第23話 不安になるわけ
「イーリス!」
後ろからリーンハルトの声が追いかけてくるが、どうしても足を止めることができない。
自分のために、あんなに多くの人々が殺されていく?
今見た光景が、頭の中で幾度も繰り返される。
(それを認めろだなんて無理よ!)
小さな子供の愛らしい手。母親の腕の中で、少し疲れたように寝ていた子供。小さな泣き声に、側から子守りを代わるように手を伸ばしてくれていた女性。牢の中で、疲れ切った様子で、隣に座る夫の背中を撫でていた老婦人。
そのすべてが、自分のために殺されていく――!
(わかっているわ……! リーンハルトが国王である以上、法律を勝手に破るなんてできないことは)
でも、罪を犯したわけでもないのに、殺されていく人々を見過ごすなんてどうしてもできない。
それを止めたいと願うのは、前世を現代の日本で生まれ育った自分のエゴなのだろうか――。
後ろからかけられてくる声も振り切って走り続けると、いつのまにか足は王宮の広い庭へと続く回廊に辿り着いていた。
法務省の廊下を何も考えずに駆け抜けたからだろうか。
ふと気がついた空の月に足を止めれば、青い月光は天から白々とイーリスを照らし続けている。ぽつんと回廊に立ちながら、切れた息で苦しそうに空を見上げた。
「また、喧嘩をしちゃった……」
いつの間に、空に月が昇っていたのだろう。王宮に着いたのが夕方だったから、牢の中にいるうちに、夜になったのだろうが。走っていても、周りが暗いことにすら気がつかなかったなんて――。
『イーリス!』
後ろから必死に追いかけてきていた声を思い出して、涙がぽろっとこぼれてくる。
「どうして……いつも、こうなっちゃうの……?」
うっと、嗚咽がせり上がった。
我慢しようと思っていたのに。こらえなくてはと思えば思うほど、涙が頬に流れて、しゃくりあげてくる泣き声を止めることができない。
(気がついていたのに――!)
リーンハルトが、あの事件以来イーリスと喧嘩をしないように努力してくれていたことは。
前よりも、ずっとイーリスの話を聞いてくれるようになった。頭ごなしに否定することもなくなって、このままうまくいくかと思っていたのに――。
「なのに、また喧嘩しちゃった……」
どうして自分はこうなのだろう。なぜ、ここではこれが普通なのだと、リーンハルトの考えを受け入れることができないのか――。
(リーンハルトだって、やりたくて処刑を決めているわけではないでしょうに――)
それなのに、どうして自分はそのリーンハルトの考えを受けとめることができないのか。前世から培ってきた自分の考えと、ここで生きてきたリーンハルトの考え方。
どちらが正しいとかそういうのではないのに。きっと両方が正しくて、両方がそれぞれの考えから見ると間違っている。
(それがわかっているのに――)
どうして、リーンハルトに寄り添ってあげられないのか。
「――本当に……、こんなので、また、やり直しても大丈夫なの……?」
月を見ていると、涙とともにぽろっと言葉がこぼれてくる。頑張っても、いつもなにかうまくいかなかった六年間。今度こそちゃんとした夫婦になろうと二人で願っていたのに。またひょっとしたらうまくいかないのではないかという不安が、心の中から青い月の下に浮かびあがってくる。
「――リーンハルトは、変わろうとしてくれているのに……」
(どうして、自分は同じことをしてしまうのかしら……)
冷たい青い光に照らされた頬に、ぽろぽろと涙がこぼれてくる。まるで止め方を忘れてしまったかのようだ。
ただ、喉がしゃくりあげるのを抑えることができずに月を見上げていると、ふと後ろから声がした。
「イーリス様、こんなところにおられたんですね?」
不意にかけられた声に振り返れば、月明かりに照らされた回廊の柱の間には、さっき一緒に帰ってきたギイトと陽菜が立っているではないか。
「どうされたんです?」
イーリスの泣き顔に驚いたのだろう。きょとんとした顔をしていた二人が、慌てて側へと駆け寄ってくる。
「陽菜、ギイト……」
月の光に照らされた回廊に立つ二人の姿に、思わずごしっと涙を拭ったが、隠すのには少し遅かったらしい。拭いたつもりでも、また目から溢れてきた涙に、二人の表情が驚いたものに変わると、急いでイーリスの前へと屈んだ。
「どうされたんですか? イーリス様、どこかお怪我でも?」
「ううん、違うの陽菜。ただ……」
言いにくくて言葉を途切れさせたのに、イーリスの両腕を掴む陽菜の顔は真剣そのものだ。
「どこか苦しいのなら、急いで医者を呼んできますから!」
「いえ、違うの。ただ、ちょっとリーンハルトと喧嘩をしてしまって……」
口ごもりながら告げると、陽菜が驚いたように黒い目を見開いている。
「イーリス様……」
「だめね、私……」
その顔を見ていると、なぜか涙を止めることができなくなる。まるで、親友に慰めてもらう高校生の時の気分だ。こんなことを話したらきっと心配をかけてしまうとわかっているのに。どうしてだろう。陽菜になら話しても大丈夫な気がする。
きっと王妃でも、聖女でもないただのイーリスを知っている数少ない相手だからだ。自分の前世が、本当は普通に暮らしていたただの女の子だと、陽菜だけは感覚的にわかっている。そのせいか。再度こぼれ落ちだした涙を手で押さえても、糸が切れたように止めることができない。
「どうして、いつもこうなってしまうのかしら……。リーンハルトは、あんなに私とやり直そうと努力をしてくれているのに……」
ぽろぽろと流れる涙は、月の光の中で、手から腕へとこぼれていく。それを見上げながら、陽菜は瞳を開いたまま尋ねた。
「あの……! まさか、また私のことで……!」
「ううん、違うの」
陽菜に勘違いをさせてはいけない。慌てて首を振ったが、側で見つめている陽菜はまだ心配そうだ。だから思い切って口を開いた。
「ただ、ハーゲンの件で、処刑される予定の一族の中に、子供がいるのを見てしまって……!」
「子供」
はっきりと陽菜の瞳が大きく開かれる。
「ええ。それで、私……。どうしても――どうしても、子供を殺すのは納得ができなくて……」
だってまだ赤ん坊もいたのよ? そして、その子を愛おしそうにあやしている家族の姿を見ているとたまらなくて――と、震える声で喉につかえながら話せば、陽菜の体が身動くことも忘れたように、イーリスを見つめ続けている。
「だって、家族や子供にはなにも罪はないわ……! それなのに、ハーゲンが罪を犯しただけで、全員が殺されてしまうだなんて……!」
脳裏に、さっき見た子供の愛らしい幼い姿を思い出す。小さな手、舌足らずの言葉。どれもこれからの未来を謳歌しようと育っていく姿で、周りがその子に手を差し伸べる様子も、これまでどれだけ愛して育ててきたかがわかるものだったのに! なのに、疲れ果てながらも支え合っていた老夫婦ごと、彼らはすべて首を落とされて殺されていく。
「家族が私を殺そうとしたから! 私を守るためだけに、これから彼らは殺されていくのよ! 何の罪もないのに……! どうして、それをただ黙って見過ごすことができるというの!?」
ほんの一言、処刑は取りやめ。国王がそう発することができれば、助かるはずの命たちなのに!
「イーリス様……」
静かに、陽菜がイーリスの泣く顔を引き寄せてくれた。そして、優しい腕で慰めるように包んでくれる。
一瞬、陽菜が髪につけている甘い香りが鼻をくすぐった。柔らかな花のような匂いに包まれていくのが、泣き疲れた心になによりも優しい。
ぽつりと陽菜が言葉をこぼした。
「私も――刑を受ける寸前だったので、彼らの怖さや絶望はわかります」
白い腕の中で、言われた言葉に目を開く。
「でも、イーリス様が助けてくださいました。 今の私が幸せに暮らせているのは、すべてイーリス様のお蔭です。ですから、この件について、イーリス様はなにも間違ってはおられません」
「陽菜……」
忘れていた。はっと白い顔を上げる。
そうだ、陽菜もリーンハルトに幽閉を宣言されて、そのあとしばらくは、ずっとリーンハルトを怖がっていたではないか。
あれほど仲がよかったのに。名前を聞いただけで一瞬で怯えた表情に変わるほど――。
「陽菜……」
「許せないのも、ショックを受けるのも当たり前です。私達はまったく違う世界の、まったく違う常識の中で生きてきたのですから」
だからと、腕に抱いたイーリスに向かって、その深刻な表情をほぐすように月光の中でにこっと指を一本たてて微笑みかける。
「陛下と考え方が違うのも、当たり前なのです」
それにそれが聖女の役割なのでしょうと笑う陽菜の顔は、どこか友達を励ますかのようだ。そのわざと明るい仕草に、イーリスの顔にも思わずくすっと笑みがこぼれた。
「ありがとう……」
まさか陽菜に勇気づけられるなんて。少し前までは考えもしなかった。だけど、自分と同じ世界で育ってきた彼女になら、自分のこの胸にわだかまるものもわかってもらえるような気がする。
「そう言ってもらえると、ほっとするわ……でも、そのせいでまたリーンハルトと喧嘩をしてしまって……」
涙を拭いながら、抱きしめてくれている陽菜の顔を覗きこむ。
「どうして、いつもこうなってしまうのかしら? 今度こそちゃんとやり直そうと思っていたのに……」
「イーリス様」
「リーンハルトが、今度は私を傷つけないように頑張ってくれているのは知っているの。それなのに、また私のせいで、喧嘩をしてしまって……。こんなので、本当に今度はうまくいくのか、考えていたらだんだんと不安になってしまって……。どうして、今頃になってやり直すのが怖くなってしまうのか――」
まだ眦に残っていた涙の最後の一滴を拭いながら告げると、陽菜が瞬間息を呑んだ。
「当たり前です」
しかし横からした声にそちらを振り返れば、陽菜に抱きしめられたままのイーリスを、ギイトが優しく見下ろしているではないか。
「ギイト」
さらりと砂色の髪が、少し屈んだギイトの頭からこぼれ落ちてくる。泣いているイーリスを覗きこむ彼の表情は、昔からと同じ優しい穏やかなものだ。
「イーリス様は、この六年間ずっと、陛下と仲良くなりたいと努力をされてきました。私は知っております。幼い身で、慣れないリエンラインの宮廷作法を必死に習得されていた姿を。陛下に恥をかかせないようにと、出会った人の名前と話をすべて紙に書き留めて、覚えようとしておられた来られたばかりの頃の姿も」
「あ、あれは……! 少しでも、早く馴染んで、もう一度リーンハルトと話をできるようになりたかったから……!」
「それだけ、六年間頑張ってこられたのです。それなのに、うまくいかなかった――。それがやっとうまくいきかけて、失敗したら不安になる。それは当たり前でしょう?」
「ギイト……」
自分を見つめてくれる薄茶色の瞳を見つめ返す。
「不安になるのは、それだけイーリス様がこれまで頑張ってこられたからなのです。当然です。だって、頑張ればうまくいったかもしれないなんて逃げ道は、もう塞がれているのですから――」
だからと、ギイトの瞳は優しく微笑んでいる。
「自分が、それだけ真剣に向き合ってきた結果だから、怖くなるのです」
笑いながら告げられる言葉が、すとんと胸に落ちていく。
(そう……ね。頑張ってきたわ……)
ずっと頑張っていた。そして、頑張ってもきっと無理だと諦めかけて。とうとう全部諦めようと決めて、ようやく振り返ってくれたのが六年もたったついこの間だった。
(怖くなったのは――きっと今が幸せだからだわ……)
だから自分も、もう喧嘩をせずにうまくやっていきたかったのに、どうしても無実の人を殺すのだけは見過ごせなかった。
うまくいきたいのに、感情が上手に整理できない。
「どうしたらいいのしら、私……」
ごしっと最後に残っていた涙を眦から拭い取る。その姿に、ギイトがにこっと微笑んだ。
「大丈夫です。ギルニッテイのナディナ女史の話によると、夫婦が喧嘩になったときは、先ず言いたいことを我慢しないのが一番だということですし」
――ナディナ。
忘れていた夫婦喧嘩のエキスパートの話に、思わず体が固まってしまう。
「言いたいことを言って、それでお互いの考えをどこまで尊重できるか、そして譲れるのか。私にはわかりませんが、夫婦なんてこの生活の繰り返しだと話されておりましたから」
それに、とギイトが少しおどけたように付け加える。
「私としましても、陛下が処刑の単語を出されるのは、少ないほうがいいですし――」
(そういえば、ギイトはいつもリーンハルトの処刑リスト第一候補だったわ)
思い出した事実に、思わず目をぱちぱちとさせてしまう。
「でも、きっと本気ではないと思うのです。陛下やコリンナは口癖のように、私を見ると処刑という言葉を出しますが、陛下が本気とは思えませんし――。だから、今回のことだってきっとイーリス様のお考えをわかって」
まだギイトは話し続けているが、予想もしなかった言葉に、イーリスの口が思わずぱかっと開いてしまう。
(ううん! 絶対にギイトに対しては、本気だから! むしろ、虎視眈々と隙を狙っているのに!)
これは危ない。この自覚のなさでは、いつリーンハルトの逆鱗に触れるか。
そう焦ってギイトを見つめたが、幼い頃から仕えてくれている側近の神官は、暗がりのなにかに気がついたように、にっこりと笑う。
そして、イーリスの前で身を深く折り屈めた。
「では、イーリス様。私はアンゼルに陽菜様がイーリス様と一緒におられると伝えてきます。部屋で荷物の片付けをさせていましたが、そろそろ心配しているでしょうし」
にこっと笑うと、身を二つに折り曲げて、回廊の暗がりへと歩いて行く。その姿は回廊で一瞬止まり、そしてなぜか体を折ってまた歩き出した。