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12話「似合わない口紅」



「ニカ、寒くないかな?」

「大丈夫です」

「その椅子の座り心地はどう? 腰は痛くないかな?」

「……ご心配ありがとうございます。とても快適です」

「あ、喉乾いたよね。僕、お茶を淹れてくるね!」


 お気遣いなく、そう応えるよりも先に、アトル様は部屋から飛び出してしまった。


 あれから、お見合いは順調に進んでいる。アトル様と会う頻度も増え、今日もアトル様のお屋敷に招待されていた。正式に婚約を文書で交わす日も、そう遠くないだろう。私の預かりしれぬ所で、その準備が着々と進んでいるらしい。


 そして、なんとアトル様の屋敷に私専用の部屋を作ってもらった。白壁はこの屋敷共通のざらざらとした材質で、複数の細かい穴が空いている。固いんだけど、石よりも柔らかい感じがする不思議な素材だ。聞いた所によると、珊瑚というもので出来ているらしい。対して、机は普通の木造で、椅子も同様。だけど双方共に私の座りやすい高さで作られており、椅子に関しては背もたれのカーブや腰のクッションの硬さまで、全て私のためにあつらわれていた。本棚にはこれでもかと、資料本が詰め込まれている。


 そんな広くない部屋。そしてそれしかない殺風景な部屋。それが、私の書斎――執筆部屋。


 一人になった私は、息を吐く。

 どうして寝室や衣装室ではなく、書斎⁉ 息を抜く花も絵画もない。本当に書くことに集中するためだけの部屋。

 まぁ、真っ昼間から執筆できたことなんて人生始めてだから、胸躍っているのは確かなんだけど……それでも、これでいいのかなぁ感が拭えない。私は宰相令嬢なのよ? あなたは王子なのでしょう? そして私たちは婚約目前の間柄なのよ?

 デートするわけでもなく、会話をするわけでもなく。一方はただひたすら趣味に打ち込み、一方はその活動を全力で支える日々――そこまでして、彼は私の書いた小説の続きを是が非でもと待ってくれているのだけど……こんな生活も早二週間。ほぼ毎日。どうしよう。幸せすぎて変な笑いが出る。


 緩む顔を元に戻し、彼の期待に応えるべく再びペンを取った時だった。


「入るわよぉ!」


 声よりも先に響くのはドアがバァンッと開かれる音。

 振り返れば、やっぱり顔も服装も濃い美しすぎる美丈夫の姿。ノックがないのはもう諦めた。


「マルス様、いかがしましたか?」

「アンタさぁ、どうするつもりよぉ?」


 はて、何のことだろう――て、考えるまでもないわね。


「一応、この執筆はアトル様が望まれていることなのですが……」


 やっぱりこの快適引きこもり生活はダメよね。さようなら、私の趣味ライフ。また老後隠居したあとにこんな日々を過ごせたらいいな……。


 ちょっぴり感傷に浸っている私の背中がバシーンッと叩かれる。痛いわ。思わずむせる私をよそに「誰もそんな話してないわよ」とため息が吐かれる。


「誰も小説書くの、反対してないじゃない。アタシも応援してるわよ、アンタが本気でやっているうちは」

「マルス様……」

「ただし! やるからには全力でやるのよ! きちんと出版業界に売り込んで、商品にしてもらいなさい。そしてアンタの本を広めてベストセラー! 全世界を笑わせて泣かせて、がっぽがっぽ印税を稼ぐのよっ!」

「さ、さすがに夢の見すぎでは?」

「そんな『それ素敵ね』ってキラキラした目で謙遜されても、腹が立つだけなんだけどぉ。ほんといい性格してるわぁ。もう一発殴っていい?」

「もう背中ジンジンしているので、今日はこのくらいで勘弁してくださいませ。でも、マルス様は本当によく手が出ますね?」

「弱肉強食が海の基本だからね。気に入らないヤツはぁ、ぶっ飛ばすだけぇ~」

「せめて手加減してくださいまし」

「アンタねぇ……アタシが本気だしたら、細っこいアンタなんて一撃で骨も内蔵ぐちゃぐちゃ原型留めておけないわよぉ?」


 うわぁ、想像できちゃうけど想像したくない……。


 そんな軽口に乗じていると、「と、こんな話がしたいんじゃないのよ」とマルス様。


「アンタのお父さんから、正式に婚約を結ぶ手筈を聞いたんだけどさぁ。アンタがアトクルィタイとちゃんと結婚する気なら、こちらもちゃんと海の王様に証書もらって陸と海の会合とか準備を進めるけど、どうする?」


 どうやら、本当に話が具体的に進んでいるらしい。

 通常ならば家と家で場を設け、文書にて婚約を結ぶ。そして無事に婚約が結ばれれば、結婚に向けて準備を始め、教会にて式を挙げる。招待客の厳選や案内状の送付。そして関係貴族や王族へのお目通り等華やかな準備もあれば、支度金の相談や家同士の融資、事業の相談等々腹を探り合う準備は避けて通れない。

 それが今回、陸と海の異種族間。その規模や準備は国家間を超えて大規模なものになるだろう。


「その会合で、婚約の文書を交わすのでしょうか?」

「おそらくそうなるわね。海側としては、陸の文化に合わせるつもりよ。アンタの家にアトクルィタイを婿に出す形だからね。郷に入れば郷に従えってやつ」

「え? 私が嫁に行くんじゃないんですか?」


 初耳の大事な事案に、私が驚きを隠さないでいると、マルス様が苦笑した。


「アトクルィタイの意思とはいえ……アンタはただのお姫様じゃないもんね」


 どういうこと――私が尋ねるよりも前に、私の目が大きな手が塞がれる。


「いいわ。わるぅ~い魔法使いに、喜んでなったげる」


 視界がまっくらな中、かぽっと何かが開いた音がした。そして冷たく、だけどふっくらしたものが唇に触れたと思った途端、喉に甘いものが流される。


「マルスさ……」


 私の声は、最後まで言うことが出来ずに――


「アンタに、アタシの口紅は似合わないわね」


 唇を指で拭われた時、私は息が出来なくなった。



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