夢の夢の夢の夢の……
男が二人、渋面を突き合わせながら唸っている。
そのうちの一人は俺。数十分前は意気揚々としていたというのに。
「まあ、コンセプトは悪くないとは思いますよ。ただねえ……」
もう一人は編集者。持ち込みに来た俺の読切原稿に目を通してもらっている。彼はコーヒーを一口啜ると、腕を組んでぼんやり中空を見ながら続けた。
「やっぱり、作中で出てくる、世間で一大ブームを巻き起こすほどの漫画の内容に、一切触れられていないというのが、説得力を欠いていますよね。そこがある程度わからないと、読者にしてみれば作中の人物や世界との乖離を感じてしまいます。この人たちは、自分がよくわからないものに熱中しているな、という感じで冷めてしまうというか」
指摘は的確。原稿を完成させてハイになっていた自分でも、それは心のどこかで薄々感じていた。
しかし――、
「そんな面白いものが思いついていたら、作中作なんかにしませんよ」
「そりゃそうですよね……」
「何か思いつきませんかね。説得力のある作中作」
「それを考えるのは貴方の仕事でしょう? 私もそんなアイディアがあったら自分で描いていますよ」
「そりゃそうですよね……」
俺たちは溜息を吐いた。
結局芳しい返事は得られず、こちらとしては期待しているので、また描けたら持ち込んでくださいと、いつもと同じお世辞だけもらって帰宅の途に就くことになった。
打ちのめされた俺は、ゴミ屋敷と化した狭い部屋に戻ってくると、そのまま万年床に大の字になった。
数日前に思いついてから一気に描き上げたから、あまりよく眠れていない。創作意欲に追いやられていた睡魔が大鎌を振って襲ってくる。俺は逃れる気すら起こらず、その鎌に身を任せることにした。
文字通り、身体が跳ね起きた。
気が付くと部屋の中は真っ暗。だいぶ長い間寝ていたらしい。
だがそんなことはどうでもいい。
俺は這うようにしてテーブルに近付くと、寝ぼけ眼がまだ景色を二重に映している中、ペンを手に取った。
身体に脂汗が滲んでいたが、それを拭いている時間すら惜しかった。
俺は夢を見たのだ。とんでもなく面白い夢を。
天啓とも思えるその夢を、今ここで描かずにどうして創作者が務まるだろうか。
連日の徹夜に疲弊した身体は、多少の睡眠では回復しきっていない。腕は重く、頭はぼやけている。
それでもペンを持った手は止まらない。頭はまともな思考をしていないが、夢の記憶だけがその手を突き動かしていた。
今の俺は原稿マシンだ。
コマの中でキャラが跳ねる。場面が目まぐるしく展開する。白紙が埋められていくうち、部屋の空間さえもそこに取り込まれてしまったかのように感じる。だんだん隣の部屋の生活音が聞こえなくなり、汚い生活空間が見えなくなり、俺と紙とペンだけの世界。
空白の世界をすべて埋めきった時、俺は勢いあまって真後ろに倒れこんだ。
運動したわけでもないのに息が切れている。右腕が痺れて動かなかった。インクに塗れた指先に力は入らず、ペンがするりと抜ける。
すると、まるでスイッチが切られたかのように、俺は汚い俺の部屋に帰ってきた。
しばらくそうしているうち、熱に浮かされていた頭はすっかり冷やされた。起き上がった俺の目の前には、原稿の山が積まれている。
もう一度頭から読み直して、確信した。
これは今見た夢の忠実な再現だ。そして間違いなく、天下を獲れる素養を持った逸材だ――と。
その日のうちに編集に連絡を入れ、あまり乗り気でない彼にしぶとくしぶとく頼み込んで、早速次の日の朝イチに見てもらう約束を取り付けた。
翌日、嫌々俺の原稿を見始めた彼の手のひら返しは、まさに芸術的だった。
適当に目を通していたページをめくる手はどんどん早くなり、身体は前のめりになって原稿にかぶりついていた。最後のページを読み切った後に出た溜息は、驚嘆の表れだと俺にもわかった。
「正直……信じられません。昨日の今日でこんな傑作を……」
コーヒーを一気に飲み干した彼は、多少は落ち着いたようだがそれでも鼻息荒くして言った。
「これなら、本気で連載も……というか、それ以上のものが狙えるかもしれません。とにかく、私の方でこれは一旦本誌掲載する方向に持っていきます。その間、先生には連載用の原稿を描いていただきたいのですが……。問題ないですか」
俺は二つ返事でそれを受けた。あの反応であれば、少なくとも編集部も原稿を放っておくなどということはしないだろう。近いうちに俺の漫画が少年誌に載ることになる。
俺はそう確信しながら、軽い足取りで帰宅の途に就いた。
その日の夜も、俺は夢を見た。昨日見た夢の続き――あの原稿の先の話だ。
なんの偶然か、天の気まぐれか。俺はそれを連夜見た。夜中、夢は壮大なストーリーを紡ぎ、日中、俺はそれを原稿に認めた。
数日のうちに編集から連絡があり、丁度翌々週の誌面に空きができ、早速そこに読切が載ることになったという。
翌週、編集の決めた締め切りよりも早く連載用の原稿を描き上げて持ち込んだ時には、既に担当の彼はびっくりするほど腰が低くなっていたし、原稿を読み終えた時には、愈々嬉しさに悲鳴でもあげそうになっていた。連日描き上げた原稿はストックが溜まっていく一方だったから、まだまだ先の展開には余裕があると言うと、危うく卒倒しそうになっていた。彼曰く、この完成度なら連載会議も余裕だとのことだった。
人生、どん底を通り抜けると後は上がるだけだ。そして好調な時は加速度的に伸びていく。俺の気持ちさえをも置き去りにしていきそうな勢いだった。
俺の読切が載った雑誌を手にしたときには、自分が漫画を描き始めた頃――今から十年前、小学生だった頃から振り返り、その辛酸まみれの道程を思い起こして、感慨無量の涙が溢れて止まらなかった。その一方で、どこか現実離れした、夢見心地のような感覚もあった。そんな不安を掻き消すために、俺はとにかく無心で描き続けた。
描き続けた俺の周りの世界は変わった。
異例ともいえる好評の読切の後の連載会議はあっさりと通った。
連載開始の号は売り切れの店舗が相次いだ。
アシスタントを雇って先生と呼ばれるようになった。
汚い狭小アパートの部屋を売り払って、今風の小綺麗なマンションに住むようになった。
そんな生活が少し続いたある日だった。唐突にそれは訪れた。
夢が途切れた。この数ヵ月続いた夢がぱったりと。
これまでにも何度か、夢の中で物語を見れないときはあった。それでも何日か経てばまた続きを見れるようになっていたから、最初は今回も一時的なものだろうと気にも留めていなかった。
それが数日、一週間、二週間と経つにつれ、徐々に焦りが募り始めた。
とはいえ、これまで描けるときに出来るだけ描いて溜め込んでおいたストックがある。段ボール箱の中にまだたくさん詰まっている。これだけあれば大丈夫だろう。
そう高を括っていた俺だが、二ヶ月三ヵ月と経ち始めると、流石に平静を装うのも難しくなり始めた。段ボールの中身は週末が来るたびに一つ一つ確実に減っていく。最初は大量にあったはずのストックも、いまや四分の一を切り始め、一つ減るごとに見た目にはそれ以上に消えていっているように感じた。
じわじわと真綿で首を絞められていく気がして、俺はいてもたってもいられなくなった。
そんな中でもストックは消える。
ストックの仕上げをしている最中も貧乏ゆすりは止まらず、アシスタントにも些細なミスで辺り散らしてしまう始末。
……また一つ消える。
そんな俺が薬に手を出すようになるのも時間の問題だった。薬と言ってもいたって合法的な睡眠薬だ。
……もう一つ消えた。
俺は夜だけでなく、昼間も睡眠薬を飲んでは眠るようになった。止まってしまった物語の続きを願って。創作の神が気まぐれで夢の提供を止めたことを願って。
……そしてまた一つ。
だが待っていたのは虚無。まるで頭の中にあった想像力がすべて夢として排出されてしまったかのように、何も出てこなかった。目が覚めても夢を見た記憶すらなく、代わりにあるのは、ただただ無為に時間を過ごしてしまったという事実だけ。
いつものように開いた段ボール箱の中は、遂に最後の一つの原稿があるだけになっていた。
次の週から一体どうすればいいだろうか……。
原稿を仕上げたというのに、俺の頭に喜びの二文字はない。アシスタントを返して独りぼっちになった俺は、広いマンションの一室の中で、頭を抱えていた。
不安で飯は喉を通らず、一日中寝床で過ごした。
睡眠薬を飲む。眠る。目が覚める。睡眠薬を飲む。その繰り返し。
それでも夢は見れぬまま、刻一刻と時間は無情に迫る。仕方なしにその週は俺が起きたまま考えた原稿を提出することになったのだが、アシスタントの反応からして悪く、漫画の人気に崇拝さえしているのではないかと思えた担当も、こんな時もありますよと慰めの言葉をかける有様だった。
それが一週ならまだ良かった。次の週も、その次の週もとなると、周りの態度も変わり始める。
読者の人気は潮が引くように消えていき、折り悪く有名作家の新連載が始まったために、それと比較されて余計に評判は落ち込んだ。週が来るたびに掲載順序は後ろに下がっていく。
アシスタントは日中も寝てばかりいる俺に不信感を抱いているし、新連載の担当も掛け持ちすることになった編集はもう半ば俺の作品は諦めているようだった。
またあの惨めな日々に戻らなければいけないのだろうか。
それだけは、それだけは嫌だ。
俺は瓶にあった残りの睡眠薬を飲み込んで床に就いた。
すると俺の願いは叶った。創作の神は俺を見棄ててはいなかったのだ。
その日の夢に出てきたのは、俺がこの半年の間、喉から手が出るほど望んだ、物語の続き。
待ちに待っていただけあって、その物語は大スペクタクルが展開され、一瞬一瞬が息も吐かせぬような怒涛の裏切りと伏線回収の連続だった。
そして最後、主人公がこれまでのすべてに決着をつけ切ると、まるで映画のエンディングのように画面が遠のいていった。
CMも休憩もなく繰り広げられたストーリーに、俺は感涙で視界がぼやけた。
この展開を考えるために、創作の神にもこれだけの時間が必要だったのだ。
これだけの展開を漫画にしたとき、一体後どれだけ連載を続けられるだろうか。眠る前には、どうにかこうにか引き伸ばす方法を考えていた俺だが、全てを見終えた俺に引き伸ばしという発想はなかった。完全なストーリーの前にそんなものは不要だ。
目が覚めた俺は机に嚙り付いて続きを描き始めた。どれだけ長い間そうしていたか判らない。恐らく三日四日は徹夜で描き続けていただろう。最後のコマを描き切った俺は、最初に読切を描き上げたときと同じように、後ろに倒れこんだ。
満足だった。
俺はこれを描くために生まれてきたんだ、と思えた。
脱力と恍惚で表情に笑みが零れた。
*
「それでは――その日の朝のことをお伺いしてもよろしいですかな」
「はい、一応インターホンは押したんですが、返事がなく……、鍵は貰っていたので、それで開けて中に入ったら、もうあの有様というわけで……」
「なるほど、どうも、ありがとうございます」
「自殺……ということでしょうか」
「まあそうなるでしょうな。解剖の結果では、大量の睡眠薬を飲んでいたということですが――、何か思い当たる節とか、最近の被害者の様子で気になるところはありましたかな」
「それはもう。正直、見ていられないくらいでしたよ。初めての連載が大人気になったものの、今後の展開でとても思い悩んでいて、どんどんやつれていっていましたし、ストレスで不眠だったのか、毎日睡眠薬を常用していました」
「ふぅむ。ただそうなるとどうも解せんですな。被害者はまるで歓喜の絶頂のような死に顔だったわけで……。今際の際に余程良い夢でも見たんでしょうかな」
――完。
*
「どうでしょうか、この作品……」
男が二人、渋面を突き合わせながら唸っている。
そのうちの一人は俺。数十分前は意気揚々としていたというのに。
「まあ、コンセプトは悪くないとは思いますよ。ただねえ……」
もう一人は編集者。持ち込みに来た俺の読切原稿に目を通してもらっている。彼はコーヒーを一口啜ると、腕を組んでぼんやり中空を見ながら続けた。
「やっぱり、作中で出てくる、世間で一大ブームを巻き起こすほどの漫画の内容に、一切触れられていないというのが、説得力を欠いていますよね――」