが付いてきているような気がしてならない。
三年という月日が経って、街中は随分と変わっていた。研究所の目の前に大きな城のような建物が立っていたり、馬車が行き交っていたり、商店街があったり…と私の知らない間に街は随分と発展していた。
「ねえ、君」
商店街の店を見渡していると、突然後ろから誰かに声をかけられた。
恐る恐る振り返ると私よりも上背のあるガタイのいい男が立っていた。金色の硬そうな鎧と金髪の頭が太陽の光で輝いている。背中には短槍のようなものを背負った男が目の前に仁王立ちで立っていた。その背格好は衛兵か、騎士のようだ。
「なんですか?」
「その腕どうしたんだい?」
なんの躊躇もなく男は聞く。こんな街中で。
ただでさえ誰かにこの姿を見られるのが嫌だというのに。
「あ……」
言われて改めて見る。包帯の下からはっきりと見える切り傷。さっきよりも血が滲んで赤くなっている気がする。
どうすればいいのか分からない。
何を言えば分かってもらえるのか、どうすればここから離れることができるのか。
走れ。
そう、それしか方法がない。
私はその部分を押さえてゆっくり後退りする。
その足をゆっくり早め……走ってその場から離れようとした。しかし――
「っ!ちょっと待てよ」
その男は追いかけてきた。私よりも足が速い。追い払う隙も隠れる隙すら与えてくれない。
その人の息遣いが、すぐ真後ろで聞こえる。
嫌に冷たい汗が溢れ出し、私の背中のラインを撫でるように流れた。途端に寒気がした。足が小刻みに震え出す。
何を聞かれるのか、それだけが今は恐怖でしかたない。私は追いかけてきたその人をみることも、そちら側に振り返ることもできず、早まる息を野放しにして、ただ地面だけを見つめた。
「大丈夫。少し落ち着け。俺はそんな怖いことをするものではない。少し確認したいことがあるんだ」
その声は先程の口調よりもずっと優しく私の耳に響く。透き通った、少し低めの、大人になりきれていない少年の声。
男は続けて言った。
「君、研究所にいたのか?」
えっ…………
私は思わず足を止めて振り返った。思いがけない声が飛び出した。
私が研究所にいたということを一瞬で当てたこの男は、容姿は違えど、もしかしたら研究員なのではないかという恐怖心が芽生えてきた。
しかし、その恐怖は数秒後には溶けた。
金髪の前髪から覗く、蒼く透き通った目。それは研究員とは違う。色だけではない。その目の中には偽善の色が全くない。心からの優しさの目だ。
「…………なんで知ってるの?」
私は恐る恐る言葉を紡いだ。
たった一言であっても喉の奥につっかえる何かがあるのを堪えて。
男は首につけられた自分のリボンを指差す。そして、白い服の袖を捲って私に見せた。
……赤い、傷。
そこには私と同じような、短刀で付けられた深い切り傷が数本…はっきりと刻まれていた。
「これで…分かったかな………?」
男の声は切なく、悲しみの混じった声。先程とは打って変わって、今まで打ち明けられなかった気持ちを吐き捨てるような声だった。
首に付けられたリボン。間違いなく同じものだ。
「あなたも、なの?」
「……そういうことだ」
仲間。
正直私はこの人の存在をあまり良く知らない。同じ施設にいたのなら会ったことがあるはずだが、感情を失い、口数もあまり多くなかった私には他人との関係性も薄く…私は自分に仲間がいるなんてことは今この時まで知らなかった。
男は真っ直ぐとその青く美しい瞳で私を真っ直ぐ見つめる。
「俺はスケール、君の名前は?」
「…………リトル」
名前……
あまりよく知らない相手に名乗るのは少し息が詰まったが、私は正直に名乗った。
それから男は辺りを注意深く見渡し、私の包帯にそっと左手を近づけた。
淡い黄緑色の光が傷口を包み込む。ずっと続いていた痛みが消えていく。
包帯を外すと元通りに傷口が塞がっていた。
「これでよし」
「あ、ありがとう」
スケールは私の傷口を治してくれた。それなのに私が何もしない訳にはいかない。
私も同様にそっとスケールの切り傷に手を近づける。軽く息を吐いて指先に力を込めた。
明るい、黄緑色の光がスケールの切り傷を包む。眩しいぐらいに明るく輝く。
スケールの切り傷も綺麗に塞がった。
スケールは私を見て笑いかけた。
「…………ありがとう。きみ、やさしいな。それに、俺のよりも全然強いや」
「…………」
正直実感がない。いつものようにやっただけ。だけど確かにスケールのよりも光は明るく、眩しかったような気がする。
「君が使うこの治癒力…これはきっと最上級の力を誇るだろうね。そう、『ラルエンス ヒーリング』だ」
こんなところで堂々と治癒力を使った訳だが、大丈夫だろうか……
辺りを見渡してみる。人影は少ない。
なんだか体がさっきからおかしい。頭が重い。血の気が引いていくようなそんな気がした。
フラフラしてスケールにもたれかかってしまう。
「リトル…?大丈夫か…、少し休むか…?」
「う、うん」
「歩けるな?」
「うん」
「じゃあ、ゆっくりでいいからついてきて」
私はスケールの後ろに付いて歩いた。
✳︎
「ここだ」
スケールは何もないところで立ち止まった。静かな場所だ。
「ここなら誰にも見られないよ。今はこの公園の中、木の向こうを拠点にしている。公園といっても本当に誰も来ないようなとこなんだ」
私は拠点としている場所に辿り着いた瞬間、気づいたらその場に座り込んでいた。
脈拍が無意識に上がっていて、走ってもいないのにハァハァと息が上がる。自分でもはっきり分かるぐらいドクドクと脈打つ音が聞こえる。
「大丈夫かリトル」
「……………………」
大丈夫と言う言葉が口から出せなかった。
「ごめん、スケール、なんか、私………」
声が途切れてしまうほど酷く息切れが続く。
「………治癒力不足だな……私達の体だけに現れる典型的な症状だ。俺に会う前に研究所で抜かれているの知ってたのに、俺の傷まで治させちゃってごめんな」
スケールだって同じ状況のはずなのに、なんだか自分がすごく情け無く感じた。
「こちらこそごめん、さっきから、心配かけてばっかりで…………」
「謝らなくていいから」
スケールは私の腕に手を置いて、先程と同じように治癒力をかけてくれた。徐々に体の感覚が元に戻っていく。
「こういうとき、何を言えばいいの……?私――」
「大丈夫だよ。…………このぐらい仲間なんだから当たり前でしょ?」
えへへ…と軽く笑みを浮かべるスケールの顔にはやはりどこか悲しみが隠れている気がした。それでもその声は明るく、感情も私よりしっかりしている。本当に同じ施設にいたのかというぐらいに。
「スケールも……研究所に、いたんでしょ……?」
「そうだね……その頃の俺はどうだったかな……感情というものはどこか遠くに置いてしまっていたし、研究員の行為のせいで段々話しづらくなっていった」
私の口から出た言葉は自分でも分かるぐらいに震えている。でも、スケールは優しく包み込むような口調で、遠くを見つめながら言葉を紡いでゆく。
会ったことあるはずなのに、お互い知らないのは一緒に話をしたことが無かったからなのか。
「今は、なにを?」
軽々しく聞いたつもりだったが、空気は一瞬で重くなった。
スケールは首を横に振って、視線を落とした。
「…………いまは、このあたりを歩き回っているだけ。研究所からはずっと前に逃げ出した」
「逃げ出した……?そんなこと、できないはずじゃ……」
私も今外に出ているわけだが、研究が終わったわけではない。逃げ出したわけでもない。
これも、一種の実験だ。
スケールは再び首に巻かれたリボンに手を触れる。
そのリボンはよくよく見ると傷だらけだった。
「これはもうあまり機能していない。俺はあの束縛から逃げ出すためにこれの監視機能を壊した。家に帰りたかった。だからこっそりこれを壊して逃げたんだ。でも……」
「でも…?」
スケールは力いっぱいその首飾りを握り締めた。
「俺は、この目で残酷なものを見た……親も、兄弟も、大好きだったものも、ぜんぶ、ぜんぶ、消えていた……!」
スケールは体を震わせながら、喉の奥から、ずっと押し殺してきた感情を爆発させるが如く、大声で言葉を吐き出した。
「…………え…そ、そんな……」
「俺は、リトルにその現実を直接知って欲しくはない……きっと、きみもおなじだ。もう、親兄弟はいない」
スケールの声はどんどん悲痛な叫びへと変わっていく。先程まで白かった肌は紅潮し、目元は腫れ上がり、群青色の深い目尻からは大粒の涙が溢れ落ちる。
それが彼の着る金の鎧を濡らして行った。
しばらくして彼は顔をあげ、その少年の泣き顔で、私の手を握ってきた。
私の、冷えて冷たくなった手に、スケールの、仲間の体温が流れてくる。
「…………リトル、お願いだ。俺と一緒についてきてくれないか?」
そう、スケールは言った。
本当はそうしたい。
でも、私は研究所に戻らなければならない。
逃げ出すことは許されない。
逃げたら、確実に殺される。
頭の中に、そんな勘が浮かんでくる。
血赤の瞳に、鋭い角。私の血潮で赤黒く汚した白衣。研究員が私に向かって鋭い白銀の刀をむけている。
「…………ごめん、私は、逃げてきたわけではないの。二日に一回戻る、という条件付きで外に出ることを許可してもらっているだけだから……」
「そっか………」
目を伏せるスケールの瞳は小刻みに震えている。
でも、やっぱり私は戻らないと………
不意にスケールは顔を上げる。泣き笑いのような顔で私を見つめる。
「途中までついていってもいいか?見送っていくよ」
「うん……ありがとう」
私達は元きた道を辿って戻る。せっかく出会った仲間を置いてでも私は研究所に戻らなければならないから………
作品をお読みいただきありがとうございます。
この作品は私のデビュー作(第1作目)になります。
ブックマーク・評価等していただけると大変励みになります。良ければよろしくお願いいたします。
また、この作品はダークファンタジーであり、残酷描写もそこそこありますので注意して読んでいただけると幸いです。




