13話「海の世界」
苦しい。苦しい。息が出来ない。目が見えない。痛いの。全身が痛い。特に足が痛いの。助けて。死んじゃう。このままじゃ死んじゃう。むしろ殺して。苦しいの。どうかお願い。誰か。誰か。
暗闇の中で、もがいて。あがいて。それでも苦しくて。
この感覚に、覚えがある。そう、あれは水槽で溺れた時。あの時はアトル様が助けてくれて。
でも、今は溺れていないはずなのに。水の中に飛び込んでもいないのに。どうして?
「……ニカ」
苦しい。もうだめ。もう……。
「ニカ、落ち着いて。ゆっくり息を吸って……そう、吐いて。もう目を開けて大丈夫かな」
その落ち着いた声に誘導されるがまま、私はゆっくりと目を開く。
ゆらゆらと揺れる視界。私が呼吸をすると、ぷくぷくと小さな泡が空へと上がっていく? 空? 違うわ。空はこんなに近くないし、こんなにキラキラ輝かない。空はもっと高くて、澄んでいて――見上げるたびに、なぜか胸が苦しくなるものなの。
「ニカ、大丈夫かな?」
聞き覚えがある口調、だけど塞がれたような声音に、私はそっと視線を向ける。隣には金髪の綺麗な少年の姿があった。
「アトル……様?」
彼は服を着ていなかった。一瞬ぎょっとしかけるも、下肢を見て納得する。彼の下肢が人魚になっていた。尾びれがひらひらと動いている。
あ、ここは水の中……?
そう認識した瞬間、私はぎゅっと彼にしがみついた。そして口を噤む。また溺れてしまうと思ったからだ。だけど彼は眉間を寄せながらも、微笑んだ。
「大丈夫。力を抜いて。ゆっくりと尾ひれを動かしてごらん?」
尾ひれ?
私に尾びれなんて――と迷った視線の先には、赤いひれ。無意識なのに左右にひらひらしているのは、波のせいかしら? わずかに浮かんでは沈む感覚。そして左右に揺れる感覚。視界にはいやでも小さな魚が入り込み、木々のように生えている光る枝には見覚えがある。あれはアトル様と出逢った初めての日、歓迎の舞として踊っていたアトル様が両手に持っていたものだ。
え? えええ? これはどういうこと?
そもそも私、なんでこんなに薄着……下着より心もとない格好なのですか⁉
上は貝殻の胸当てだけ。下なんて何も……あぁ、やっぱりこの赤い鱗が付いた下肢は私のなんですか⁉
待って。待って、ちょっと待って、本当にどういう――
「アンタねぇ……いい加減、人魚になったこと認めなさいよ!」
ズシンと脳天にチョップを受けて、私の赤い髪が大きく揺れる。その髪の先に見えた悪気もないオネエの人魚は、やっぱり海の中でも派手だった。
「だからぁ、アタシは謝らないわよぉ~。ちょうどいい機会じゃないのぉ。海のこと知ってもらうにはさ」
アトル様が珍しく怒っているものの、マルス様は素知らぬ顔。
私が人魚になってしまったのは、どうやらマルス様が魔法の薬を飲ませたせいという。マルス様は海で魔法薬の最高権威らしく、その効果や安全性はお墨付きなのだとか。
「大丈夫だってぇ。現に、陸のお嬢様もピンピンしているじゃないのぉ~」
いや、はちゃめちゃ痛かったし苦しかったですけどね? もう二度とごめんです。本当に死ぬかと思ったもの。
それが顔に出ていたのだろう。マルス様がぐいっと私の顔を掴んでくる。人魚の姿だからか、珍しく素手だ。あ、爪が虹色に輝いてすごく綺麗。
「アンタねぇ……あのくらいでメゲて、実際に稚魚産む時どーするのよ。その痛みより軽くなるように、ちゃんと調整したんですけどぉ?」
「う……マルス様。その冗談は面白くないですよ?」
「まったくー、出産時に『マルス様ごめんなさぁーい』って謝っても、手加減してやらないんだからねっ」
え、手加減ってなんですか? もしや出産時の取り上げをマルス様がする気じゃないですよね? そうですよね⁉
だけど「こっちは人間の身体の勉強、頑張っているのにさぁ」とプリプリ怒るマルス様が、すいーっと泳いで行ってしまう。以前図書館で借りていた医学書の量からしても、その発言は本当なのかもしれない。で、でも出産時マルス様に色々見られるのは嫌なんですけど?
マルス様の尾ひれは、私やアトル様の元のは違い、たくさんあるように見えた。ひらひらとまるでドレスの裾をはためかせているみたい。
改めて、アトル様が私に謝罪する。
「本当にごめんなさい……魔法薬の効果は一日で切れるみたいだから。少しだけ我慢してもらえるかな?」
しゅんとしたアトル様が可愛らしい……。まるで子犬のような少年に、どうして怒ることが出来ようか。
「なってしまったものは仕方ないですし……いい機会だから、海の案内お願いしてもいいですか? アトル様のこと、もっと知りたいです」
私がにっこり微笑むと、アトル様の表情がぱあっと華やぐ。だけど、その花はすぐに萎れてしまった。
「……あまり面白いものじゃないと思うけど」
「ほら、いっちにー、いっちにー。アハハッ、本当にアンタ人魚になっても泳ぐセンスの欠片もないのねぇ」
うるさいやい。
足元には砂の地面があり、見渡せば草木の代わりに珊瑚という淡く光る枝が生えている。だけど、そこに着くべく足がない。
アトル様にゆっくり手を引かれながら、私は懸命に足――尾ひれを動かそうとする。上半身は人間のままなのに、海の中でも呼吸は出来る。そして聞こえ方が違うけれど、話すことだって普通に出来る。だけど、どうしても思うように身体を動かすことが出来ない。
初めての環境で懸命に頑張る私を、マルス様は容赦なく笑い飛ばしていた。人として最低よ。人魚だけど。
そんなマルス様をジト目で見て――ふと気づく。
「歯抜け……」
「ん?」
「マルス様……いつものギザギザの歯はどうしたんですか?」
マルス様も、アトル様も。いつも笑った時などには、獰猛な歯を覗かせていた。それが、ない。むしろ普通の歯すらない。
マルス様がムッとした顔をした。対して、アトル様が苦笑する。
「僕ら、陸では入れ歯をはめてたんだよ」
「入れ歯?」
初めて聞く単語。言葉の通りならば、口の中に入れる歯のこと。え、なにそれ。何のために?
そんな私の疑問符を、アトル様は解説してくれた。
「海で僕らは小魚を丸呑みしていることが多いから、歯が必要ないんだ。でも、ニカたちと食事をするのに、それは良くないでしょう? 魔法薬で人間に姿変えていても、歯は生えなかったから。だから自分たちで石を削って、歯を作っていたの」
魚を……丸呑み?
私は奥歯を噛みしめる。人魚になった今も、きちんと歯があることに安心した。正直、歯抜けなんて老人みたいで嫌だわ。それに丸呑みしろと言われても、出来る気がしない……。
私の内心を悟ったのか、アトル様が肩を竦める。
「ニカの食事は、あとで僕たちがちゃんと陸の食事に近い物を様子するから、大丈夫かな」
「あ、いえ……」
本当なら、アトル様たちが普段を食べているものを、と言うべき所だろう。だけど、魚を丸呑み? 骨は? 内臓は? どんなサイズかわからないけど、飲み込めるものなの?
その困惑を誤魔化すべく、私はずれた質問を返した。
「人間の歯を真似ているなら……どうしてあんなに尖っていたのですか?」
「あ、そうしようって言ったのアタシ~」
私のまわりを厭味ったらしくスイスイ回るマルス様が、ニヤリと口角を上げる。
「平らな歯より、あの方がアンタたちビビるかなぁ~って」
「ビビるって……」
「第一印象で舐められたおしまいだからねぇ」
ケタケタ笑っていたマルス様の視線が動いた。大きな岩の後ろから、こちらを覗いている顔が二つ。
「ギュールグルグル」
「グググギューゲゲグエル」
何か言っているようだけど、正直気持ち悪い鳴き声にしか聞こえない。これが人魚たちの言葉なのかしら?
それに「はあ~⁉」とこめかみを引きつらせたマルス様が鳴いた。
「ギュギュグルグッゲグキュギュギジュレッ⁉」
「キャギョットギュギュギグキーキキイキ!」
「ギョギュギョッギレッ⁉」
「ギレッ⁉」
えーと……喧嘩をして、いるのかしら……?
私が呆然としていると、アトル様が私の腰に手を回した。
「ごめんね。ちょっと場所を移動しようかな」
「え――」
私に拒否権はなかった。私を抱きかかえたアトル様が、尾ひれを大きく動かして海の底をすいすいと泳いでいく。つまり私もそれに連れられるしかない。水の中を高速で進む肌の感触は嫌じゃなかった。
大きな音がしたと思って振り返ってみれば、大岩が木っ端微塵に割れている。破片がふよふよと浮かんでいた。マルス様が、殴ったの? マルス様の横目と目があった。自慢げに親指を上げられる。褒める……ところなのかしら?
そんなマルス様は、また他の人魚たちに何かを喚いて、今度は中指を立てていた。だんだんと距離が離れていく。私を抱きしめるアトル様の腕しか頼れない。その腕は、しっかりと男の人の腕だ。






