第17話 噂のもとへ
険しいガウゼン山地へ入ると、今日の午前中に見学をしたガウゼンの砦が隣の通ってきた尾根に見える。
まばらに生えた木。むき出しの岩山は、少し離れた海からの潮風が影響しているのだろうか。
からからと回る車輪の音を聞きながらトリルデン村に向かっていたイーリスは、窓から外を覗き、更に入っていく丘陵地帯の先を見つめた。
道を奥に進むにつれて、樹木は少しずつだが生い茂ってきている。
まだ本数は少ないが、それでも何本も植えた新しい低木があるのをみれば、この付近にすむ村人が生活のために植樹をしていっているのだろう。ひょっとしたら、木々が少ないのは、海風のせいばかりではなく、暮らしの中で煮炊きに使っている伐採のせいもあるのかもしれない。
「こんなところに、人が住んでいるなんて……」
目指す村は険しい丘陵地帯にあるため、ギルニッテイの街からも、かなり離れている。窓から外を覗いたが、夜になって鬱蒼とすれば、道の陰でも山の動物たちが歩いていそうだ。
「遠いが、意外とここの村は知られているらしい」
「そうなの?」
隣に座ったリーンハルトの言葉が意外で、ふと振り返る。
「ああ、なんでも特定の産業のある村なんだそうだ。昔は貧しかったが、今ではその商品のお蔭で潤い、よく商人達も出入りしているらしい」
「あら。では裕福な村なのね?」
病気が流行っていると聞いたから、てっきり衛生状態がよくない村なのかと思っていた。
リエンラインでは、国からの発布で地方領主が農村などの整備にもかなり力を入れているが、それでもまだまだ飲み水に苦労している地域も多い。
伝染病の一種かと思ったが――。そうとも限らないようだ。
「本当に聖女なのかしら……」
ぎゅっと手を握りしめて、皺のよったドレスを見つめる。まさか、陽菜をもう利用できないと踏んだポルネット大臣がまた別の女性を聖女として呼び寄せていたかもしれないだなんて――。
ないとは言えない事態に、唇を噛んで、強くドレスの膝を握りしめる。血管が浮き出そうなほど握りしめている手を、横から伸びてきた手が、そっと強ばりを解くように包んでくれた。
「わからん。だが、俺たちがここに来ていることで、人並み優れた治療師の功績が間違って伝わった可能性もある」
ぎゅっと握ってる手から伝わってくる温もりは、大丈夫だと伝えてくれているかのようだ。
「リーンハルト……」
「それに、たとえ新しい聖女が現れたとしても、俺は君以外とは結婚しない」
「うん……」
見つめてくるアイスブルーの瞳が心強い。
たとえ、新しい聖女だったとしても――。心が、こんなにも動揺しているのは、新しい聖女が本物だった場合、彼女にもリエンラインの王妃となる資格があるからだ。
不安を見透かされたような気がして、とんとリーンハルトの胸に頭を預けた。
(大丈夫よ。ちゃんと、再婚してやり直せるわ)
なぜだろう。服越しに伝わってくるリーンハルトの心臓の音が、ひどくドキドキとして早いような気がする。
(リーンハルトも、焦っているのかしら)
そう思うのに、なぜか伝わってくる鼓動はひどく心地良い。
ふと、目を開いて、窓の外を見た。
「あら?」
今、遠くの木立の中に意外なものを見たような気がする。思わず馬車の窓辺へ身を寄せて、ガラス窓に張りつくようにして外を覗きこむ。
「どうした?」
くっついていたイーリスが急に離れたから驚いたのだろう。あれっというような戸惑った顔をしたリーンハルトが、後ろから尋ねてくる。
だが、今外に誰かがいたのだ。
「さっき、あちらの木の奥に、亜麻色の髪の女性が……」
動く風景の木立の中に視線をさ迷わせて探すが、確かにさっき一瞬見えた姿は、今はどこにも見つけられない。
「見間違いじゃないか? それとも、これからいく村の住人が、山を歩いていたとか」
「ええ……。そうだったのかしら」
女性がいたからといって、それだけで騒ぐようなことではない。ただ、ここが人里から離れた山の中で、しかも一人だったから少し奇妙に感じただけで。
(まあ、でも村がもう近いのなら、そういうこともあるのかも?)
少し首をひねり納得する。そのまま、馬車は舗装もされていない山道を駆け上がると、中腹の少し開けたところで車輪を止めた。
ぎぎっときしむような音をあげて、馬車が止まる。窓から見れば、村の入り口の少し開けた広場のような場所だ。
先にリーンハルトが出て伸ばしてくれた手を掴んで馬車から降りるが、一見するとほかの村と違うところはない。
強いていえば、ほかの村より生活には余裕があるようだ。突然の馬車に驚いて近寄ってきた村人は、今見た限りでは農作業で泥のついた服も身に纏ってはおらず、多少くたびれているとはいっても、穴の開いていない服を着た者ばかりだ。
くるりと首を回せば、広場の周囲には、黄色い石壁の家が並んでいる。冬の青い空が輝く下で、グレーの瓦をのせた家に出入りしている子供達は、一番小さな子でもきちんと冬用のブーツを履いているではないか。晴れた日ならば、冬でも裸足の子供たちがいるほかの村と比べると、随分と暮らし向きは良いようだ。
「思ったより、裕福そうな村なのね」
壁が欠けている家や、家財道具が乏しそうな家も見えない。むしろ、軒先には、秋にとれた人参や玉葱が吊されて、春を待つ人々の生活ぶりを伺うことができる。ましてや、その下に植えられた小さな雪割草がある様子を見れば、この村が生活に困っているということはないだろう。
「これはこれは。このような小さな村にどんなご用で?」
馬車を取り巻いていた何人かの中から、壮年の男性が急いで馬車に駆け寄ってきた。おそらく、この村の纏め役か村長なのだろう。
「こちらで、聖女が現れたという噂を聞いたのだが」
態度からおそらくこちらのことを護衛を雇うだけの金がある商人か役人だと思っている男に、リーンハルトが尋ねると、男はああと顔を綻ばせた。
「聖女様ですね! 先ほどまでおられたのですが、村人の治療を終えられると帰られまして」
もう少しで出会えたのに残念ですねという男の様子からすると、どうやら聖女の恵みを求めてやってきた一人と思われたようだ。本当のことを言った方がいいかしらと悩んだが、リーンハルトは少し考え込んでいる。
そして、顎に当てていた手から顔をあげた。
「そうか。それは会ってみたかったのだが、残念だ。どんな姿の女性だった?」
「お客さんも噂を聞きつけられたのですか? はは、最近そういう方が多いのですよ。姿はすごく美しくてね、流れるような亜麻色の髪に、まるで翡翠のような瞳をされた方ですよ。あまりに澄んだ容姿と不思議な薬にどなたかとお尋ねしたら、聖女と名乗られまして」
「よく来ているのか?」
「ええ。七日ほど前からですが。いらしたのは数回ほどですね」
お蔭で、病気の村人の具合がかなりよくなっているのですと、答える男の様子からは、嘘を言っている様子は見えない。
「私どもも驚いているのですよ。こちらに二人の聖女様が来られることは噂になっておりましたが、まさかもうお一人いらしただなんて」
都から遠いので、最新の話にも疎くてと男は恥ずかしそうに笑っている。しかし、だからこそ聖女と名乗る女性はここに来たとも考えられる。
(どういうこと? 本当に、本物なの?)
それとも、自分を神格化したい治療師かなにかなのだろうか。
「そうか。とりあえず、実際に治療を受けたという者の話を聞いてみたいのだが」
「ええ、いいですよ。って、おい今しがたベンが診てもらっていたよな?」
振り返って男が村人に確かめると、よく知っている仲なのか。相手も頷いて答えている。
「ああ、あそこで出かける準備をしているぜ」
その言葉に、広場の奥にある一軒の家の前まで来たが、扉の側で靴を履きかけている男の息は既に妙に酒臭い。
「おい、ベン。お客さんだ」
「なんだよ。俺は、折角体が楽になったから、こ、これから酒場に向かおうと思っていたのに」
声は文句を言っているが、顔は明るく笑っている。きっと顔なじみで、よくこんなやりとりをしているのだろう。
「珍しいじゃないか。最近は、体がだるいといって、酒場まで行くのも億劫がって、家族に頼んで買いに行ってもらっていたのに」
「へ、そ、それがさっき聖女様からもらった薬を飲んだら、元気が出てきたんだ。たまには自分で行って、さ、酒場で好きな酒を選ばないと、となあ。この年になると、こ、これだけが生きがいなんだ」
早く出かけたいが、どうやら靴がうまく履けないらしい。手足がぷるぷると震えているせいか。指で靴の踵の皮を持ち上げて履こうとしても、うまくいかないようだ。
(ひょっとして、アルコール依存症なのかしら?)
たどたどしい口調にそんなことを疑うが、男の指はどうも上手くは動かない。
「ああ、くそっ!」
いらいらするなあと叫んでいる男の靴に、思わず手を伸ばした。
「あんたは?」
「初めてお目にかかります。イーリスと申しますが、あなたが出会ったという聖女について教えていただけないでしょうか?」
「せ、聖女様について?」
きょとんと男は、青白い顔でこちらを見つめている。
「はい。噂を聞きまして」
「ああ。それでか」
どうやら、よく来る手合いの一人と思われたらしい。しかし、男は履けた靴を見て、にっと笑う。
「あ、あれは、素晴らしい聖女様だよ。聖女様が来られる前は、俺は体がだるくて毎日辛かったんだが、て、手足の痛みも少し楽になってさ。ふ、震えはまだ止まらんが、元気が出てきたんだ」
「お体の具合が悪かったのですか?」
「この村のもんは、ずっとさ。どうせ早死にする運命と諦めていたが、聖女様のお薬で、少しだけ長生きできるかもしれねえ」
本当にあれは素晴らしい聖女様だよと、腫れた下唇で話しにくそうにしながら、イーリスに履かせてもらった靴を満足そうに見つめている。
「ありがとよ。これで、また酒を飲みに行くことができらあ」
じゃあなと、男は片手をあげて、足を引きずりながら歩いて行く。
「あ、よかったら、もう少しお話を」
詳しく訊きたくて引き留めようとしたのに、ベンは片手をひらひらと振っている。
「聖女様の話なら、お、俺じゃなくてもこの村の者はみんなよく知ってるさー。なにしろ、ここはみーんな、早く死んじまう村だからな」
だから聖女様の奇跡にはみんな大喜びだと手を振ると、そのまま足を引きずるようにして酒場へと歩いて行く。
(わからない……)
その後ろ姿を見ながら呟いた。
「本当に、新しい聖女が現れたのかしら……」
みんな早死にをする村? こんなに明るくて、裕福そうなのに。
得体の知れない新たな聖女と共に、この村をなにか不吉なものが覆っているような気がして、イーリスは思わずぞっと身を竦ませた。