第13話 初デート
次の日、冬の寒い空気の中で、イーリスは体をうんと伸ばした。
王妃としては、少々無作法かもしれないが、幸いここは堅苦しい宮廷ではない。いつもは、ひらひらとふりふりで動きを制約されるドレスも今は脱いで、ぱっと見た姿は、さながら少し裕福な家庭のお嬢様だ。
極端に飾りを取り払った臙脂色のドレスを纏い、靴もいつもより低い踵にした姿は、このギルニッテイに旅行に来たただの一般人に見えるだろう。
「イーリス様! おはようございます!」
昨日は、神殿に入る前に別れた陽菜が、元気に広場で手を振っている。
「おはよう。昨日は一緒に神殿に行けなくてごめんなさいね」
「いいえ、私も聖姫の儀式のある神殿に行って、余計な誤解は買いたくないので。ちょうどよかったです。その間に、アンゼルと街を回っていましたし」
「アンゼルと? この街に詳しいの?」
隣に立つ小柄な神官を見つめれば、いえいえと彼は首を振っている。
「ただ、前から来たいなあと思って、調べてはいたのです。ほら! ここは、聖女信仰の発祥地ですから」
「ああ……」
なにか訊かなければよかったという気分になってくる。
「すごいのですよ、アンゼルは。お蔭でこの街の名物を色々と楽しめましたし」
ほらと、陽菜が手に持っていたノートを広げてみせる。
「ここではカメラがないので、いつか帰った時のいいね用にノートにスケッチで描いてみました!」
ぱっと開けられたノートの両面には、おそらくこの街の名物なのだろう。かわいい兎顔を描かれた饅頭や、なぜかチキンの丸焼きに兎耳がつけられている。
「なぜ、そこまで兎推し?」
「この街で最初にリエンラインの国王陛下に求婚された聖女様が、ことのほか兎をかわいがっていたそうなのです。ですので、そのエピソードにちなんで」
「食べるの!? 聖女様のペットを!?」
(ちょっと待って!)
その場合、普通は兎を神聖視するという発想になるのではないだろうか。とは思うが、アンゼルはにっこりと笑っている。
「まあ、人は金儲けが大切なので」
「あっさりと色々なものを肯定したわね……」
神官の人を導く包容力ってと思うが、ただ陽菜が大切そうに抱えているノートを見ると、ふと思ってしまう。
(いつかのいいねのためにって……)
やはり口には出さなくても、日本に帰りたいのではないだろうか。言えば、きっとイーリス達を悲しませてしまうと思っているのだろう。
一度も帰りたいとは口には出さないが、その手が大事そうに抱えているノートを見ると、無理矢理向こうの世界から呼ばれたのだという事実に、胸が引き裂かれそうになってくる。
(できたら、日本に帰してあげたいけれど……)
死んでこちらの世界に転生した自分とは、境遇が違う。陽菜には、向こうの世界に親も友達もいるのだ。
(いつか帰った時のために――って、帰りたいと願い続けている証拠じゃない)
いつか――諦められない故郷への感情。
それは、昔の日本の家族を思う時、そして遠くルフニルツと共に失われた家族を思い出す時の、イーリスの感情ときっと似ているのだろう。
(そのためには、なんとしてもハーゲンにポルネット大臣の関与を証言させたいところだけど)
もし、ポルネット大臣が本当に陽菜を呼び寄せたのならば、なにか異世界との行き来を知っている可能性がある。それを自白させるためにも、ハーゲンの証言を得て、より確定した罪状で詳しく取り調べることができれば。イーリスの件のみならず、陽菜を帰してあげることもできるはずだ。
ぐっと瞳に力をいれた瞬間、ふと昔よくリーンハルトにまとわりついていたポルネット伯爵令嬢の姿を思い出した。ふわりと柔らかに広がるミルクティーベージュの髪。
「陛下! 今度の遠乗りにはぜひ私も連れて行ってくださいませ!」
愛らしい笑みで、リーンハルトに駆け寄り、少しでも関心を引こうとしていた令嬢。
思い出せば、今でもあの頃のことは胸に苦いものを呑み込んだような気分になるが、彼女は今いったいどうしているのか。
(――父親の大臣と一緒に謹慎という名の幽閉をされていると聞いたけれど……)
「イーリス様?」
かけられた声に、落ちていきそうだった思考から引き戻された。
「どうしたんです? 私の絵、そんなに変でした?」
きょとんと陽菜が見つめている。急に黙り込んでしまったイーリスの様子が不思議だったのだろう。黒い瞳をぱちぱちと瞬くと、微かに首を傾げている。
「あ、いえ」
折角の旅行なのに、心配をかけてはいけない。ましてや、まだ確定もしていない帰れるかどうかということで、今心を泡だたせることもないだろう。
だから、にこっと笑った。
「ううん、ただ思ったよりすごく上手だから驚いたのよ。陽菜は美術が得意だったの?」
褒めれば、にぱっと笑う。
「まさか! ずっとカメラ頼りだったんですが、こちらに来てからアンゼルが絵の描き方を教えてくれたんです!」
「あら、アンゼルが上手いのね。意外だわ」
「そりゃあ、俺はずっと神殿で聖女様の像を模写していましたからね! 任せてください、聖女様の姿ならどんな分厚い服を着ていたって、リアルに体の線を再現して見せますよ!」
(もっと聞かなければいい事実がでてきた――!)
どうして、そんなに聖女の体の線にこだわりがあるのか。追求したいが、絶対にしないほうがいい予感に、こめかみが痛くなってくる。
思わず引きつりながら額を押さえた時、しかし陽菜がこそっと耳を寄せてきた。
「ところで……今日の陛下なんか変じゃありません?」
「え?」
言われた事実にどきっとする。
振り返れば、隣では同じように民達に混じった服に着替えたリーンハルトが、少し眠そうにしているではないか。一瞬視線が絡んで、その瞬間顔が爆発しそうになった。
(だって、まさか朝起きたらあんなことになっているなんて――!)
布団に入った時は、確かに離れて寝ていたはずだ。微かに体温が伝わってくるほどには近かったが、それがまさか朝起きたら、その腕の中に抱かれて眠っているだなんて――。
(リーンハルトは、寝ぼけたんだといっていたけれど本当?)
それにしては、しれっとしていなかったか。
(あああ、あの瞬間を思い出しただけで、どんな顔をしたらいいのかわからなくなるのに!)
ここに来るまでの間、二人きりになるのが照れくさくて、ギイトとコリンナも誘おうとしたら、きっぱりとコリンナに断られてしまった。なぜか後ろに立っていたリーンハルトの目を見つめながら、ギイトの裾を掴んで。
思わず両手で頭を抱えてもんどりを打ちたくなるが、その様子に陽菜は首を傾げている。
「確か、昨夜は神殿に二人で一緒にお泊まりになったんですよね? なにかありました?」
かっと顔が熱くなった。
あったといえば、あった。未遂だが、同意寸前だったし。あの姿勢で寝ていたのは、恋人でなければないものだろう。
でも。
「な、なにが? 別になにもないわよ?」
「あったんですね。うーん、二人きりですし、再婚の約束もしているんですから、おかしくはないのですが……」
少しだけ、リーンハルトを眺めている。
「それにしては、陛下の様子がなんとも……」
それなら、もっとご機嫌が良いはずなのに、なんか微妙な距離感なんですよねと呟いている。
(どうして、そんなところに気がつくの!?)
いくらリーンハルトとわかりあえるところがあるとはいえ、そんなところは絶対に察知しなくていいのに。声にならず引きつりそうになった時、後ろから別の声がした。
「陽菜」
突然頭上からかけられた声に振り返れば、いつの間に側にいたのか。リーンハルトがイーリスのすぐ後ろに立ち、二人をじっと見下ろしている。
「一緒に護衛に囲まれて、行動をするのも大変だろう。護衛達には、走って三秒で駆けつけられる距離を維持するように言っておいたが、大人数で追跡されるのも肩が凝るだろう? 三人ほどそちらにつけるから、アンゼルと好きなところを楽しむといい」
「はい、陛下」
さらっと陽菜がスカートを持ち上げて礼をしている。
(今! さりげなく追い払った!)
本当は奏上された護衛についても朝渋い顔をしていたのだ。それでもという騎士団長の説得で、ようやく認めた人数の半分を陽菜とアンゼルにつけ、更に二人きりになれるように追っ払うとは!
「では、陛下。どうか旅先でのデートをお楽しみください」
私は協力しますからーと明るく手を振りながら、アンゼルと一緒に駆け出していく。
「あああ」
待ってと言おうにも、陽菜の足は速い。
(えっと、今から二人きり……)
どうしようと隣を見上げれば、リーンハルトはこほんと照れたように咳払いをしている。
「あ、あの……」
「取りあえず、君が好きな歴史の名所は調べておいた。近くのから回るのがいいと思うんだが、どうだ?」
(わざわざ調べておいてくれたの?)
旅の直前は特に忙しかったのに。
照れた顔をしているのを見ると、きっとリーンハルトもこの旅行を楽しみにしていたのだろう。
「うん。そうね、折角のデートだし!」
「ああ」
そうだ。二人きりで、初めて恋人同士としてのデートなのだ。そっと伸ばしてくれる手が、嬉しい。そして、まるで騎士が姫にするように捧げ持たれた。
「俺とデートをしてもらえるか?」
「喜んで」
頼みながらも、どこか偉そうだ。そのリーンハルトらしさに笑いながら、持たれた手をそのまま絡めていく。少し寒いが、幸い晴れていてデート日和になりそうだった。