表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

89/203

第19話 謎の答え

 イーリスは開いた窓の奥に見える光景に、じっと目を凝らした。


 古い木の枠で作られた窓を開いた室内では、一組の男女が大きな大理石の板を木箱の中へと嵌めている。サイズ的には、壁にかかる小さな風景画ぐらいの大きさだ。


「そっちはいいかい?」


「ああ、入ったぜ」


 声をかけて確かめているのは、大理石の板を置いた周囲に、ちょうど木箱の溝がくるようにするためなのだろう。


 その奥では、何人かの女性や男性が作業をしている。ガラスの板を研磨剤で磨いている者。そして、既に置いた別の大理石の板に錫箔を広げている者たちの姿が見える。


 もう夕暮れが近いから急いでいるのか。薄い錫箔を大理石の板の上に丁寧に広げて刷毛で伸ばすと、その上に銀色に光る液体を金属の入れ物から注いでいくではないか。


「これだわ……」


 少量だけ注いだ液体を、巻いた柔らかな布地を使って箔の上に広げていく。その姿を目にして、イーリスは喉がからからに渇いていくような感覚を覚えた。


 窓から入ってくる夕日を浴びて、銀色の液体は錫箔の上で、きらきらと美しく輝いている。


「はい、いいよ」


「じゃあ、次いくね」


 女達が声を掛けあって作業をしているが、更に大量の銀色の液体を錫箔に注いでいく姿に、イーリスは慌てて駆け出すと急いで扉を開いた。


「みんな、急いで外に出て!」


「えっ?」


「あれ、ひょっとしてさっき噂に出ていた王妃様!?」


 工房の使い込まれた扉を突然ばたんと開いたイーリスに、みんながまるで豆鉄砲をくらった鳩のように、丸く目を見開いている。あまりに驚きすぎて、その手はガラス板にかけたまま、銀色の液体を注いだ錫箔の上にのせようとして止まっている。


「イーリス!? 一体」


 突然どうしたと言いたいのだろう。後ろから慌ててリーンハルトが入ってくるが、その姿を見た瞬間、イーリスは急いでハンカチを取り出した。そして、ばっと押し当てて口を隠す。


「な、なにを……」


 するんだと言いたいのだろう。だが、今はそれを説明している余裕もない。


「これよ。これがこの村の死病の原因だったんだわ」


「え!?」


 さすがにずっと持ったままだったのは重かったのだろう。目の前でガラス板を持っていた二人が、錫箔の上に板を下ろして、改まってイーリスに対してかしこまっている。しかし、そのガラスの下では夕日に輝きながら銀色の液体が広がっていくではないか。その煌めきに、きつく瞳を寄せてしまう。


 ――アマルガム工法!


(まさか、これがこの村で使われていただなんて!)


「急いでこの部屋を出て! その液体がこの村の人々が病気になる原因よ!」


「液体?」


「ええ、あれは水銀よ」


 はっとリーンハルトの顔色も変わった。こちらの世界では、まだあまり毒性が知られてはいないが、過去に異世界の雑談として始皇帝の逸話をしたから覚えていたのだろう。


 どうして気がつかなかったのか。


 脳裏で過去の世界でたくさん読んだ本の一節が甦ってくる。


 アマルガム工法は、過去に生きていた向こうの世界でも、水銀を用いるので、鏡職人にたくさんの中毒患者を出したのではないかといわれている製法だ。


(そうだわ。水銀を使った鏡の製造は簡単で、小さな工房でもできることが利点だったわ……!)


 方法は簡単だ。大理石の板を置き、そこに錫箔を広げる。そして、錫箔に水銀をかけて、その上にガラス板を置いて放置すれば、時間と共に水銀は蒸発していき、錫がガラス板にくっつくのだ。


 この村でのみ起こっている病。こう聞いた時点で、最初にこの村特有の産業を疑うべきだったのに!


「急いで外に出て! そして、蒸気を吸った者に、急いで医者の診察を!」


 そうだ。この村で起こっているのが、水銀中毒というのなら話がわかる。おそらく毎日この職場で、水銀の蒸気や粉末を無意識に吸入していたのだろう。そして、服や髪に付着したそれを家に持ち込んだせいで、家族にも少なからずの水銀中毒が発生していたのだ。


「え、毒!? でも、俺達は毎日仕事で水銀に触っていたのに」


「それに、私達はどこも体の調子は……」


 悪くないと中で働いていた者達が戸惑った顔をしているが、それは仕方がないだろう。


「水銀中毒はすぐに出るとは限らないわ。でも、その蒸気や粉塵は、人間には猛毒なの。多量に摂取すると、体が震えたり目が見えにくくなったり。うまく言葉を話せなくなったりもする毒物なの!」


 はっと村人達の顔色が変わった。今、イーリスが語った症状と、村人の間に伝わる謎の病気との様子が一致したのだろう。急に今かけた水銀をおどろおどろしいもののように見つめると、わなわなと手の先が震えだしている。


「急いで、外に出て! そして、手をよく洗ってうがいもして!」


「は、はいっ!」


 扉の前をのけてやれば、作業をしていた者達が慌てて飛び出していく。その姿を確認して、急いで後ろを振り向いた。


「リーンハルトも! どこか苦しいところはない!? 気分が悪いとか、なにかおかしなところとかは!?」


 まさか、水銀中毒がこの村を襲っているとは考えもしなかった。工房の入り口とはいえ、もしもリーンハルトになにかあったら――。


「念のために、リーンハルトもうがいをして! それから、もし気分が悪いようならすぐに軍医を……!」


 いや、今すぐに診てもらったほうがいいだろう。


「待っていて、すぐに呼んでくるから……!」


 慌てて走り出そうとして、がっと両肩を掴まれた。


「イーリス!」


 はっと見上げれば、アイスブルーの瞳が正面から真摯に自分を見つめている。


「俺は大丈夫だ」


 ゆっくりと。安心させるように、一言ずつ噛みしめていわれた言葉が心の中に静かにしみこんで来る。


「う、ん……」


(リーンハルトは大丈夫……)


 どこも苦しくはない。不調になった様子もない。


 思わず、目に涙がにじんできた。


(私、王妃失格だわ……)


 国民が大変な中毒になっているかもしれないときに、側にいるリーンハルトの方が心配だなんて――。


(いつから、こんなに弱くなってしまったのだろう……)


 リーンハルトになにかあったらと思うと、それだけで怖くてたまらなくなるなんて。


 泣くべきではない。王妃ならば、ここで涙をこぼすのは間違っていると思うのに、リーンハルトが無事だと聞いただけで、安心して頬に静かな涙が落ちていく。


「よかった……」


「イーリス」


 情けない王妃だ。申し訳ないと思うのに、なぜかリーンハルトの声はひどく優しい声音に満ちている。


「俺はどこも調子が悪くないから安心してくれ。それより、君は? 今、部屋の中に飛び込んでいったが」


「あ、私はどこもおかしくはないから」


「それでも俺より君のほうが、長く中にいた。そして直接蒸気を吸っているから、念のために軍医の診察を受けたほうが」


 じっと見つめてくる瞳に、思わずぷっと笑みが噴き出してくる。


「心配性ねえ。私より、村人のほうが優先でしょう?」


「また、そうやって君は自分に無頓着で……」


 少しだけ呆れた顔をしているが、心配性はお互い様といったところか。


「まあ、いい。ただ少しでも調子が悪かったら、すぐに診察を受けるように」


「はい」


「本当はすぐに受けさせたいところだが――。軍医にまで君の肌を見させるのもな……」


「え?」


 最後になにか変なことをぼそっと呟いた気がするが、空耳だろうか。


「なんでもない」


 さっとリーンハルトは顔を逸らすと、すぐに横を向いている。そして、近づいてきた男のほうを見つめた。


「あ、あの国王陛下。王妃様。こちらの鏡の製造で使っている水銀が、この村の病気の原因とわかったと聞いたのですが」


 近寄ってきたのは、酒場までこの村を案内してくれていた村の纏め役の男だ。 


 急にイーリスが走り出したから、遅れたのだろう。工房から飛び出してきた者たちから話を聞いたのか、おどおどとした様子でこちらを伺っている。


 それにイーリスは涙を拭うと、力強く頷いた。


「ええ、そうよ。だから、もう使わないようにすれば、これ以上病気が発生することはないと思うわ。今鏡製造に携わっていた人達は、念のために全員軍医に診てもらって。もし水銀中毒になっていても、適切な治療を行えば、これ以上悪化することはないと思うし」


「おお! それはすごくありがたいです!」


 ですがと、喜んだ男の顔が、すぐに弱ったようにしぼんでいく。


「鏡の製造は、この村では唯一の産業です。山地で、農作物も大規模に作れないこの村では、ほかに金に換えられるような仕事もなくて、それがダメとなると……」


 これから、どうやって日用品などを賄う金を稼いでいけばいいのかと、心底困惑しているようだ。


「確かに――」


 この村は、裕福なようたが、それは全て鏡を生産してきたからなのだろう。手作りの鏡は、富裕層には高く売れ、最近では余裕のできた家庭なら高価でも一つは購入する家が増えてきている。


 いくら危険でも、金になる産業を急にやめろといって通じるはずもない。


「生活していくのには、お金が必要ですものね――」


 どうすればいいかと顎に手をあてて考えこむ。元の世界でも昔あって今はないということは、時代と共にこの職業病は消えたということだ。確か、その原因は――。


「そうよ!」


 ぽんと手を打った。


「イーリス?」

「銀製よ! 確か、前の世界でも銀を使った鏡が登場して、水銀を使った工法が廃れたのだったわ!」


 銀を使った鏡は、水銀で作った鏡よりも質が高い。そしてなによりも水銀中毒を出さないという利点が喜ばれたのだろう。元の世界でも、銀製の鏡が登場して、水銀製は時代と共に消えていった。


「銀ですか? ですが、銀はとても高価で――」


 纏め役の男が、目をぱちぱちとさせている。


「それについては、こちらでなんとかしよう。幸い銀を特産品とするシュレイバン地方の領主とは、この間からなにかと話す機会があったからな」


「あっ!」


(それは、リーンハルトが館で弓に射られた件とか。私の家出のこととか!?)


 絶対に有無を言わせず取り引きで頷かせる気迫を感じたが、国王のこの言葉に纏め役の男は顔を輝かせている。


「おお、ならば安心です!」


「あと、化学に詳しい者もこちらに派遣するわ。銀を硝酸銀溶液にして作る製法にしても、最初はやはり実用化まで詳しい者がいた方が安心でしょうし」


「ありがとうございます! ありがとうございます! なにから、なにまで」


 まるで、二つ折りになったかのように頭を下げている。


「いいのよ。私にしても、この村の病気を少しでも早く治してあげたいのだから」


「取り引きや技術者を送るためにも、領主との話がいるな」


「そうね、確かギルニッテイの近くのこの辺りはベルガー伯爵の管轄なはずだけれど」


 思い出しながらリーンハルトの言葉に頷くと、男が少しだけ焦った顔をしている。


「あ、いえ、それが。その、昨年ベルガー伯爵様のご子息が、投資で大損をされたそうでして」


「あら?」


「その損害分の補填にこの辺りの地を抵当として出されまして。現在は支払いを終えられるまでの間、ポルネット伯爵様が仮の領主になられております」


 ――ポルネット伯爵!


 あがってきた名前に、思わず息を呑んでしまう。


(まさか、ここでその名前が出てくるとは!)


 予想もしていなかった名前に、じっと村の纏め役を見つめる。しかし、男は村の病気がわかったことがよほど嬉しいのか。


「ありがとうございます! これも全て聖姫様のお蔭です! 先に来てくださった聖女様共々、なんとお礼を申し上げればいいのか――」


 これでこの村は救われますと深々と頭を下げているが、改めて明らかになったポルネット大臣と新しい聖女との繋がりには、思わず手のひらを握りしめてしまう。


(本当に、新しい聖女を異世界から呼び寄せたの!?)


 まさかと信じられないのに、この村を襲っていたのが水銀中毒というのなら、それを治療した彼女は何者だというのか。


(水銀中毒の完全な治療法なんて、私でも知らないわ!)


 だとしたら、最新の知識や薬を持つ新たな聖女をこの地に呼び寄せたというのか――。陽菜の新たな身代わりとして。


「リーンハルト」


 はっと振り返ると、リーンハルトも深く頷いている。


「とにかく、一度急いで都に帰ろう。この村の件もある」


 表面上言葉は隠したが、リーンハルトもポルネット大臣が新たな聖女を呼び寄せた可能性に行き着いたのだろう。


「そうね」


 深く頷く。


 とにかく、一度都に戻り、真実を明らかにするしかない。


 ハーゲンの取り調べが進んで、ポルネット大臣を拘束できるだけの証言を得られていれば、真相はなにもかもはっきりとするはずだ。


 急いで馬車に乗ると、ギルニッテイの街へと戻り、村の患者達に医者の手配。そして、役所の者に、村へのこれからの配慮や手続きを指示して、帰ってきた陽菜たちに出立を急がせるように慌てて呼びにやらせた。


参考文献 松藤元先生著「ドイツに於ける鏡製造工の水銀中毒」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 作者の取材力に脱帽 [一言] 異世界物語や転生物語に、ファンタジー要素だけでなく科学的要素や政治的駆け引き、証拠に基づく犯罪者の捕縛など、じっくり読み進める楽しみを味わっています。
[一言] やはり水銀中毒…。小学生の時、体温計の針が水銀で出来てるとかで、割っちゃった子が、水銀触ったから中毒になると言われて、泣いていた事を思い出しました。今は、電子体温計を使ってますが、まだ、水銀…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ