第26話 月の下で
「イーリス」
後ろでこつんと響いた靴音に、驚いて振り返る。
暗い回廊の奥を眺めれば、いつの間に来ていたのだろう。月を見ながら陽菜と笑い合っている自分たちを見つめたまま、暗がりから一歩出たところにリーンハルトが立っているではないか。
「リーンハルト……」
(いつのまに、ここに……?)
さっき派手な喧嘩をしてしまったばかりだから、どんな顔をしたらいいのかわからない。
咄嗟に涙が残っていないかと、慌てて俯いて目の辺りを手で拭ったが、その間にもリーンハルトはかつかつと近づいてくる。そして、前に立つと、がしっとイーリスの両肩を掴んだ。
「イーリス」
「はいっ……」
痛いほどの力だ。そんなに怒らせてしまったのだろうか。怖々と見つめると、なぜかリーンハルトは、ひどく真剣な顔をしている。つい身構えてしまうが、しかし、次の瞬間ふわっと頭を抱きしめられた。
(え……)
驚いて、思わず視界に広がった銀色の髪に目を見開く。
だが、冷えた銀色の髪越しに触れてくるのは、確かにリーンハルトの体温だ。
(どうして、今リーンハルトが私を抱きしめているの……?)
ぱちぱちと金色の睫を瞬いたが、その間にもリーンハルトは自分の金色の髪を広い掌で、そっと優しく抱きしめてくれる。そして、囁くように呟かれた。
「少しだけ時間をくれ。君が嫌なこと、どうして許せないのか。どうするのが、みんなにとって一番良いのか。きちんと俺も考えてみるから――」
その言葉にはっと瞳を開いた。
「え? リ、リーンハルト……」
「俺にとっては当たり前だったことも、君にとってはそうではないのだろう。だったら、俺は国王としてどうするのが一番良いのか、法律ではなくもう一度自分自身で考えてみるから」
先ほどの一族の処刑のことだと頭に閃く。
(まさか、リーンハルトがもう一度考えると言ってくれるだなんて――)
過去ならば、絶対にありえなかったことだ。
急いで至近距離の顔を見上げれば、青い光の中で、リーンハルトは少しだけ困ったような笑みを浮かべている。
「俺は、王として与えられた教育を元にして今まで生きてきた。だから、違う生き方を知っている君とは、考え方の違うこともあるだろう。だから、そんな時は、これからは王として自分がとるべき最善の道はなになのか、常に問いかけてみることにするから――」
少し迷いながら口にしているが、それでも瞳は覗きこむイーリスを真っ直ぐに見つめ返している。
いつもは冷たいアイスブルーの瞳が、今日は包み込むかのようだ。年相応の表情を浮かべているリーンハルトの顔は、まだなにかを少し迷っている。だが、揺れる視線は抱きしめるかのように優しくイーリスを見つめているではないか。
「リーンハルト……!」
たまらなくなって、今度は自分からその首に抱きついた。
「ごめんなさい……! リーンハルトだって、好きで誰かを罰しているわけじゃないのに……!」
王としての務め。常に命を狙われかねない存在として非情さも必要とされると知っていながら、自分のために違う考えを取り入れることを選んでくれた。
リーンハルトが考えるといってくれたことが、なによりも嬉しい。人の命の重みを軽視せずにいてくれることが――。
そして、なによりも生きてきた環境も、歩んできた人生も、なにもかもが違う自分の言葉を受け入れようとしてくれたことが。
ぽろぽろと首にしがみついて泣くイーリスの様子に驚いたのだろう。
一瞬息を呑んだような表情になったが、その顔がふっと弛むとまるで慰めるように、リーンハルトがイーリスの金色の髪をぽんぽんと撫でてくれる。
「俺にとっても、民は君と作る国の大切な存在だ。それがどうすれば幸せに暮らせるのか――それを考えるのが、国王たる俺の役目だからな」
「うん……ありがとう……」
金の瞳からぽろぽろと涙がこぼれていく。
透明な雫がリーンハルトの上着に落ちて濡らすが、それを見つめるリーンハルトの様子は、まるで自分の腕の中でイーリスが泣いてくれるのが嬉しいかのようだ。ただ、優しく髪を撫で続けてくれる。
「それに、俺にとっても彼らは別になんの恨みがある存在でもない。まあ、個人的に恨みがある相手ならばともかく――そうでもない相手を殺すのは、気分的にも面白くはないしな」
「うん、そう。そうよね……」
「ああ。彼らへの罰が本当にふさわしいのかちゃんと考えてみるよ。彼らは罪を犯したわけでも、俺を怒らせたわけでもない。本当に、どこまでこの件に関わることができていたのか――。きちんと判断してみる」
「うん、うん……」
何度も頷きながら、リーンハルトの囁いてくれる言葉を噛みしめる。嬉しい。リーンハルトが、こんなふうに考えてくれることが。
何度も心の中で、今の言葉を思い出しながら頷いて、ふと、頭の中で何かがひっかかった。
(うん? 個人的に恨みのある相手?)
「ああ、俺に直接敵対する行為をとったわけでもない。それならば、本当に苛烈な罰が正しいのか考えてみるよ」
(ちょっと、待って! これさりげなくギイトだけは死刑候補に残されていない!?)
よく考えてみれば、さっきからリーンハルトの表現が、微妙にギイトだけは排除するものになっているような気がする。
(待って、待って! 絶対にこれ内心でギイトだけは別だと呟いているわよね?)
イーリスが信頼しているというだけなのに、一体どこまで根にもっているのか――。
呆れたが、思わずぷっと笑みがこぼれてくる。
「なんだ?」
「ううん、リーンハルトらしいなって思って」
そうだ、とてもリーンハルトだ。だから、今の言葉が、リーンハルトがこの場をとりなすためだけではなく、本当に心から考えて言ってくれているのだとわかる。
「嬉しいの、ありがとう」
思わず笑みが溢れた。満面の笑みで笑いかければ、リーンハルトの顔が面白いぐらい赤くなっていく。
ああ、よかった。話して、お互いの考えがわかって――。
きっと、自分たちは大丈夫。これからは、きっと前よりも寄り添いあって生きていくことができるだろう。
生きてきた環境や、考えが違っても大丈夫――。これからも少しずつお互いに歩み寄って、互いに手を差し出すことさえ忘れなければ。
さっきまでは冷たかった月光が、今は優しく二人を彩っている。
喧嘩をしたのに、今も抱きしめてくれるリーンハルトの腕の温かさを感じながら、青い月の光の中で、イーリスは心からの笑みを浮かべた。




