けずりひ
――いやなやつ。
當よは顔をしかめ、縁に腰かけて脚をぶらぶらさせていた。今日はいやなことばかり起こる。いやなことばかり。
當よは右手を顔の前へもっていって、見詰めた。綺麗に手入れしている爪が、ぴかぴかしている。あのばか旦那は、これを見てなんといったっけ。
そう。――あなたはなにもしないのですね、とかなんとか、薄ら笑いでいった。あのぼんは。
當よはそれに、腹を立てていた。立てている。どうしようもなく。
着飾ったり、身綺麗にしているののなにが悪いのだろう。あいつは、地味で、髪も爪も手入れしない、だらしない女と結婚したいんだろうか。――あたしは精一杯、頑張ってるだけだ。
それに、爪が綺麗だからなにもできないなんて、そんなばかな話はない。これはあのばか旦那の店で買った爪の手入れ用の油で、綺麗にしているだけだ。――あいつは自分の店の売りものも知らないのね。
當よは、自分がひとよりなにかに優れているだの、そういうことは思っていない。自慢できるのは父母だけだ。――あたしは、料理は才がないし、力も弱い。すぐにへばる。
でも、だからって、なにも頑張ってこなかったとは思わない。女中並みとはいわないが、父親のやっているリストランテの手伝いもしている。ちょっと前までは女学校の勉強があって、手伝いも適当だったが、勉強も家の手伝いもどちらも完璧にこなせるような技量は自分にはない。現に、ずっと昔、お客さんから悪い風邪をもらって寝込んだこともある。それもあって、無理はしたくない。
自分に技量はない、と、當よは考えている。
――それを、顔を合わせたばかりのあいつにいわれたくなかった。
――あたしはたしかに、根性なしだけれど、それでもできることはこつこつやってきた。
――折角お茶の水へ行く話だってあったのに。
――先生達がすすめてくれたのに。
――おばあちゃまが、女の頭でっかちは嫁の貰い手がなくなるなんていうから。
當よはぐるぐると頭のなかで渦巻くものを、そのままにしている。――あたし、もっと勉強したかったんだろうか。
頭を振った。そうじゃない、と思う。――あたしは、まだ結婚したくないんだ。
と久がいったことが頭にこびりついていた。あんたはばかだと面と向かっていわれたのは、はじめてだ。あんたは、といわれたのは。
――女はどれだけ勉学したって、根っこのとこはばかだ。
――だから、余計にいろんなことを知らないで、賢い男に従ってればいい。
當よは毎年、盆になると祖父母の在所へ行く。ほんの半月だが、気の滅入る時間で、當よはそれが大嫌いだ。昔は母が一緒に来ていたから、まだお喋りなんかできたけれど、今はそれもできない。もうすぐ、あのいやな時期がやってくる。行く度に、女は々々と、祖母の長々した話を聴かされる。
母に、お店のこともあるしあたしひとりで大丈夫、といったのは、肩身の狭い思いをさせるのがいやだったからだ。母はどれだけ時間がたっても、祖父母の家ではのけ者で、よそ者で、お金のかからない女中みたいにしか扱われない。それは、父の兄である長男の嫁さんもそうだ。
その点、當よは女だけれど、父の子だ。だから、完全なよそ者ではない。當よにはたっぷりのめしが出るのに、母は残りものをお勝手でこそこそ食べている、そういうのがいやだから今は自分ひとりで行くようになった。
正月に親子で戻って来い、と祖母はいう。その「親子」に母は含まれない。當よは、おとッつぁんのお店は正月でも繁昌してるんです、だからあんまり働き手にならないあたしでも手伝わないといけなくて、と、謝りたくもないのに謝る。
當よが祖父母に対して強く出られないのは、理由がある。父の店、泉源楼の土地は、まだ祖母のものなのだ。
祖母はまだ、東京が江戸だった時代のうまれだ。幾歳になるのかは知らない。聴いた覚えはあるが、當よは嫌いな人間のくわしいことなんて覚えていない。
祖母は材木問屋の三女にうまれた。兄が居たので、長女も次女も嫁に出されたが、その後兄が死に、祖母が番頭を婿にとって材木問屋を継いだ。
祖父母は先見の明があったようで、佐賀藩や南部藩と付き合いをしたり、海沿いの村に土地を買ったりしていたらしい。
その後、祖父母は商売をひろげ、長男が後を継いだ。これは、當よの伯父にあたるひとだ。維新後も身代が傾くようなことはなかった。次男は祖父母と反目して家を出、置き屋をしている。三男は戦死した。女もふたりいるのだが、それぞれ「いいところ」へ嫁へやったそうだ。
そして四男である父は、祖父母から土地と金を借りてリストランテをはじめ、建物を建てた金は返したものの土地代はまだ払っていない。
祖母は、気にいらなければいつでも、店をとりあげられるのだ。だから當よは、精々祖父母に孝行している。
當よはお大尽と結婚したかった。お大尽で、當よの思い通りになる男と、だ。
――貧乏暮しはいやだし、これ以上ひとの顔色伺いをしたくない。
――但馬さまなら幾らでもお金を持ってるのに。
當よはにじんできた涙を、乱暴に拳で拭う。「なにさ、あんな女」
と久の憎たらしい、綺麗な顔が、ぱっぱっとうかんでは消えた。――そりゃあ、あたしのほうが不器量だ。でもあたしは、あいつみたいに自分で稼ぐことはできない。あたしは金が要るのに。
當よは歯嚙みして、縁をぺたぺたと叩いた。――金さえあれば、もうおっかさんがばかにされなくっていいのに。
當よはいつでも、焦っているし、苛立っている。それはほんの小さな頃からだ。いつだって、どうやったらここの土地を買えるだけの金が手にはいるだろう、と考えている。伯父さんの置き屋へ行ってみようか、と思ったこともあるが、こわくなってやめた。それに、ああいうところの女は稼いでるようで稼いでいないと、お客さん達が話していた。
女が稼ごうと思ったら、お針か、女学校の先生になるか、飯屋をやるか、それくらいしか思い付かない。お針はうまくないし、女学校の先生は、祖母が邪魔するのでできなくなってしまった。かといって、料理の才はない。
――なら、結婚だ。
そう思って、當よはこれまで断り続けていた見合いをした。
見合いがいやなのは、一度だけ、十三の頃に付文をもらってからだ。
當よはそれを母に見せ、しばらくして仲立ちしてくれるひとがあらわれ、見合いということになった。だが、いざ見合いが始まると、當よも母も辟易して、すぐにお開きになった。仲立ちしてくれたひとが申し訳なそうだった。相手の一家は、あからさまに、當よの祖母の金を狙っているふうだったのだ。
結婚というのは金のやりとりにすぎないのだと知った。
だったら、こちらは金を目減りさせず、相手に出すだけ出させてやって、土地を買ってもらえばいい。そう思った。だから、お大尽との話だけすすめようと考えた。
驚くことに、立派な身代に見えてもそうでもないということは、めずらしくなかった。
維新の折、財産を没収されたり、戦に関わって稼ぎ手が死んでいたり、老舗と呼ばれるようなところでもたいしたことはない。當よは父母には、「お大尽としか結婚しない」といいはっていたから、父母はそういう「家系」だけのところは弾いてくれた。
そんなにお大尽がいいなら、お義母さんに相談してみようか、と母にいわれたけれど、當よは断固拒否した。祖母の息のかかった人間となど、絶対に結婚するものか。
――あたしは、自分の自由にできる金がほしい。
あの薬種問屋は羽振りがいいし、借財もないらしい。確実なことではないが、父はいろんな立場のひとが来るリストランテをやっているので、そういうのにはくわしい。縁談がすすんだと思ったらご注進があって、しばらくしたら見合いをする予定だった相手が一家まるごと夜逃げした、ということも、二度あった。
――それだけ、あたしは金を持っていると思われてる。もしくは、おばあちゃまの金を受け継ぐと。
――それとも、あたしがねだったら、おばあちゃまが金を出してくれると思ってるんだろうか。
――あの業突くが。
當よは膝を抱え、洟をすすった。気分はよくない。
と久……女給のひとりに、思い切り顔を打たれたのだ。――あたしのことなんてなあんにも知りやしないくせに。
――あたしの苦労なんて。
田舎の村から、口減らしの為に売られてきた娘だ。と久には、當よはなんの苦労も知らない、ちゃらちゃらした小娘に見えているだろう。盆の里帰りだって、と久はじめ、女給達のほとんどには、避暑の旅行だと思わせている。女給から詮索されるのがいやだからだ。
学校も行って、なにが不満なのかと思われるだろう。いい暮らしをして、毎日たらふくめしを食べて、なんの文句があるのかと。
――そんなのはあいつらに関わりない。これはあたしのこと。あたしとおっかさんのこと。おっかさんがばかにされるのを聴くのはもういやだ。
當よはだから、我慢した。爪のことでなにかいわれても、随分いい着物ですねといやみったらしいのも、全部々々我慢した。
だが、母の家族のことを尋ねられ、濁していると笑われたのは、あれはゆるせなかった。だから、當よは席を立って、走って出ていったのだ。途中で母が追い付いて、手をつないで家まで戻った。當よは吐きそうに気分が悪かった。母が自分に謝っているのが一番、癪に障った。
母は帝都のうまれだが、生家は貧しかった。長女の母が幼い頃から働いて、妹や弟をくわせていたのだ。納豆の行商をしていた母を、父が見初め、結婚した。父は祖父母に相当反対されたが、おしきった。
反対の理由は明確だった。母の父、だから當よの父方の祖父は、お尋ね者だったのだ。その後、佃島へ行ったが、牢破りにまきこまれて死んだ。
どういう罪科か、両親が教えてくれないから當よは知らない。だが、その祖父と、ははとは、まったく別の人間だ。家康公だって、意にそぐわない息子を死なせた。――だからなにも、関わりないじゃないの。
當よは父を尊敬している。母の父親がなんだろうと、関わりないと、しっかり自分の考えを持っているからだ。
當よはだから、父母に安心してほしい。母に肩身のせまい思いをさせたくない。だから、お大尽と結婚して、祖父母の顔色をうかがわなくていいようにしたい。
――でも。
――あたし、結婚なんて、いやだ。
――おとっつぁんみたいな、いいひとばっかりじゃない。
「當よ」
母の声がして、當よはぱっと、庭へ降りた。下駄をつっかけ、庭木に隠れる。
疲れた顔の母がやってきて、きょろきょろし、居なくなった。
母は、當よがと久に対して憎まれ口をたたいたことを、叱った。當よは項垂れて、と久が戻ってきたら謝ると約束した。自分自身、あまりいい気分ではなかったからだ。と久の為じゃない。
でもその後、お前の機嫌が悪いのはおっかさんの所為だよね、と母がまた、謝ろうとしたので、當よは逃げたのだ。――おっかさんに謝られるのは、いい気分じゃない。
當よは息を整えて、そっと前庭を目指した。
――あんなやつ、頼まれても結婚なんてしてやるものか。
――ひとの親をばかにして。
重たい気分で前庭へ行くと、すらっと背の高い但馬さまが目にはいった。
その横にはと久と、そばかすだらけの不器量な女が居る。――但馬さまと一緒に居た女だ。
と久とその女は、いやに親しげだった。「姉ちゃん、ここがね……」
――姉ちゃん?
――あれが、と久の姉?
――全然似てないじゃない。
――と久はあんなに美人なのに。
ぽかんとしていると、但馬さまがこちらを向いた。と久もすぐにそうする。
當よは口を引き結び、そちらへ走っていった。
敷地の手前でかたまっていた三人は、當よが近付いていくと目をまるくした。涙で化粧がみっともなく斑になり、髪も崩れているからだろう。
「お嬢さ」
「と久、さっきは悪かったわね。ゆるして頂戴」
當よはそういって頭を下げ、但馬さまにぶつかるようにして前の通りへ出た。「お嬢さん」
「當よさん」
當よは耳を塞いで、通りをつっきり、人波へ紛れた。
――なにさ、なにさ、なにさ。
――あたしだって但馬さまに優しくしてもらってたのに。
――と久が来なかったら、あたしが但馬の奥さまだったかもしれない。
――華族さまなら金だって自由自在だ。
――華族さまの奥さまになったら、誰もそのひとのおっかさんが誰の子かなんて気にしない。
當よは気付くと、川のほとりに居た。そこに腰かけて、脚をぶらぶらさせていた。
――頑張ればなんだってできるっていうけど、嘘だ。あたしは頑張ってた。お茶の水へはおばあちゃまが邪魔するからいけなかった。おばあちゃまが、母親のしつけがなってないって、おっかさんを悪くいうから。
下駄がかたいっぽう、落ちて、水に流されていく。片葉の葦がゆらゆらしている。――ここで死んだ娘は、生きていたらどうなってたんだろう。いいおっかさんになっていだろうか。手習いで先生でもしていただろうか。
「お嬢さん、危ないよ」
声に顔を上げると、風呂敷を背負った男が居た。
少し歳はいっているが、役者のような顔立ちだ。日焼けもそこそこだし、腕が細いから、人足という訳ではないらしい。風呂敷包みを背負っているし、子ども用のおもちゃでも売っているのだろうか。
男は屈みこみ、當よが腰かけている石を軽く叩いた。「かわっぺりでぼーっとしてると、魔にみいられることがある」
やわらかく、優しい声だった。當よはちょっと頷く。
男はにっこりして、風呂敷包みを肩からおろすと、それを解いた。なかには旅に必要そうなものが、紐で括ってまとめてある。どういう訳だか女用と見える下駄を二足、男は持っていて、片方を結ぶ紐を解いた。
「ちぐはぐだと、げんが悪いなア。お嬢さん、こっちはもう捨てちまいな。古いもんのようだし」
「はあ……」
當よは男が、慣れた手付きで自分の足を持ち上げて下駄をとりさり、あたらしい下駄をはかせてくれるのを、じっと見ている。手付きは優しく、女の体に触れるのに慣れたふうだった。――おとっつぁんだって、この間あたしの腕を掴んで、あざをつくってしまったのに。
「ほら、これでいい。こっちは俺が処分しとくよ」
男は荷をてばやくまとめ、また背負った。かたいっぽうになってしまった下駄を左手に提げたまま、右手で當よの手をひき、立たせる。
「こういう静かなとこに居ると、気が鎮まるってやつも居るけど、俺は反対でね」
「……ええ」
「静かだと余計なことを考えちまうんだ、俺ア。よくないんだけどよ。だからにぎやかなとこが好きなんだ。にぎやかで楽しいとこがね。そういうとこに居て、ひとさま相手の商売してると、手前のことばかりじゃいられないしなア」
男はにかっと、歯を見せて笑った。當よもつられて笑う。それくらい、優しそうな、やわらかな人柄が手にとるようにわかる、好人物だ。
男は當よの手をひいて、川から少し離れる。「お嬢さん、おうちはどこだい。送っていくよ」
「いえ……」
「俺みたいなのと一緒に居るのを見られたくないのはわかるけどよ」男はまた、歯を見せて笑う。「俺も、まっつぁおな顔したお嬢さんを放り出しておけないしな」
當よは黙って、家のある方向を示した。
男はなのらなかったし、當よもそうだ。道が分かれているところで、ついと指さす。それだけのことしかしない。
男は少し離れて、ゆっくり歩いてくれた。當よのあしは、あたらしい鼻緒に慣れないで、指の股からじくじくと血がにじんでいた。
男は全国津々浦々を歩いて、仕事をしているのだそうだ。どこそこの浦が綺麗だとか、どこの島がよかったとか、そういうことを、當よがまともに返事もしないのに教えてくれた。
もうそろそろ家が見えてくる。
「お嬢さん、けずりひってやつを食べないか?」
當よは首を傾げる。男ははははと笑う。
「商売の相手に、学のあるひとが居てな。むかーしむかしの偉いひとが、かきごおりはうまいもんだって書いてるらしい。俺ア、今年はまだ食べてなかったから、どうかと思って。お嬢さん、冷たいものは嫌いかい」
頭を振る。男は、それじゃあ、と向きをかえた。
かきごおりの店は幾つか知っているけれど、男がつれていってくれたのは當よの知らない店だった。
當よは甘い砂糖水のかかった、しゃりしゃりした氷を、匙で掬って口へ運ぶ。かんなで氷を削る音がする。
「俺はな、姉さんが若いうちに死んじまって、だからね」
男はかきごおりをつつきまわし、なかなか口へ運ばない。「女子どもが苦労するのは見てられない」
「……お優しいんですね」
「自分の為だからなア。すこしでも、女子どもが苦労しないようにしてやりたいんだ」
男はやっと、匙を口へ運び、つめてえ、と大袈裟に騒いでいた。當よはそれで、くすっと笑った。
「ありがとうございます」
「いや」
店を出ると、當よは息を整えた。「ここからなら、ひとりで戻れます」
「そうかい?」
「はい。あの、こおりのお代」
「いや、いいよ」
懐をさぐる當よに、男は手を振る。「お嬢さんの顔色がよくなったんだから、もう充分だ」
當よは手を下げ、それから思い付いて、頭に手をやった。正月に新調したばかりのかんざしを一本、ぬく。
「あのう、これを」
「え?」
「こうがいがなくって困ってる子が居たら、あげてください。あたしに下駄をくれたみたいに」
男は寸の間、黙っていたが、面白そうに笑うと當よの手からかんざしをとった。
「ありがとうよ」
「こちらこそ……」
「ほんとに、ひとりで大丈夫かい」
「はい」頷く。「帰って、謝らないといけない子が居るから」
喧嘩したのかアと男は驚いたみたいな声を出してから笑い、當よも笑った。――と久はやなやつだけど、あたしのいいかたはもっとやなやつだった。
――ちゃんと謝ろう。
――それから、この先のことを考えよう。
――いまからだって、お茶の水に行けるかもしれない。
當よは男に頭を下げ、少し歩いていって、振り向いた。
「あのう、お名前を……あたしは、當よです」
「俺ア、松だ。松っつぁんって呼ばれてる」
――松っつぁん。
當よは口のなかで、その言葉を転がして、化粧の崩れた顔でにっこりした。「あたし、泉源楼というところに居ます。いつでも、おいしいものを食べに来てください」
松っつぁんは頷いて、當よがその通りから居なくなるまで、じっと見守ってくれた。