かわいいって言わないでください!~小さな令嬢の悩みと強面将軍の秘密~
「……かわいいな」
「かわいいって、言わないください!」
「す、すまない。違うんだ。令嬢の隣にいるリスを描いていて」
「え?」
隣を見ると、ロッティの声に驚いたのか逃げで行くリスの背中があった。
勘違いをして大きな声を上げてしまったことが恥ずかしかったが、それよりもリスを逃してしまったのが申し訳なかった。
「ごめんなさい。勘違いしてしま――」
振り返って謝ろうとすると、そこには大きな壁があった。
いや、壁ではない。
でっかい男がいた。
身長が百四十五センチしかないロッティよりはるかに大柄な体躯。
男との距離は二メートルほど空いているのに、まるで建物の影に入ってしまったかのようだ。
(ぎゃっ)
悲鳴は言葉にならなかった。
彼のことは知っている。
そもそも今日の宴会は、彼を祝うための席だったはずだ。
確か国境の戦いで成果を上げたからとか何とかで。
その宴会を抜け出して、ロッティは王宮の庭園の噴水に座って足をパシャパシャさせていたところだった。
それなのに、どうして主役のはずの彼がここにいるのだろう。
「ベアード卿。お、お初にお目にかかります。リステン伯爵家のロッティです」
「ベアード公爵家のライモンドだ。すまない、驚かせてしまっただろうか?」
ライモンド・ベアード将軍。
軍人家系であるベアード公爵家の次男で、まだ二十歳という若さで軍隊の将軍でもある。
特徴は大柄な見た目に、それからベアード家特有の怪力。
顔にある大きな傷は、令嬢たちの間で恐怖の対象となっている。
こうして向かい合っているだけでも、ライモンドの圧で顔が引きつってしまう。
「い、いいえ、そんなことは」
ロッティは渾身の力を使って答える。
今日は災難だ。
宴会では少し躓いただけで「かわいい」と言われて、それが嫌で庭園で休んでいたら、ベアード将軍と話すことになってしまった。
大きな男の人は苦手だ。ただでさえ小柄な自分の体躯が目立ってしまう。
恐るおそる顔を上げると、碧い瞳と目が合った。
怖い人だと思っていたけれど、その瞳は湖のように澄んでいた。
思わず見とれていると、ライモンドは大きな手で顔を被って顔を背けてしまう。
その耳が少し赤い。
「す、すまない。あまり見つめないでくれ。クリクリとした目が……っ」
ライモンドのことは遠くから見たことが合って、怖い人という印象しかなかった。
だけどそれはもしかしたら違うのかもしれない。
(いや、でも戦場では剣を一度振るっただけで百人も倒したらしいし。――あれ?)
ライモンドがもう片方の手に持っているものに目が吸い寄せられる。
それは使い込まれたスケッチブックだった。
(そういえばさっき、リスを描いていたって)
恐怖よりも好奇心が勝り、ロッティはつい問いかける。
「ベアード卿は、ここで何をされていたのですか?」
「お、俺は、その……」
じっと見つめると、碧い瞳は逃げ道を探るようにうろうろとしたが、すぐに観念をしてやはり耳を赤くしながら答える。
「絵を描いていたんだ」
「絵を?」
「あ、ああ……意外な趣味だと思われるかもしれないが、俺は幼い頃から絵を描くのが好きなんだ」
だから使い込まれたスケッチブックを持っているんだ。
納得したロッティは、さらに沸き起こった好奇心によりその中身を見たいと思った。
じーっと碧い瞳を見つめていると、ライモンドがしどろもどろになりながらスケッチブックを差し出してくる。
「見るか?」
「はい!」
受け取ったスケッチブックを開くと、そこには色鉛筆で書かれた、色とりどりの絵が描かれていた。
道端に咲く花が伸び伸びとしていて、羽を休めている鳥がまるで生きているかのように書かれている。
とても繊細な絵だった。怪力で有名なライモンドが書いたとは思えないほど、ほんのりとした温かさのある優しい絵。
(あ、これはさっき描いていたって言ってたリスの絵)
まだ下描きの途中みたいだけれど、毛づくろいをしているリスと、その背後の噴水が描かれている。
「か、かわいい……じゃなくって、素敵な絵ですね!」
「あ、ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しいよ」
さきほどライモンドは幼い頃から絵を描いていると言っていた。
ということは他にもこれと同じような繊細で綺麗な絵が描かれたスケッチブックがあるかもしれない。
もうこの時にはすでに恐怖心は失くなっていて、変わりに好奇心が勝っていた。
「他の絵も見たいです!」
「他の絵は邸宅に保管してあるんだが……。良ければ、来るか?」
「いいんですか!?」
ずいっと食い気味で近づくと、ライモンドは碧い瞳をまんまるにさせたが、ふっと表情を和らげた。
そして耳を赤くしながら言うのだった。
「その代わりと言ってはなんなんだが、よければリステン嬢をモデルに、一枚描かせてくれないだろうか?」
◇◆◇
宴会の翌日、ロッティはさっそくベアード公爵邸に向かった。
ベアード邸は、リステン邸よりもはるかに大きく、壮大で尊厳だった。
小さいロッティからすると、扉から建物まですべてが高く、まるで巨人の世界に迷い込んだみたいだ。
応接間に通されたロッティがお茶を飲んでいると、五分も経たずにライモンドがやってきた。
てっきりスケッチブックを持ってきてくれると思ったのに、手に何も持っていない。首を傾げていると、別室に移動すると伝えられた。
そうして連れてこられたのが、ライモンドのアトリエ。
部屋の中には多くの画材があって、ほんのりと絵の具の匂いがした。
ライモンド曰く、基本的に色鉛筆を使うけど、たまに絵具も使うそうだ。
「わあ、すごいですね。いっぱいある!」
スケッチブックだけではなく、キャンバスもいろいろあった。
これをひとつひとつ眺めているだけで、時間がかかりそうだ。
「ゆっくり見ていてくれて、かまわない」
「あ、でも絵のモデルって」
「リステン嬢がこの部屋にいるだけで充分だ」
(ど、どういう意味っ!?)
気になったが、ライモンドはもうすっかり絵を描く姿勢に入っている。
(モデルって、ポーズとか必要なんじゃないの?)
じっとライモンドの様子を眺めていると、その澄んだ碧い瞳と目が合った。
やけに真剣なそれから目を逸らすと、ロッティはまずはキャンバスの絵を鑑賞することにした。
一時間ぐらいはライモンドの視線が気になっていたものの、気づいたら集中してしまったみたいだ。
アトリエの扉をノックする音で我に返った時には、もう窓の外は夕闇に包まれていた。
「すまない、リステン嬢。俺も時間を忘れていた」
「いえ、私も夢中になっていましたし」
「実は、まだ絵の途中なんだ。……よかったら、続きを書きたいからまた明日にでも」
「もちろんです! 私も、まだ全部の絵を見れていないので!」
「っ、よかった!」
最初は強面で怖い印象しかなかったのに、嬉しそうに碧い瞳をキラキラさせるライモンドを見ていると、こちらも少し嬉しくなってしまう。
「まだ途中だが、かわいくかけていると思う」
「……かわいく、ですか?」
「ああ、明日には完成すると思うから、楽しみにしていてほしい」
「かわいく……。わかりました……」
◇
翌日も、ロッティはライモンドのアトリエにやってきた。
今日は最初からアトリエに案内されて、昨日と同じようにライモンドが絵を描いている間、彼の絵を鑑賞することになった。
ライモンドの絵はどれもかわいかった。
まるで植物や生き物のかわいさを閉じ込めたようで、眺めているだけで幸せを感じられる。
(でも、かわいいいって……)
ロッティはもう成人しているが、身長が百四十五センチしかない子供の見た目をしている。それがコンプレックスだった。
小さいからかわいい。何をしてもかわいい。
動くだけでも、どんな動作をしてもかわいい。
挙句の果てには、躓いたり、転んだり、失敗や間違いをしてもかわいい。
かわいいかわいい言われすぎて、その言葉を浴びせられるのが嫌だった。
ロッティにとって「かわいい」は誉め言葉ではなく、どちらかというとからかわれているように感じたから。
恐らくライモンドみたいに大柄な人が躓いて転んだら、周囲は口元を隠して苦笑するだろう。
中には馬鹿にする人もいるかもしれない。
だけどそれがロッティだとどうだろうか。
『かわいい』
その言葉だけで済まされるのだ。
多くの人が心の底から誉め言葉として使っているのかもしれないけれど、その言葉は時として馬鹿にされているように感じることもある。
ただ小さいだけで、まるで愛玩動物を愛でるように「かわいい」と言われるのは、もううんざりだった。
(昨日のベアード卿のかわいいは、どっちなんだろう)
大人になってから、ロッティはかわいいと言われるたびに頬を膨らましたり、「かわいいって言わないでください」と反抗したりしていた。
だけどそれはさらに周囲を煽るだけで、「かわいい」という言葉を止めることはできなかった。
だからあの宴会の日も、嫌になって庭園に逃げたのだ。
ドレスの裾が水に濡れるのも厭わずに噴水の水に浸かっていたのは、そうしていると落ち着くから。
その後ライモンドに会って、強面将軍の意外な一面を見ることができて、浮かれていたのかもしれない。
(ベアード卿は、かわいいものが好きなのかな)
彼の描く絵は、繊細で、植物や動物の一面を引き立てているものがほとんどだった。
かわいい。そう思った。
(昨日のかわいいは、どういう意味だったんだろう)
いままでなら「かわいい」と言われたらすぐに「かわいいって言わないでください!」と声を上げていただろう。
だけど昨日は、つい言葉を失いそうになった。
彼が口にした「かわいい」という意味が知りたくって。
視線を感じて振り返ると、ライモンドは筆をおいてこちらを見ていた。
澄んだ碧い瞳と見つめ合っていると、なんだか心がざわついて、少し痛い。
「よし、完成した」
「っ……」
「見るか?」
頷いて、キャンバスを覗き込む。
そこにはロッティがいた。
横向きの顔で、大きな目を輝かせているロッティが。
足元にはリスがいたり、花が咲いていたり、水しぶきが跳ねているところもある。
「どうだ。かわいく、描けただろうか」
「……」
「実はあの日、噴水で遊ぶ君の姿を見てどうしても絵が描きたくなったんだ。だから服の下に忍ばせていたスケッチブックを取り出したのだけれど、人を描いたことがなかったから近くに居たリスを描いたんだ。それに許可を得ずに勝手に人の絵を描くのは駄目だと思ったから」
耳を赤くしながら話すライモンドは楽しそうでもあった。
「やはり、かわいいな」
「……ベアード卿はかわいい物が好きなんですか?」
「あ、ああ。他の貴族に話したら鼻で笑われるだろうが、かわいい物が好きだ」
「私のことも、かわいいって思いますか?」
驚いたように碧い瞳を見開いた後、彼は耳を赤くしながらも口を開いた。
「もちろんだ。とても、かわいいと思っている」
「っ。絵を描いてくれて、ありがとうございました。本日はこれで失礼します!」
「え、リステン嬢!?」
背後で呼び止める声が聞こえたが、ロッティは構わずにアトリエを飛び出した。
◇◆◇
王宮の夜会は、二週間に一回の頻度で開催されている。
婚約者のいない結婚適齢期のロッティにとって、王宮での夜会は婿探しのようなものだった。
「今日もかわいいですね、リステン嬢」
声を掛けてくる令息は後を絶たないけれど、そのどれもに惹かれる思いはしない。
いつもなら「かわいい」と言われたら、条件反射で言っていた言葉も、口にする気力が湧いてこない。
ライモンドに完成した絵を見せてもらって以来、ベアード邸には行っていない。
それなのに、ずっと彼から言われた「かわいい」という言葉の意味を考えていた。
(あれから連絡もないし、やっぱり私はただのモデルだったのかな)
いやそもそも、彼の描いた絵が見たいからベアード邸に行っていたわけで、こんなことでショックを受けてどうするんだ。
頭を抱えて縮こまりたくなるが、そんなことをしたらまた多くの人に「かわいい」と言われてしまう。
その時、頭上に影ができた。
顔を上げると大きな壁――いや、ライモンドがいた。
「リステン嬢。よろしければ、俺にあなたと踊る栄誉を頂けませんか?」
耳を赤くしながらも澄んだ碧い瞳はロッティを見ている。
その手をおずおずと掴む。
周囲がいささか騒がしくなるが、視界にあるのは碧い瞳のみ。
「よろこんで」
音楽に合わせて踊る。
身長差があるから心配していたけれど、ライモンドは屈みながらも丁寧にリードしてくれていた。
(やっぱり、優しい人)
踊りが終わると、お互いにお辞儀をする。
これで次の人と踊るか、休憩するかに分かれるのだけれど、ロッティはライモンドと見つめ合っていた。
先に口を開いたのは、ライモンドだった。
「テラスで休憩するか?」
「……はい」
しばらく会っていなかったけれど、彼の温かい瞳が変わっていないことに安堵する。
テラスに出て、闇夜の空を微かに照らしている星を眺めていると、先にライモンドが口を開いた。
「あの時、アトリエから飛び出したリステン嬢の様子がおかしいことに気づいて、少し調べたんだ。令嬢は、かわいいと言われることを嫌がっているのだな」
「……はい」
「そういえば最初に会った時も言っていた。その時に気づくことができていれば、リステン嬢を傷つけることもなかったのだろう」
いや、違う。
他の人から言われる「かわいい」と、ライモンドから言われる「かわいい」はやはり少し違う。
「俺は昔から体が大きくって、令嬢や子供に怖がられてばかりいた。何もしていないのに、ただ立っているだけで泣かれたり、逃げられたり。たから、リステン嬢がはじめてだったんだ。俺の瞳をじっと見てくれる人は」
ライモンドのことは、見た目から怖い人なんだと思っていた。
だけどたったの数日、彼と話しただけでもその印象は大分変わった。
散々、いままで体が見た目だけでかわいいかわいい言われて、それが嫌だったのに。
それなのに、同じことをしようとしていた。
もし絵のことが無かったら、きっとロッティは目の前の彼から逃げ出していたと思う。
「かわいい――いや、愛らしい――これも似たような意味だろうか。君の綿菓子のような栗色の髪は綺麗で、真っ直ぐな瞳は心が躍る気持ちになって、俺の描いた絵を眺めている時はキラキラと輝いていた。先ほど一緒にダンスを踊った時は美しいとも思った。くるくると回るドレスや、星を眺めているリステン嬢の瞳はさらにキラキラとしていて、心を打たれた」
突然の賛辞のあらしに、ロッティは眩暈がしそうになる。
「俺は、令嬢のことをかわいいと思っている。だけどこれはからかいではなく、本心なんだ」
「……」
「すまない。嫌がっているのをわかっているのに、リステン嬢をかわいいと思う気持ちが抑えられない。俺は、俺はいったいどうしたらいいんだろう」
耳を赤くして、どこか潤んだような碧い瞳でそんなことを言われたら、ロッティは嫌でも気づいてしまう。
周囲の人の「かわいい」と、ライモンドの「かわいい」は違う。
全然違う。
ライモンドの「かわいい」には、彼の想いが込められている。
「ベアード卿。ありがとうございます」
頬が熱くなって、うまく彼の碧い瞳が見られない。
でも、これだけは伝えないと。
「私は見た目が小さいから、かわいいという言葉でからかわれているように感じることがありました。――でも、ベアード卿のかわいいは、嫌いではないです。……も、もっと言ってほしい、です」
「いいのか?」
「は、はいっ」
恐るおそる訊ねてきたライモンドに、ロッティは返事をする。
「……っ、かわいいなぁ。顔を赤くなっていて、かわいい。絵を描いていた時も思ったけれど、リステン嬢の瞳はキラキラとしていて、本当にかわいい。かわいいかわいい」
「っ、か、かわいいって言わないでください!」
「え、でもさっき言ってもいいって……」
「そんなに連呼してもいいとは言っていません。たまに――たまになら、良いですよっ。でも、何度もかわいいって言ったら、かわいいって言うの禁止にしますからね!」
「それは大変だ。なるべくかわいいって言わないように、かわいさを堪能したいと思う」
最初は怖いと思った彼の顔も、その傷跡さえ、いまでは愛嬌を感じる。
だけどその顔をじっと見ていると恥ずかしく、思わず目を逸らしてしまう。
「そうだ。リステン嬢」
「なんですか?」
「今度また家に来ないか? もう一度モデルをしてほしいんだ」
「モデル……」
「嫌だったら断ってくれても」
「喜んで!」
またライモンドの傍にいられる。ライモンドの絵が見られる。
そう思ったら、食い気味に答えていた。
耳を赤くしながらも、ライモンドは笑顔を浮かべていた。
「次はリステン嬢の好きなものを用意したい思う。もしお菓子などのリクエストがあれば、遠慮なく教えてくれ」
「もちろんです!」
「あ、いまから少しスケッチしても?」
服の下から、使い込まれたスケッチブックを取り出すライモンド。
その忙しない様子を見て、ロッティに断る理由なんてなかった。
「いいですよ」
「ありがとう」
ひょんな出会いだったけれど、彼とはこれからも仲良くなれそうだ。
そのことを嬉しく思うロッティだった。