25話「神様の祝福」
リカ様は、よく私たちの知らない単語を口にしていた。
悪役令嬢。オタク。アイドル。推し。
それらの言葉はどこの国のものなのか――考えるまでもない。それは、聖女が元いた世界のものだ。
確か『ニホン』と言っていたはず。当然そんな国名は誰も聞いたことがなく、やはり聖女は世界の危機に対して神が遣わせてくれた存在なのだと皆が信じたし、リカ様自身も『異世界召喚されたんだ』と唖然としていた。
「これね、聖女の落とし物だったんだって」
私がアトル様の部屋に入ると、彼は床いっぱいに広げられた紙を一枚手にしていた。
私も恐る恐る一枚拾って見ると、それはヨレヨレの紙を無理やり伸ばしたようなものだった。しかも、滲んだ文字を無理やり直しているような箇所が多々ある。それでも、元から私の知らない文字のようで、まったく読めなかったけれど。
散らばった紙を集めたら、ざっと本一冊分くらいになるのかしら。
「僕……これは陸から流れてきたものだと思って、一生懸命集めたんだ。ボロボロだったのを、出来る限り再生させて、解析して……頑張って解読したんだけど、そりゃあ的外れに決まっているかな。だって異世界の、しかも個人的な日記だったんだから」
アトル様がくすくすと笑う。だけど、その手は小さく震え、ぽたっと目から涙をこぼす。
「あの聖女は『アイドル』ていう歌姫を応援するのが生きがいだったんだって。それを応援している人たちのことを『ファン』って呼んで、それを極めた人たちのことを『オタク』というらしいんだ。僕が覚えた舞や掛け声も、これに載っていたんだけど……そのオタクたちが踊っていたものらしいよ。聖女も、日記に書いて一生懸命覚えていたんだってさ」
ポロポロと、ポロポロと。蓋を開ければ、なんてどってことない内容を、彼はどんな気持ちで読み込んだのだろう。
会ったこともない女のために。陸という完全に別の生活圏にいた種族のちがう女のために。私のような、建前や外聞を気にして『仕方ない』と大切なものを手放した女のために。
あぁ、本当に、なんて――
「ニカ、僕のこと嫌い?」
「好きです」
「はは、ありがとう。その言葉だけで、十分だ」
彼は笑う。泣きながら笑う。
その顔はとても綺麗で、とても可愛くて……抱きしめたいから、抱きしめた。
「ニカ……?」
「がんばり屋のあなたが好きです。くしゃっと笑うあなたが好きです。私の書いた本を面白いと言ってくれたあなたが好きです。私が罵倒された時真っ先に怒ってやり返してくれるあなたが好きです」
「ニカ……」
「あのヘンテコな踊りをどこでも全力で踊り切る度胸のあるあなたが好きです。その後に満足気に汗を拭うあなたが好きです。嫌なことがあるとすぐ物理的に逃げようとする癖はこれから直していただきます。でも逃げようとしてまず転んでしまうあなたがとても愛おしいです」
「え、あ、ニカ?」
私の腕の中で戸惑うアトル様に、私はふふっと笑う。
「私、悪役令嬢なんですって」
「え……あぁ、そんなのも書いてあったね。流行り! 可愛い! 推せる! とか書いてあったけど……ニカは違うでしょ? 誰もいじめてないし」
「私は性格悪いようですよ。昔馴染みから太鼓判押されてきました」
それを告げると、アトル様はむっとした。
「え、誰それ。ちょっと文句言ってきてもいいかな」
「アトル様も先ほど私の『悪い顔が好き』とおっしゃっていたではありませんか」
「それはそれ、かな。ニカは何も悪くない人が傷ついて喜ぶような人じゃないでしょ。ちょっと待っててね。今からその人を泣かせてくる」
パッと切り替えて部屋から出ていこうとするアトル様の袖を、私は慌てて引いた。
「おやめください。どうしてそんなに海の人は短気なんですか⁉」
「やられる前にやる――それは僕がマルスコーイから一番に習ったことかな」
あのオネエ‼ アタシいい教育してるでしょ~、と鼻を鳴らす姿がありありと目に浮かぶが、さすがに今ミハエル様を傷つけられたら面倒だ。
「復讐はあとできちんと考えますから、ひとまず私にお預けください! 下手に騒動起こして婚約破棄するよう国から言われたら面倒ですから、ね?」
「え?」
動いを止めたアトル様が、金色の目を丸くしていた。
それに、私は真面目にもう一度伝える。
「私は婚約破棄なんてしませんよ」
「いいの……? 悩んでたんじゃ、ないの?」
「やめました。政治面とか、責任とか、これからのこととか……色々考えたんですけど、やめました」
そして、私は笑ってやるのよ。
「だって私、悪い女ですから。欲しいものを手に入れるだけですよ」
悪役令嬢――なんて私にぴったりの言葉なんだろう。
どうせ、王太子殿下に婚約破棄され、その後三十回見合いに失敗した行き遅れよ。しかも、さっきは聖女を泣かせてやったわ。嫌でも吹っ切れるわよ。
だから、私は欲望を堂々と口にするの。
「あなたを下さい、アトクルィタイ様。竜や落とし子、神の御子とかすごいじゃないですか。そこんじょそこらの王太子より優良物件ですよ」
「ニカ……」
「私より年下で長命とか最高ですよね。ずっとその美形を堪能できるんですから。でも、私が老いぼれになったからといって捨てるのは勘弁くださいね。気が狂うと思いますので」
「はは……当たり前かな。安心して。海の生物は一途なんだ。特に僕は奥さんの産んだ子供を一人で育てて命を落とすくらい一途な種族の人魚かな」
「それは勘弁してください。私を置いて死ぬことは許しません」
「……わかった。善処する」
「絶対です」
「うん。わかったよ」
頷くアトル様は、微笑んでいる。泣きそうな顔で。嬉しそうな顔で。幸せそうな顔で。その可愛い顔が私をまっすぐ見てくれていて……もう、嬉しくて私まで泣きそうだわ。だから、もっとわがままになってしまう。
「アトル様、キスをしてくださいまし」
「……いいの?」
「あ、でも火傷してしまいますか?」
一応、さっき抱きしめた時は当然服越しだ。今もアトル様は手袋をしているから、多少の触れ合いなら大丈夫だろう。だけど、当たり前だけど唇を覆うものはない。
それでも、アトル様は笑う。
「ニカとキスできるなら……少しくらい火傷してもいい、かな」
「それなら、あとでリカ様に治してもらいましょう」
そして、私たちは笑い合って。キスをする。ただ唇と唇が触れるだけの行為なのに、どうしてこんなに幸せな気持ちになるのかしら。
ただただ幸せで。世界が眩しくて。愛おしくて。
ふと目を開けると、本当に私たちは温かな光に包まれていた。
――あぁ、これが神の祝福なのね。
アトル様も驚いているようだった。熱くないみたい。だって私の唇も、ほんのりとした温かさを感じているくらいだもの。それに、アトル様が私の頭を抱き込んでくる。もっと、もっと、と求められることが嬉しくて……彼の背に回した手に力を込めた。
私は神様に感謝して、もう一度目を閉じる。
彼を海に落としてくれて、ありがとうございます。
もう息もできなくていい。あなたがいれば、それだけで。
他の面倒なことなんか知らないわ。このまま彼に溺れるの。
強欲でしょ? 勝手ですか? でも許してくださいまし。
だって私は――
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拝啓 親愛なるリカ=タチバナ様
先日は失礼な口を聞いたこと、申し訳ございませんでした。
ですが、人の告白シーンを覗き見はよくありません。泣いて感動していたって、ダメなものはダメです。今度改めて紳士淑女としての嗜みを丁寧にお話させてくださいまし。えぇ、ミハエル様にも宜しくお伝えください。
リカ様の準備は順調ですか? 結婚式当日が、すごく待ち遠しいです。
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