第25話 王としての務め (※リーンハルト視点)
慌てて走ってきたリーンハルトが暗がりの回廊から眺めれば、庭に通じる手前で、探していたイーリスが陽菜と二人で月を見上げている。
いつも忌ま忌ましい神官が、自分が追ってきたのに気がついたのだろう。陽菜に抱きしめられながら泣くイーリスに胸が詰まって、声をかけられないでいるリーンハルトに近づくと、微笑んで頭を下げていく。そして、そのまま無言で暗闇へと下がっていくが、相変わらず腹の立つ奴だ。
いつも、ここぞという場面でイーリスを励ましている。
(――イーリスが大切にしている相手でなければ、家出の件の時にとうに首を刎ねてやったものを……)
とは思うが、今はそれ以上に先ほど聞いたイーリスの言葉が、胸に迫ってくる。
『だって、家族や子供に罪はなにもないわ……! それなのに、ハーゲンが罪を犯しただけで、全員が殺されてしまうだなんて……!』
自分は、ずっと立派な国王になりたいと思っていた。民たちが安心して暮らせるような国を作るために、良い王となり、イーリスも守れるようになりたいと考えてきたはずだ。
だが――。
「陛下、こちらにいらしたのですか」
ハアハアと息を切らしながら、グリゴアが法務省から追いかけてくる。この元指導役の焦った顔は珍しい。昔から――自分と、妻子のこと以外では、こんな顔は決して見せたことがない。
いつもとは違う心配そうな顔を見たからだろうか。つい、ぽつりともらしてしまった。
「グリゴア、俺は間違っていたのだろうか?」
「え?」
紫色の瞳が、眼鏡の奥で不思議そうに瞬く。だが、視線はリーンハルトが見つめているイーリスの姿に気がつくと、そちらのほうへと流れる。
「俺は――ずっと、国王は非情でもあらねばならないと思っていた」
「陛下」
「俺が、国の規範を乱してはいけない。法律に臨み、必要ならば刑を執行することも、民を守るために兵士たちを前線へ送ることも厭わなかった。俺が揺らげば、貴族たちの意見も揺らぐ。決して国を二分するような事態を作ってはいけないと思っていたのだが――」
「そのとおりでございます。王は国の基。陛下の考えが、二転三転しては、それを執行する官僚たちの行動も揺らぎます」
グリゴアが、いつもの冷静な面を取り戻すと、すっと身を屈めている。
それを見ながら、腕を組んだ。
「だが、今のイーリスの考えを聞いていると、それでいいのか自信がなくなってきた。俺は、法律は厳格に運用するべきだと思っていたのだが――、本当にそれだけでいいのだろうか?」
王族に反逆した者は一族もろとも死刑。リエンラインでは昔から決められている刑罰だが、泣いているイーリスの姿に初めてその条文に疑問を抱く。
見ず知らずの子供にまで、あそこまで涙を流すだなんて――。
自分の家族を失うかのように、悲痛な涙だった。
思えば、イーリスの涙を見た記憶は少ない。
ふと、昔故国が戦火で滅んだという知らせを聞いたときに、自分をなじることさえなく、ただ一人部屋で涙を流していた姿を思い出す。
――あの時でさえ、自分に故国を助けてくれとは訴えなかった。
言えなかったからだ。あの時のリエンラインの状態。王妃として聖女として、自分の立場と国のことがわかっていたからこそ。
そのイーリスが、涙を流しながら訴えた先ほどの叫びを思い出しただけでも、胸を焼くような痛みが襲ってくる。
少しだけ瞳を俯かせたリーンハルトの仕草に気がついたのだろう。グリゴアが、すっと身を起こした。
「陛下。恐れながら、法律を守る陛下の姿勢は正しいです」
「グリゴア……」
「それを疑ってはなりません。陛下が悩まれれば、その下で自らの恨みがあるわけでもないのに、他者の命を奪わねばならない者は、より深い苦しみを背負うことになります」
かちゃっと底光りのする眼鏡を持ち上げる。
「命を奪わせる――その重荷のすべてを引き受けるのも、また国王たる者の務めなのです」
「それは、わかっている。わかってはいるのだが――」
握りしめた拳が微かに震える。動揺しているのは、イーリスの絶叫を聞いてしまったからだ。自分だけが背負うのならまだしも、これから行う処刑は、最愛の人にまで終生癒えない傷を与えてしまうのかもしれない――。
暗がりで震えるリーンハルトの手を見たからだろう、ふっとグリゴアの視線が弛んだ。
「それをご理解された上で――寛容になられるのも、時には必要かと」
「寛容?」
思いもしなかった言葉に、驚いて元指導役を見上げる。すると、彼はまるで微笑むように、微かな月の光を受けながら、温かくリーンハルトを見つめているではないか。
「そうです。古のキャラストンの戦いで、オランリア国のペール王は、降伏した敵の捕虜を一人残らず処刑しました。次の戦いから敵で降伏する者はおらず、最後の一兵になるまで抗い続けたので、オランリア軍の被害は甚大なものになったとか。一方で、戦っていたテルノウン国の将軍は、投降した敵の将兵をすべて寛大な心で許したので、オランリア軍が不利になるにつれ、将軍が進軍した先では次々と将兵が城を明け渡し、戦わずして投降する者も少なくはなかったと伝わっております」
「それは――昔、お前が教えた授業の内容だな」
「はい。処罰が苛烈になればなるほど、人はそれを恐れます。それは反逆を防ぎ、王権を守る強大な抑止力ともなりますが、同時に一度牙を剥けた相手には、息絶えるまで全力で抗ってくる結果を招きます。なにしろ、生き残る方法がほかにはありませんので」
「それは、つまり法の苛烈さは余計な反発も招くということか……?」
月の光に照らされながら尋ねると、元指導役は教え子の答えに満足したような笑みを浮かべている。
「今回の事件。ハーゲンは、元々は陛下と王妃様の再婚を妨害するつもりだけだったようです。ですが、事が発覚し、自分の一族を守るために真相を知ったイーリス様を、口封じのために殺そうとしたと聞き及んでおります」
一瞬アイスブルーの瞳が開き、動きかけた口をリーンハルトは閉じた。
「陛下、私は法律は時代と共に変えていけばよいと思っております。昔は有効だった方法も、今は逆に作用する恐れがあるのならば、よく精査し、よりよい方向に変えていけばよいかと。そうすれば民は恐怖で支配する以上に安心して暮らし、場合によっては、冷酷さよりも寛大さのほうが、陛下とイーリス様の御身を守ることに繋がるかもしれません」
「グリゴア……」
「法改正の動議が必要ならば、私はいつでも元老院として署名をいたしますので」
にこっと笑うグリゴアの顔は、教え子を見守る穏やかなものだ。その姿を見つめ、ようやくリーンハルトも頷くことができた。
「――よく、考えてみる」
「承知いたしました。では、私はこれにて」
深々と頭を下げて退出していく姿は、いつもながら喰えない元老院のものだ。
だが、その姿を見送り、リーンハルトはもう一度月光の下に立つイーリスたちを見つめた。
白い月光に照らされた姿は、先ほどまでこぼしていた涙を今は拭い、不思議なほど血の香りとは無縁な存在だ。金色の髪が月光に青く輝き、まるで月の女神のように神秘的な光を放っている。
側にいる茶色の髪を揺らす陽菜と二人で笑っている姿は、昔読んだ月の女神と精霊というお伽話を思い出してしまう。
綺麗で――不思議なほど白くて。ゆっくりと心がないでいく。
きらきらと輝く髪は、本当に彼女が聖なる存在であるかのようだ。
美しくて、汚してはいけないかのような。それなのに自分は、彼女が温かい血の通う存在で、とても優しい心の持ち主だと知っている。触れてよいのか躊躇うほど自分とは違う考えをもっている彼女。しっかりとしているのに、自分の辛さ以上に人の痛みを感じて。そして、そんな彼女の側にいて、ずっと彼女を守っていたいと願うのならば--考えながら、月の光の下で笑っているイーリスの姿に、気がつけばリーンハルトの足は一歩踏み出していた。