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10話「絶叫する図書館」

 アトル様が叫ぶ。 

 同時に、ズバッと脳天に圧力を感じた。だけど、それはさほど痛くなかった。中腰になった私は、誰かに無理やり頭から抱きかかえられているらしい。その誰かとは誰なのか――少し視線を上げればすぐにわかった。アトル様がとっさに私を守ってくれたのだ。


 それでも、全身はびしょびしょ。私は後頭部や背中が濡れてしまったくらいだが、アトル様は頭の先からつま先までずぶ濡れ。それでも、彼の顔は天へ向いていた。私も習って見上げると、くすくすとした笑い声が聞こえる。その主は、図書館の二階の窓から私たちを見下していた。


「あらぁ、あれは『元』王太子婚約者のヴェロニカ様ではございませんか?」

「ふふ、まさかぁ。あのヴェロニカ様ともあろう御方が、こんな場所で庶民とデートなんでねぇ。貴族の誇りを捨てたわけじゃああるまいし」

「まぁ、王太子に捨てられた令嬢なんて、あとは落ちるだけではございませんか。行き遅れた身体を売って少しでも家に財を残そうとするなんて、とても健気だと思いませんか?」


 あぁ、なるほど。たまにいるのよね。昔私を恨んでいた令嬢が、ここぞとばかりに悪戯してくるの。別に当時も彼女たちに何かした覚えはないのだけど……まぁ、あの王太子ミハエル殿下の婚約者というだけで、目の上のたんこぶだったのだろう。

 言っていることも下賤な憶測。貴族の誇りを捨てているのは、どちらの方かしら――と、何か言うだけ無駄ね。


 そう思って、私はアトル様を連れて早々立ち去ろうとしたのだけど、


「デュフフフフフ……」


 アトル様は笑っていた。あの気持ち悪い笑い方で。ギザギザの歯を覗かせて。


「アトル……様?」

「デュフフ……あぁ、ヴェロニカ様。すぐ乾かすね」


 ぱちんっと、アトル様が指を鳴らした途端、ふわっと温かい風が私のまわりを踊る。風が通り過ぎて行ったかと思えば、私の髪や服はもう乾いていた。


「寒くないかな?」

「え、あ、はい……」


 アトル様が私の赤い髪を一筋手に取り、にこりと微笑んでくる。あ、これは普段の可愛い顔。だけど、私が頷くと、またすぐに尖った歯を見せる。


「デュフフ、それじゃあ少し待っててね」


 そして、アトル様は飛んだ――飛んだっ⁉


 ふわっとアトル様が舞い上がり、見上げる私からは彼の靴の裏が見える。濡れた彼から、ポタポタと雫が落ちていた。

 彼は令嬢たちのいる二階の窓の前まで上がると、彼は張り付いた金の前髪を払ってから片手を胸に当て、立派な男性貴族のお辞儀を披露する。


「はじめまして。レイチェル=ジルコン(・・・・・・・・・・)氏。アナスタシア(・・・・・)()クオーツ(・・・・)氏」


 彼は名前、家名共に完璧に言い当て――おそらく、ニヤリと笑ったのだと思う。


「いやぁ、本当に綺麗な人たちですなぁ。ドレスの下の軟らかそうな肌に歯を立てるのを想像するだけでヨダレが落ちそうでござるよ。その可憐な笑顔が笑い声が悲鳴に変わる瞬間なんて想像するだけでゾクゾクする。拙者はもう我慢たまらずBダッシュで駆け寄って左右左Aを決め込み――」


 あ、逃げた。


 本当に絶叫をあげた青い顔の令嬢たちは、我先にと窓から離れていった。「幽霊だ!」「おばけ!」「魔物だ!」「呪われる!」等々、男性の声も混じっているから、令嬢に協力した執事などもいたのだろう。もしかしたら、まったく関係ない図書館員かもしれないけど……これでもかと恐怖におののく言葉が、どんどん遠ざかっていく。


「まだまだこれからだったのに……」


 それに、なぜかしょんぼりした様子で、アトル様は下りてくる。とんっと地面に足を下ろすと、彼は視線を所在なさげに動かしてモジモジしていた。


「穏便にね……解決してみたんだけど、どうだったかな? ほら、あの喋り方陸だと煽っているみたいに聞こえるんでしょ? 穏便にやり過ごすにはちょうどいいかなって思ったんだけど」


 穏便とは?

 あの令嬢たち死ぬ寸前みたいな顔をしていた気がしたけど、穏便とは?


「……空、飛べるのですね」


 思わず見当違いの質問をする私に、アトル様は苦笑した。


「うん。魔法かな。陸ではなるべく使わないようにしているんだけど……」

「そうですね。今はあまり目立ちすぎない方がいいと思われるので……あと今後、同じようなことがあっても今みたいなことはやめていただければ――」

「どうして?」


 純粋な目で、アトル様が首を傾げている。


 どうして――貴族間でトラブルを起こさないに越したことはないじゃない。それに、アトル様は人魚で、異種族。国王の許可の元こうしてお見合いさせていただいているけれど、他貴族や国民に受けいられるか定かではないのだから。こんな嫌がらせは大したことないのだし、放っておけばいいこと。どうしても我慢ならなくなったら、しっかり裏付けをとって、正式に『スーフェン家』として抗議すればいい。


 それなのに、アトル様は無垢に疑問を重ねてくる。


「ヴェロニカ様は水をかけられて、嫌じゃなかったのかな?」

「それは……」

「僕は嫌だったよ。ヴェロニカ様が事実じゃないことで愚弄されるだなんて。馬鹿にされても黙っているのが、陸の『いい男』なのかな?」

「そんなことは……ないかと」

「でしょう? それに……あいつらの逃げていく時の顔、ちょっと面白かったね」


 ふっと目を細めた彼に同意を求められた時、


「アンタたち~、アタシを無視して何楽しそうなことしてんのよぉ~」


 図書館の位置口から、これまた大量を本を抱えたマルス様。ぱっと見、医学書が多いようだ。意外だわ。


「それ、全部借りてきたんですか?」

「そうよぉ。アンタがいなかったから手続きに手こずっちゃったじゃないのぉ~」

「それは申し訳――」


 と謝ろうとすると、器用に本を抱え直したマルス様が、私の額を手袋をした指先で弾く。


「でも、ちょっと見直したわ」

「え?」

「さっきのアンタの悪い顔ぉ。案外いい性格してんのね!」


 さっきの私の悪い顔……?


 アトル様に視線を向けると、濡れたままの彼もそれに同意なのか、頷きながらクスクスと笑っている。

 自分で顔を触ると、思い出すのはニヤリと上げた口角の感覚。

 それに思わず、私も小さく笑った。


「……そんなことありませんわ」


 弾かれた額は、あまり痛くない。


 ~~~~


 拝啓 親愛なるリカ=タチバナ様


 今日は少しだけ、楽しいことがありました。

 ところで――私ってそんなに性格悪いですか?


 ~~~~


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