第27話 対面
牢の件から一週間後――。
宮廷では、あちこちに集まった女性たちが扇を広げて話す姿が見られた。
「それは本当ですの!?」
「ええ。私の叔父がギルニッテイに赴任していたのですが、なんでもトリルデン村というところに、新たな聖女様が現れたという噂なのですよ」
「まさか……! 聖女様の降臨は、お一人だけでも珍しいですのに……」
声を潜めてはいるが、あちこちで囁き交わされているので、必然的にイーリスの耳にも入ってくる。
「こんにちは、エマ嬢、アデレイード嬢、シシリー嬢。なにか面白いことでもあったのかしら?」
「あ、せ、聖姫様……!」
白い貝細工の扇に光を弾けさせながら近づくと、廊下の隅でかたまっていた三人の令嬢の背が、イーリスの声に明らかにびくりと震える。
「最近、皆さんなにか噂をされているようですね。ぜひ私にも教えてほしいのですが」
にこっと微笑みかければ、困ったように彼女たちが顔を見合わせている。
「い、いえ。聖姫様のお耳に入れるようなことではございませんので……」
「そうですわ。本当にたいしたことじゃございませんの」
そそくさと挨拶をして去って行く逃げ足の速さは、見事なものだ。
その姿を見送り、側に立ったギイトが心配そうにイーリスを見つめた。
「イーリス様……」
「わかっているわ」
ついに、新たな聖女の噂が都にまで届くようになってしまった。
(人の口に戸は立てられないとはいえ――)
宿場街で旅人から旅人へ。ギルニッテイで噂を聞いた商人が、次の街で話し、口から口へと伝えられて新たな聖女が現れたという噂が、この都にまで届いてきたのだろう。
「この分だと、もう都でもかなりの人々が知っているのでしょうね」
「中央大神殿でも、今急いでギルニッテイに問い合わせて真偽を調べさせております。まだ本当かどうかは決まったわけではありませんので」
ですからどうか、今しばしお待ちを――というギイトの顔も苦しそうだ。
「わかっているわよ」
笑って返すが、内心ではもやもやが募るばかりだ。
(まさか、本当にポルネット大臣が新たな聖女を呼び寄せたのかしら?)
だとしたら、その狙いは――。
今も瑞命宮で謁見しているリーンハルトの顔を思い浮かべ、ぎゅっとドレスの胸を握った。わかっている。今、謁見の間の王妃の座が空席なのは、自分が望んだことだ。ただ、こんな事態になるとは思っていなかっただけで。
「イーリス様……」
隣で見つめているギイトが心配げな顔をしている。
「大丈夫よ。まだなにかが変わったというわけでもないのだし」
そうだ。リーンハルトの気持ちが揺らいだわけでも、自分の立場が変わったわけでもない。
だから、いつも自分のことを気にかけてくれるギイトを安心させようと、わざと元気そうに笑った。にこっとしたのに、大翼宮の奥からはバタバタと慌ただしい足音が響いてくる。
「イーリス様!」
珍しい。このいつも冷静な男が、自分の前でこんなにも取り乱した様子を見せるだなんて。
瑞命宮に続く壮麗な天井画が描かれた廊下を走ってくるグリゴアは、いつもは取りすまして表情を崩すことも少ないのに、今日はよほど急いでいたのだろう。黒い短い髪が乱れて、少しだけ額に汗も滲んでいるではないか。
「どうしたの、貴方がそんなに慌てているなんて珍しい」
心の底から言ったのに、相手には皮肉に聞こえたのか。
「これが慌てずにおられましょうか」
はあと整わない息をつぐと、紫色の瞳でイーリスを見上げる。
「ポルネット大臣が解放されました。今朝法務省より連絡があり、本日陛下へのご挨拶に参内されるとのことです」
「なっ――!」
思わず、息を切らしているグリゴアに急いで近づく。
「それはどういうこと!? どうして、ハーゲンの件で謹慎処分になっているはずのポルネット大臣が!」
「そのハーゲンがあんなことになってしまったからです。裁判は中止になり、ポルネット大臣が関与していたという証拠も、明確な証言もない今、疑惑だけで勾留できる期間が過ぎたのでポルネット大臣の謹慎を解いたと法務省から連絡が入りました」
「そんな――!」
それでは、ハーゲンは本当に口封じのためだけに、生きたまま殺されたのも同然ではないか。
ただ、元の職場に帰りたかっただけだったのに! その仕事への気持ちを利用されて、あまつさえ相手の欲のために、無慈悲に切り捨てられた!
(そんなことのために――!)
強く扇を握りしめたが、大翼宮の入り口のほうではがやがやと騒がしい声が聞こえる。
見れば、今まさに噂をしていたポルネット大臣が、部下を連れながらこちらへと歩いてくるではないか!
「大臣!」
「ポルネット大臣! もう、出仕されて大丈夫なのですか!?」
彼の今の部下にあたる工務省の官僚たちだろう。人望が厚いのか、驚いた顔をしながらも近づいてきた部下たちに囲まれた姿は満更でもないようだ。
「うむ、心配をかけたな。元々、わしを妬んだ者が嵌めようとしての事実無根の讒言じゃ。それを陛下もわかってくれたらしい」
「よかったです! 大臣のお疑いが晴れて!」
部下に囲まれて皺だらけの顔で笑っている様は、まさに貫禄のある上司そのままだ。
配下の者たちに信頼されているのか。周りを囲んでいる若者たちは、彼の復帰を本当に喜んでいるようだ。
(許せない――!)
扇を握りしめた手が、ぎりっと音をたてる。
(その顔でハーゲンを騙して信頼させ、彼の人生を壊した――!)
きっとハーゲンも彼らと同じようにポルネット大臣を信頼していたのだろう。そして、利用されて、彼の一生ごと、すべてを台無しにされた。
(この男にそんなことをする資格があるはずはないのに――)
見ているだけで、はらわたが煮えくり返るようだ。
「ポルネット大臣!」
気がつけば、イーリスはずいっと一歩を踏み出していた。
「おや、これはイーリス様。お久しぶりでございます」
すっと身を屈める仕草は、いつもと同じ宮廷の重鎮としての威厳を感じさせるものだ。
だが、白々しくとぼけて礼をする仕草にさえ腹が立ってくる。
「久しぶりね。しばらく見ない間に、もっと色が白くなっているかと思っていたけれど」
謹慎処分をくらったことを暗に言っているのに気がついたのだろう。大臣の周りにいた官僚たちが、うろたえたように互いに目で見交わしている。
「陛下の聡明さのお蔭で、私が無実なことをわかっていただけました。これからは今までどおり、陛下に深い忠誠を誓っていきたいと思っております」
「そう……陛下にね」
「はい。我が偉大なるリエンラインの崇拝すべき国王陛下でございますので」
王妃、お前にではないと言いたいのだろう。屈めた頭の下から覗く瞳は、まるで鷲のように狡猾だ。
(――このポルネットという男は、危険だ)
狙っているのは、王妃の座なのだろう。それで何をしたいのか。外戚の地位を手に入れて、国政を思いのままにしたいのか。それとも、自分の子孫を王位につけて、臣下としての栄耀栄華を極めたいのか。かつての日本の藤原氏のように――。
「そう……。ならば……」
貝細工の扇をゆっくりと広げながら、窓からの日差しに光らせる。
「引退をなされるのも手ではないかしら。色白になられて、大臣のお顔も更に艶がよくなられたようです。この期に表舞台を退いて、後進の指導に力を注がれれば、大臣の手で陛下の御代をもっと盤石なものにすることができるのではないかしら」
事件に関わった身で、よくものこのこと――。そう言いたいイーリスの様子を察したのだろう。周りにいた若い官僚たちが、そそくさと王妃の不興を買うまいと離れていくが、大臣だけは泰然とした様子だ。
「なんの。まだまだひよっこばかりでは、安心して後を任せるなどできませんな」
「あら、最近元老院にはエブリゲ家の優秀な後継者も入ったことですし、リーンハルトも立派に独り立ちできる年になりましたわ」
だから、もう狸爺は必要ないと金の瞳に力を入れて見つめれば、大臣の髭の側にある口元がふっと笑う。
「確かに陛下は立派な若者となられました。――しかし、お側におられるのが、滅んだ国の王族とは名ばかりの姫ではまだまだ不安で」
言葉で、ざっと背中に水を浴びせられたような気がした。
「なっ――大臣! 聖姫様に向かってなんてことを!」
「確かに聖姫様ではありますが、まだ聖戴祭も行われていない状態。世間的には、今はもうない国の滅んだ王族の姫でございましょう?」
「ポルネット大臣……!」
身を乗り出すギイトを必死に腕で止める。
「つまり――亡国の姫の私では、陛下にはふさわしくないと?」
「たとえ滅んでいなくても、北の小国の姫が大国リエンラインの王妃となること自体がおかしいのです。聞けば、今は亡きルフニルツは代々自国の姫を大国の妾妃や同盟のための人質として嫁がせてきたとか――。そんな国の王女を、いくら聖女とはいえ我がリエンラインがありがたがって王妃にいただくなど――」
はっと鼻の先で笑う。
「陛下は、御伴侶に恵まれなかった――と思っておるだけにございます」
嘲弄と共に紡がれる言葉で、目の前が赤くなっていくかのようだ。
確かに、故郷は小国で、生き残るために代々姫を結婚という名の人質として差し出したり、大国の後宮にやむをえず送り出したりもしてきた。
だが、それでもルフニルツの父と母は、自分をあの白い花に囲まれた宮殿で大切に育ててきてくれたのだ。
白い花々に囲まれながら、どんな未来が待っていても幸せになってくれと囁かれたのは一度や二度ではない。
それを――。
(この男は馬鹿にした!)
許せない。ハーゲンや陽菜のことだけではない。自分の父や母まで馬鹿にした相手をどうして許すことなどできようか――。
ぎりっと扇の要を握りしめる前で、大臣がイーリスの表情を窺いながら、くっと笑う。
「では、陛下への復帰のご挨拶がありますので。儂はこれにて――」
「お待ちなさい!」
思わず口から言葉が飛び出していた。
「最近、あなたの管理しているトリルデン村で新しい聖女が現れたとの噂があります! これは、なにかあなたが関係しているの!?」
直接訊いた内容に、後ろのほうで控えていたグリゴアとギイトが驚いた顔をしている。しかし、歩き出そうとしていた大臣は、飄々としたものだ。
「さあ、存じませんな」
第一と皺のよった目を細める。
「万が一、儂が関わっていたとして、聖女様が現れたことでなぜ儂を罪に問うのですかな?」
言い捨てると、そのまま瑞命宮に向かって歩き去って行く。
その背中を見送り、痛いほど唇を噛んだ。
「イーリス様……」
ぱんと扇子を閉じて、手のひらに叩きつける。
「まだよ」
心配そうに覗きこむギイトを見ながら、血が滲みそうなほど唇を噛みしめる。
「なにかあるはずよ。きっと、なにか――」
なにかがなければ、彼は陽菜が現れた時点で、堂々と自分が呼び寄せた聖女だと宣伝して、後見を名乗り出ることもできたはずだ。新たな聖女を顕現させた立て役者として――。
それができないのは、なにかがあるからに違いない。
(だけど、ほかにそれを知っていそうな人物となると――)
ハーゲンの口は封じられた。彼の身元調査によると、家族とは離れて暮らしていたようなので、牢に捕らえているハーゲンの一族が詳しいことを知っている可能性は少ない。
(そうなると――)
ふっと脳裏に甦った面影に目を見開いた。
(いる!)
「そうよ、いたわ……」
一人だけ、なにか手がかりを掴んでいるかもしれない人物が。
「あ、イーリス様! どこへ!?」
その顔を思い出すと、ギイトたちが慌てるのもかまわずに急いでイーリスは歩き始めた。
かつかつと踵を響かせ、大翼宮を出ると、王宮の北西へと向かっていく。
古い石の回廊を歩き抜けた先には、昼の光の中でも重厚な法務省の建物が近づいてくる。 あちこちに鷹と羽の紋様が描かれた建物は、先日来たときと同じ厳格な空気を纏い、冬の曇り空の中に法の番人としての威圧感を湛えている。
「お待ちください、イーリス様」
石の廊下を、ギイトとグリゴアが早足で歩くイーリスを慌てて追いかけてくる。
「どうして、突然法務省に」
イーリスの行動に、驚いたのだろう。ようやく追いついたグリゴアが焦ったようにイーリスの顔を覗きこんでくるが、足を止めるつもりはない。
「会いたい囚人がいるの」
「は? 囚人?」
「ええ」
紫の目をぱちぱちとさせるグリゴアに、希望の名前を告げれば、すぐにはっとした顔をした。
「わかりました。では、私はすぐに手続きと案内人を呼んできますので」
急いでいかめしい法務省の一室へと駆け込んでいく。グリゴアの背が消えて間もなく、代わりに一人の役人の青年が慌てたように廊下へと飛び出してきた。
前王妃で、次期王妃でもあるイーリスが現れたことに恐縮しているのだろう。青年はおっかなびっくりといった様子で挨拶をしてくるが、急かせばすぐにイーリスとギイトを牢へと案内をしてくれる。
この間も通った重い鉄の扉が開かれ、黄土色の煉瓦が並ぶ空間に入ると、歩く音さえもが湿っているかのようだ。暗くて、どこか澱んだ空気。
冬だから下から這うように底冷えがしてくる。差し込む明かりが少ないこともあるのだろう。天井近くの細長い窓から差し込んでくる明かりは、外と同じ白いものなのに、ここではひどく冷たいだけのように思える。
薄明かりの空間では、歩く踵の音さえもがひどく大きくて木霊するかのようだ。
この間のように泣き声やうめき声が聞こえてはこない。音が少ないせいか、余計に死の国に足を踏み入れたような気分になる。
ふと、前を先導していた青年が、足を止めた。壁をくりぬいて作られた棚に置かれていたランプに火を灯し、この間入ったときとは違う道を示してくれる。前よりも狭い通路だ。人が一人手を広げれば、走って奥から逃げて来ようとする者がいても、体で止めることができるような。
じじっとランプの炎が揺れた。この明かりのお蔭で、どうにか足下を照らし出すことができているが、見回したこの通路には、角ごとに灯された松明以外には通路を照らす光源すらない。きっとここは、明かり取り用の窓からさえ逃亡を図れないようにする囚人が入る独房なのだろう。
死刑の執行を待つだけのような。
前回のハーゲンの時と違うのは、囚人の逃亡の危険性なのかもしれない。
――そう、狡猾で、悪巧みを得意とするような。
かつかつと響く足音を聞きながら、独房の奥へと進んでいく。すると、まさに今脳に思い描いていた通りの性格を持った人物が、鉄格子の向こうからイーリスを見上げてくるではないか。
ふんと嘲りながら、猛禽のような瞳で笑った。
「やっと、来られましたな。王妃様」
少しも崇めてはいないくせに、いまだにその呼称を使うところは、彼なりの嫌味なのだろう。
「ヴィリ」
名前を呼ぶと、相手が牢番の持つ松明の明かりの中で皮肉げに顔を歪ませていた。