第20話 帰還
「聖姫様! いったいどうされたのですか!?」
護衛の騎士団が騒がしいのを聞きつけて、慌ててやってきたのだろう。石造りの神殿の奥からナディナが息を切らして走ってくる。
「ごめんなさい。急いで都に帰ることになったの」
「儀式はもう全て終わったな? 急用ができた。パエラ神殿長には、よろしく伝えておいてくれ」
「それは……。確かにもう聖姫としての儀式は、つつがなく終了して問題はありませんが」
側まで駆け寄ってくると、静かに見上げる。
「お名残惜しゅうございます。もっと色々なおもてなしをして、聖姫様の武勇伝などもお伺いしたかったですのに」
(それは、離婚問題のかしら?)
それを聞いて喜べば、今度こそギルニッテイの神殿はリーンハルトから目の敵にされてしまうから、絶対にしないほうがいいと思うのだが。
「いつか……また、どうかこちらにもおいでください。そして、どうか聖姫様の御勇断のお話を伺わせてください」
(やっぱり、離婚騒動のだ――!)
「え、ええ。機会があれば」
引きつりながら答えたが、後ろのリーンハルトの目が怖い。その間にも灯りを点した奥からは話を聞いたコリンナとギイトが急いで飛び出してくる。
「イーリス様! 荷物の仕度はできました!」
「助かったわ! ギイト、陽菜は?」
「さっき、アンゼルに伝えましたので、もうすぐに」
コリンナ一人では持てない荷物を助けながら、声を張り上げているギイトの後ろから、先に神殿に帰っていたのだろう。陽菜たちが慌てて石造りの廊下を駆け寄ってくる。
「イーリス様!? 急に出発されるってなにかあったんですか?」
予定では、明日の朝でしたのにと驚いた顔をしているが、なにも知らない陽菜にどこまで話したらいいものなのか――。
「事情は、馬車の中で話す」
「リーンハルト!?」
だが、迷っている間に暮れかけた空の下から降ってきた声に慌てて振り返った。
「どうせ噂が広がれば、時間の問題だ。それならば陽菜も知っておいたほうがいい」
そうだ。今はこの周辺だけだが、ポルネット大臣が絡んでいるのなら、遠からず陽菜の耳にも届くかもしれない。ならば、傷ついたりこれ以上利用されたりしないように、聞いておいたほうがいいのだろう。
「私も知っておいたほうがいいこと?」
見当もつかないというように、陽菜が首を傾げながら、一緒に薄暗くなり始めた馬車に乗り込む。
だが、本当に異世界から新たな聖女を喚び寄せたのか。
(水銀中毒の村人を助けたのは本当らしいけれど……)
もしも、ポルネット大臣が陽菜の代わりとして、異世界から新たな聖女を召喚したのなら、目的はイーリスがもつ王妃の座だろう。
(だとしたら、いつかは自分たちの前に姿を現してくる……)
「あの、イーリス様?」
馬車が動き出しても考え込んでいるイーリスの様子に困惑したのか。側から陽菜が、俯いているイーリスを気遣うように手を伸ばしてくる。
「ああ……ごめんなさい。考え込んでしまって」
どう陽菜に話せばいいのか――――。
ポルネット大臣が利用したいがために、自分の人生を滅茶苦茶にされただなんて。
弱りながら隣から覗きこんでくる可憐な顔を見つめた。最初は互いにライバルとして対峙していたなんて思えないほど、今陽菜がイーリスを見つめてくる顔は心配そうだ。
「あの……なにかあったんですか? イーリス様こそ、お顔の色が悪いですよ?」
「ポルネット大臣が、異世界から新たな聖女を招き寄せたかもしれない」
「リーンハルト!?」
目の前の席に座りながら、腕を組んでずばっと言い切ったリーンハルトの言葉に思わず叫ぶ。
「え……、聖女を……?」
「そして、陽菜。お前も同じようにして、こちらの世界に喚び寄せられた可能性がある」
「それは……」
逸らしもしないアイスブルーの瞳に視線を向けたまま、陽菜の声が掠れていく。
「私も……同じように、あちらから喚ばれたという……ことですか……?」
震えを止めるように、陽菜の手が自分のドレスの胸元を握りしめていく。だが、いくら力をこめても、押さえることができないように震えは手から体中に広がっていくではないか。
「ごめんなさい――! もっとはっきりしてから話すつもりだったのよ。でも、こんなことになってしまって……!」
「陽菜、なんでもいい。お前がこちらの世界に来たときに、どうやって喚び寄せられたのか。手がかりになるようなことを覚えてはいないか?」
努めて冷静に尋ねているが、見つめているリーンハルトの顔色も僅かにだが悪い。
「陽菜……」
心配して覗きこんだが、陽菜は目を大きく見開いたまま、ただ首を横に振っている。
「わかりません……! あの時、急に黒い雲が空に広がって。稲光がその間から見えたから、急いで岸に戻らないとと思って……!」
ぶるぶると震えながら開いた瞳は、その日の記憶を追いかけているかのようだ。
「船員さんに連絡して、船が急いで回転したのに、間に合わなくて……! 気がついたら、横から三角のような波が頭の上に襲いかかってきて……!」
波に呑まれた瞬間を思い出したのだろう。強く、陽菜が目を閉じた。
「船が横倒しになって投げ出されたんです。足が着かないのに、次々と波がまるで襲うようにやってきて、どうしても浮かびあがることができなかった……! 泳ぎは得意だったのに……! まるで、足から波の中に引きずり込まれていくかのようで……!」
がくがくと震えだした陽菜の体に、慌てて手を添えてその肩を支える。
「そこで意識が途切れて……! 気がついたら、ここにいたから。私、違う世界に来たのでも、命が助かっただけラッキーと思わなきゃあとずっと自分に言い聞かせて……」
いたのに――と目を閉じた瞬間、溢れだした陽菜の涙に、その細い体を抱きしめた。
「ごめんなさい……! イーリス様、陛下。私、あの時のことは、本当にこれ以上覚えていなくて……!」
「いいのよ――。当然だわ、死ぬような目にあったのだもの」
どれだけ怖かったのだろう。以前は気丈に話していたから気がつかなかったが、本当はとても怖い思いをしていたのだ。
平静な顔をしているから、平気なわけではないと、誰よりも自分がよく知っていたはずなのに――――。
「いいの。今度は、私があなたを必ず守ってあげるから」
「ごめんなさい……イーリス様。ごめんなさい……」
泣きながら謝っているのは、自分の存在が最初からイーリスの邪魔をするためだけに、この世界に喚ばれたと気がついてしまったからだろう。
「今では、陽菜は私の大事な友人よ……。神様がくれた贈り物なの」
心からの言葉だ。だから、落ちつかせるように、ただその泣き続ける髪を優しく撫で続けた。
いつもならば、怒るリーンハルトも今日ばかりはただ黙って見ている。きっと陽菜の苦しさがわかるからだろう。
そして、馬車は走り続け、大急ぎで都への道を戻った。
騎士団を伴っているから、最速でというわけにはいかないが、逆に安全に夜の道も走ることができる。
元々リーンハルトが、街道の整備にはかなり力を入れていたから、馬車でもスピードはかなりなものだ。
普通ならば三日かかる道のりを、休憩をほとんどなくすことで二日で駆け抜けると、二日目の夕方には都に戻った。
慣れ親しんだ王宮の前に着くと、既に知らせが寄越されていたのだろう。
以前、イーリスがシュレイバン地方から帰ってきたときのように、グリゴアが出迎えて大翼宮の正面にいるではないか。
黄昏が翳る入り口にいつもの冷静な様子で出迎えているが、その顔色は晴れない。
「陛下、イーリス様。ご無事でのお帰りなによりでございます」
「どうした? なにか、留守中にあったか?」
(まさか、もうここにも聖女の話が届いているのだろうか)
グリゴアには、事前に手紙でリーンハルトが知らせたとは言っていたが。
だが、ポルネット大臣が、新たな聖女を擁してなにかを企んでいたとしても、ハーゲンの証言を得られれば、正式に逮捕をして取り調べることもできるはずだ。
(陽菜のためにも、なんとしてもハーゲンの証言を手に入れなければ!)
意気込んで赤く染まり始めた玄関に立つグリゴアを見つめたのに、いつもはその髪の黒と同じく静かな雰囲気を纏う男が、わずかにだが焦りにも似た表情を浮かべている。
「それが……」
そして、強く一度唇を噛んだ。
「やられました。牢番の監視の隙をついて、ハーゲンに薬を盛られました」