第12話 深夜の選択
ごくりと息を呑みながら、部屋の奥にいるリーンハルトの眼差しを受ける。
こちらに向けられたアイスブルーの瞳は、昔よく見慣れた鋭いものだ。
きっと――怒っている。それはあんな状態で逃げ出して、こんな時間まで連絡一つしなかったのだ。怒るなというほうが無理な話だろう。
「お、遅くなってごめんなさい。あの、ちょっと子供の治療に時間がかかってしまって……」
どう謝るのが正解だろう。指をもじもじとさせながら部屋の中に入ったが、扉はイーリスの後ろで無情にもパタンと閉まっていく。
二人きりの空気に、無意識に緊張が走る。
(ど、どうしよう!? 怒っているわよね? これを直すのにはやっぱりさっきの続行!?)
部屋の奥に広がるベッドの白いシーツに、凄まじい緊張感が溢れてくる。
息をすることさえ忘れて見つめた時、しかし、急にリーンハルトの顔がくしゃっと歪んだ。
大きく息を吸って、まるでほっとしたかのように顔が泣きそうなものへと変わっていく。
「リーンハルト……?」
顔を片手で押さえながら聞こえてくる声は、ひどくか細い物だ。
「帰ってこないかと思った」
「え?」
慌てて駆け寄ったが、覗きこんだリーンハルトの顔は、本当に今にも泣き出しそうなものだ。それが安堵の息をつきながら、近寄ったイーリスを見つめている。
「悪かった……俺が性急すぎたんだ」
「そんな!」
まさか、嫌がって逃げ出したから、帰ってこないかもと不安になっていたのだろうか。
「違うわ! 帰るのが遅くなったのは、本当に助けて欲しいといわれた子供の家が遠かったからで! それに手当を急いでしないと進行してしまうものだったから」
決して、リーンハルトのところに帰るのが嫌だったわけではない。
信じてほしくて、必死に言い募ったが、まだ俯いたリーンハルトは心配そうだ。
「いや、俺が急ぎすぎたんだ。君のこととなると、どうしてももう少し決定打がほしくて」
再婚まではまだ期間があるというのに、どうしても勇み足になってしまう――と呟く顔は、いつものプライドが高い姿からは想像もつかない。
「違うわ! 遅くなったのは、本当に子供のことがあったからで! それに、もしあの相談がなかったら、私は別にあのまま――」
あのまま? あのままなんだったというのか。
自分で言いかけながら、口にのせようとしていた言葉の意味に気がついて、顔が真っ赤になってしまう。
(え!? これって、そういう意味よね!?)
あのまま。もし相談がなければ、今頃自分とリーンハルトとの関係はどうなっていたのか。
後ろに冷えたまま横たわっているベッドを見つめて、更に顔が爆発しそうになった。
(嘘でしょう? 今はまだそこまで考えていなかったのに!)
「イーリス」
だが、きっと自分の気持ちはそうなのだ。再婚してもいい。リーンハルトに好きだと告白したあとから、結婚すればと考えていた。
それが少し早まってしまいそうだから、心の準備ができていなくて焦っただけで。
気がついた気持ちに、顔は更に赤くなっていく。
恥ずかしくてリーンハルトを見ることもできない。思わず蹲りほてった顔を隠してしまったが、余程イーリスのその反応が意外だったのだろう。驚いていたリーンハルトの顔がゆっくりと微笑むと、優しくイーリスへと手を伸ばしてくる。
そっと背中に触れる感触に、びくっと体が震えた。
「ありがとう」
「あ、あの。だから……」
時間は、朝までまだある。これからでも時間はあるけれどと、触れてくる体に手を竦ませれば、アイスブルーの瞳にそっと優しく見つめられた。
「では、明日は俺とデートをしてくれ。今夜の埋め合わせとして」
「え、デート?」
(そんなのでいいの?)
とは思うが、見つめてくる優しい瞳にほっとしたのも事実だ。
「焦りすぎたら、俺も不安になることがわかった。だから、一歩ずつ恋人らしくなろう」
先ずは、なにもなかった結婚式の夜のように。二人で枕を並べて過ごして。そして、次に恋人同士らしくデートをしよう。今度こそ本当の夫婦になるためにと、リーンハルトらしくもなく少しおどけたように言ってくる。
その笑みに、イーリスもふわりと笑みがこぼれた。
「ありがとう」
結婚式の夜からのやり直しのように――。
少しずつだけど、前よりは二人の間が近くなったような気がする。
「なにもしないから」
安心してと促されて、怖々一緒にベッドには入ったものの、隣に好きな人がいる状況では、緊張してなかなか眠れるはずもない。
明かりを落とされて、暗くなった部屋の中で、こっそりと隣に寝ている顔を伺えば、あれだけ自分を緊張させた顔は、静かに月明かりに照らされて目を閉じているではないか。
(ええっ! この状況でもう寝ているの!?)
一瞬腹がたったが、よく考えればこの旅行にくるために、リーンハルトは毎日ひどく圧縮された仕事をこなしていたのだ。
(きっと、すごく疲れているわよね……)
銀色の睫は閉じられていて、月の光にさらさらと輝いている。本当に、夢のように美しい容貌だ。
口を開けば、決してお伽話の王子様のようにはいかないと知っているのに、一枚の布団から伝わってくるほのかな温もりは、心地よくてなによりも安心できる。
「遅くなって、ごめんなさいね」
あと少し早く帰ることができれば、今頃自分たちはどうなっていたのか。
冬の気温の中で、布団から伝わってくる温もりが愛しくて。それに浸るようにイーリスは知らない間に瞼を閉じていた。
だから、意識が闇に落ちた後、横から伸ばされた手が、自分の肩をそっと優しく抱きしめたのには気がつかなかった。