第9話 追っ手
「お待たせしました」
からんからんと扉の鐘を鳴らして、女の子が外に出てくる。今なら、夕暮れ前で、まだ食堂が混み出す時間ではないのだろう。
持ってきた厚手の上着に袖を通しながら、女の子は橙色に染まった石段を元気に下りてくる。
「ごめんなさい。お仕事の手を止めて」
「いいんですよ。どっちにしろ、忙しくなる前に、夕飯を食べる休憩時間がもらえることになっていましたし」
さすがに、毎日同じ料理だと飽きていたのですよね。帰りになにかをつまみますと笑っている少女は、どう見てもまだ十二才ぐらいだろう。
「ありがとう。えーと……」
イーリスが手を伸ばす合間にも、近くの工房で打たれる槌の音が、かんかんと響いてくる。両側に並んでいるのは、先ほどまでとは違い銀細工職人達の工房だ。
きらきらとした華やかさを作り出しているのにもかかわらず、昔ながらの古い工房が並ぶ通りを、少女は楽しげに笑いながらイーリス達を先導していく。
「アンナと呼んでください。奥様? いや、お嬢様は、ルフニア人ですか?」
いきなり当てられたこちらでの人種に、どきっとした。
「え、ええ。よくわかったわね?」
遠い北国出身の者は少ない。だから目立つのだろうかと、思わずびくりとしたが。
「そりゃあ! 綺麗な金色の瞳ですから。ってことは、やっぱり北国への逃避行なんですね!」
「あの……」
しかし、どうやらアンナの関心は、イーリスとは違う方向だったらしい。誤解を訂正しようと片手をあげたが、どうもアンナの耳には届いてはいない。
「わかります! 物語によくありますよねー。好きあった神官と、人質の姫君。結ばれるために、二人手に手をとっての愛の逃避行! いえ、違っててもいいんです。ただ、これだとすごく夢をみたくなるだけで!」
(どうしよう……ひょっとして、この子。元の世界でいうオタク属性なのかしら?)
自分もれっきとした歴史オタクだから、人のことは言えないが、黒い髪を振りながら喜んでいる姿は、どうにも同類の予感がする。ただ萌えの方向が、自分のように実在した歴史上の人物ではなく、架空の物語に出てくる悲劇の恋人達に向かっているだけで。
(あれ? ひょっとして、この子。元の世界なら薄い本とかに手を出すタイプじゃないかしら)
いや、まさか。とは思うが、なんとなく近いものを感じてしまうのだ。この子が自分たちを見つめるきらきらとした瞳の輝きに、歴史上の人物のあれこれを眺めて想像していた過去の自分の姿とが。
「こら、いくらなんでも失礼ですよ。この方は、私などには本来恐れ多い――」
ギイトが止めるが、その瞬間きゃーっとアンナが頬を押さえた。
「わかります! わかります! そう、私にはもったいない方。それなのに、惹かれてしまうのは何故なのか。定番の台詞ですよね」
石畳の上で、両頬に手を当てながら悶える姿には、呆気にとられてしまう。しかし、これで確定した。
「一体、何を……」
「『公爵令嬢の恋人』だわ……」
「え?」
神殿で毎日神に祈祷を捧げているギイトは、知らなかったのだろう。
「今、貴族平民問わず、大流行の恋愛小説なの。王に婚約破棄をされた公爵令嬢が、側で献身的に支えてくれていた神官と恋に落ちるという話なのだけれど……」
(まさか、それと重ねられていたとはねー)
「なっ……! そんな小説と」
頭の固いギイトには、自分がその本に出てくる登場人物と同一視されているというのが、理解できなかったのだろう。慌てて、言われた恋人という単語に、顔を赤くしたり青くしたりしているが、さすがにこんなことで咎めるのは大人げない。
「まあまあ。子供の言うことだから。私達のことがばれないなら、それでいいじゃない?」
「よくありません! イーリス様は、私ごときが噂で汚してよい方ではありませんのに……!」
(うーん。こっちも石頭だったわ)
どうしようと思うが、そもそも女の子がしている妄想に角をたてるのも大人げない。というか、オタクは死んでも治らないと、既に自分自身で痛感済みだ。
(まさか、自分が萌えの対象になるとは思わなかったけれど……)
考え方を変えれば、ひょっとしたらこの子は成長したら、とんでもない萌文化の担い手になるかもしれないし――――。
と思ったところで、ふと先の石畳を歩く女の子の足が気になった。
金色から青く変わりだした黄昏の中で歩く足は、ひどく白い。それだけではなく――――。
「どうしたの? その痣?」
「え? なんのことです?」
すねの後ろ側に、あんなに大きな鬱血があるのに、気がついていないのだろうか。
走ってひらりとめくれたスカートから見えただけだから、確証はないが。
(まさか、体罰……。なんてことはないわよね?)
こんなにも明るい女の子なのに。思わず眉を寄せたが、よく見ると足首もひどく細い。
(まるできちんと食べていないかのような――――)
「ねえ――――」
さすがに気になって、料理屋から三つ目の角を曲がったところで、体罰などを受けていないか尋ねようと、金色から薄暮に変わる大気の中に手を伸ばした。
アンナに話しかけようとした瞬間、しかし、前から聞こえてきた声に急いで口を閉じる。
「いたか?」
「いや。確かに、こっちの古物商に向かうと、料理屋で話しているのを聞いた者がいるんだが」
聞こえた言葉に、はっと側にあった路地に飛び込む。
そして、アンナを腕に抱えたまま、隠れた煉瓦造りの建物の陰から覗くと、どうやら前で話しているのは、シュレイバン地方を守る騎士達が着る赤い制服を纏った二人の男だ。
(今、古物商とか聞こえたけれど……)
嫌な予感に、額に汗が滲む。けれど、イーリスが突然取った行動の意味がわからなかったのだろう。
「イーリス様?」
「しっ!」
後ろから不思議そうに声をかけてくるギイトに、指をたてて慌てて声を制する。
そのイーリスの仕草に、何かを感じ取ったのか。突然抱えられた腕の中で身じろぎをしていたアンナも、後ろのギイトと同じように息を潜めると、表の通りから聞こえてくる声に耳を澄ましている。
「馬車屋の話では、確かにさっき、都から男と女の二人組を乗せてきたらしいんだが」
「付近を当たったら、料理屋で、豪華なドレスを着た女と神官服を纏った男が、一緒に食事をとっていたという話が、いくつか手に入った。おそらく、今朝の早馬で、都から手配された二人組に間違いがないだろう」
(都? 早朝の伝令って――――)
いつかは追っ手が来るとは思っていたが、まさかこんなに早く先回りされているとは思わなかった。
(っていうか! こんなに最速で張られているって、まさかあいつ軍の緊急伝令網を使ったの!?)
信じられないと瞳を開いてしまう。
あれは、本来他国との間に戦争が起こったり、国内でのっぴきならない事態が起こったりした時に使う緊急連絡網だ。確かに、一級の軍馬が軍の支部から支部へ走るから、馬車などとは比較にならない速さだが。
(だからって――――! いくら統帥権が国王にあるからって、なにを勝手に濫用しているのよ!)
まさか、そこまで手を回すとは思わなかった。焦るが、煉瓦造りの暗がりから覗くイーリスには気づかずに、騎士達はそのまま話し続けている。
「でも、なんでたった二人を捕まえるのに、そこまで大げさなんだあ? ただの坊主と女の二人連れだろ?」
「そりゃあ、あれだよ。見た連中の話によると、身分の違いそうな二人が仲良く食事を囲んでいてさ。あの睦まじそうな様子は、もう駆け落ちに間違いがないっていっていたぜ」
(駆け落ちっ!?)
再び聞いた言葉に、がんと頭を殴られたような気がした。
(ちょっと待って。なんで騎士達まで、あの噂を信じているの!?)
「なんだ、生臭坊主かよ。じゃあ、令嬢の方は、王家に繋がるどこかの姫さんで、傷物にされる前に、慌てて親が取り返そうとしているって話か」
「だから隠密での命令なんだろうさ。あーあ。一緒に逃げるぐらいの仲なら、どうせとっくに傷物にされているだろうによ」
諦めの悪い話だなと、騎士達は笑っているが、聞いていたイーリスは、顔から血の気がひいていく。
「ちょっと……待ってよ……」
(誰と誰が駆け落ちよ! 知らない間に、勝手な噂を信じて――――!)
これがリーンハルトの耳に触れれば、予想した通り間違いなく自分は姦通罪で処刑だ。
いや、それだけではない。
(私だけじゃないわ! ギイトだって、王妃と密通したなんて不義の容疑をかけられたら――――)
あのプライドの高いリーンハルトだ。たとえなにがあったとしても、二人のことを許すはずなどない。最も軽くて、一生地下牢。いいや、どう見積もっても死亡フラグが今たったと考えるべきだろう。
(詰んだ――――なんて、冗談じゃないわよ!)
悔しいのか、とんでもない事態に恐れているのか。イーリスの手は、細かく震えているが、それを無理矢理握りこんで、気持ちに喝を入れた。
(だめだわ! 逃げなければ!)
急いで、イーリスはアンナの腕を掴んだ。そして、手を引っ張ると、急いで路地を騎士達がいるのとは反対の方向に向かって走り出す。
「走って! ごめんなさい、早く!」
「お嬢様?」
突然イーリスに腕を掴まれたアンナには、なにが起こったのかわからなかったのだろう。
しかし、イーリスは、かつかつと高い踵を鳴らしながら、急いで灰色の石畳の上を走っていく。できれば音は立てたくなかったが、元々走る用ではないこの靴ではどうしても無理だ。走る度に踵が揺れそうになってぐらつくが、必死に足首で支えると、暗くなっていく路地の奥へと逃げ込んでいく。
振り返る余裕すらない。だが、きっと驚いているだろうアンナには、声を張り上げて謝った。
「ごめんなさい! 追っ手なの!」
「やっぱり! 駆け落ちなんですね!」
力を入れていた足首が思わず崩れて、冷たい石畳に転びそうになってしまう。
どうしても自分のペースで考えるこの子に、どう説明すればよいのか――――。
「ごめんなさい! 駆け落ちではないの。私とギイトとはそういう関係ではないし、ギイトのためにもそう見られてはいけないから――――」
慌てて体勢を立て直したが、イーリスがこぼれた前髪をおさえる間にも、アンナはうんうんと頷いている。
「わかります! 神への信仰か、世俗に落ちても手に入れたいめくるめく激情の愛か! 私、お二人が神殿と公爵家から完全に逃げおおせるまで、なにも言いませんから!」
何も言えない――――と、唇を思わず噛んだのはイーリスの方だ。
(諦めよう。この子の頭の中では、ギイトはもう完全に愛欲に苦しむ理想の神官様だわ……)
だいたい、いつ自分が公爵家の令嬢になったのか――――。
色々とつっこみたいところは多いが、自分たちに『公爵令嬢の恋人』を重ねているのなら、迂闊に敵に話したりもしないはずだ。
(なにしろオタクに属するほどのファンみたいだし!)
ならば、それを再現している自分たちを軽々と追っ手に売ったりはしないはず。いや、それ以上にこの子が彼らに捕まると駆け落ちとか迂闊なことを言いそうでまずい! と考えたところで、イーリスは足を進めていた路地の斜め上から飛来してくる物に、目を見張った。
「危ない!」
咄嗟にかわすが、紙一重だ。
「イーリス様!?」
すぐ後ろを駆けていたギイトも驚いた顔で、斜め上から飛んでくる矢をかわしている。かんと音がして、横にある煉瓦造りの建物に当たって矢は落ちていく。
直後、上からは三本目。そして、四本目と間断なく黒い矢が、イーリス達の命を狙って降り注いでくるではないか。
おそらく、狭い路地を作っている左右の建物にあるどこかの屋上から射かけているのだろう。
慌てて上を見上げたが、ゆっくりと降り始めた夕闇が視界の邪魔をして、暗い建物の上をよく見通すことができない。ただ、一瞬ちらりと黒い影が見えた。
しかし、続けて飛んできた矢をよけた瞬間、すぐ後ろで「ああっ」という鋭い悲鳴があがった。
「アンナ?」
(しまった! 一緒に腕を引っ張ったつもりだったのに!)
少しだけ間に合わなかったらしい。振り返った先では、アンナの腕に矢が突き刺さり、ゆっくりと体が石畳にくずおれていくではないか。
「アンナ!?」
だから、イーリスは急いで駆け寄って、腕に刺さった黒い矢羽根を見つめた。