第11話 寝てますように
神殿に戻った頃には、月もかなり西の空に移動していた。
松明を燃やすぱちぱちとした音が、石造りの暗い神殿の玄関から響いてくる。その前で、古びた馬車がぎっと音をたてると、すぐに階段にいたナディナが気の急くようにして駆け寄ってきた。
「お帰りなさいませ、聖姫様。ご帰還が遅いので心配しておりました」
「ああ、知らせも送らずにごめんなさい。つい、子供やあの夫婦のことが気になってしまって」
「いえ、それはごもっともです。それで、あの、ハンナの子供の容態は」
心配そうに見上げてくる姿に、安心させるように微笑む。
「大丈夫よ。確かに向こうの薬品によるもので、ひどい火傷だったけれど、命とかは大丈夫だから」
「そうですか」
明るく言い切れば、ナディナの皺を刻んだ顔はほっと緩んでいる。
「ええ。時間はかかるけれど、ちゃんと治りそうね。軍医が太鼓判を押してくれたし」
「それならばようございました。あの夫婦には、やっと授かった我が子でしたので」
心から安堵している様子を見ると、どうやら以前から彼ら夫妻と親交があったようだ。
「すごく心配していたのね。悪かったわ、早くに知らせなくて。彼らとは仲がいいの?」
こんなに遅くまで待っているほど案じていたのだ。きっと普段から親しいのだろうと思ったのに、なぜかナディナは少しだけ顔をしかめている。
「いえ、私はあの子供には少し負い目がありまして」
「負い目?」
「はい、私の失敗のせいではあるのですが……」
首を傾げたが、ナディナはそれ以上を話すつもりはないらしい。気にはなっても、人の失敗を深追いするのも嫌な話だ。
「ささ、それよりも遠くてお疲れになったでしょう」
「そうね。思ったよりも山の中で驚いたけれど。でも、どうしてあんな山の中で暮らしているの?」
部屋に案内をしようと、微笑みながら先導を始めたナディナに向かって、疑問に思っていたことを尋ねる。
「彼らが伝承で伝わっている魔法を使える一族よね? 家にある不思議な魔道具を見ても、とても経済的に困っているようではないし。お医者様に断られるような暮らし向きにも思えないのだけれど」
その質問にナディナは、振り返りながら少しだけ戸惑った顔をみせた。
「あ……彼らは、隠された民なのです」
「隠された民?」
聞き慣れない言葉だ。目をぱちぱちと瞬くと、ナディナは少しだけ思案をして、言葉を口に出す。
「はい。昔は神殿とも深い親交があったのですが、長い歴史の中で色々とありまして……。今はひっそりと暮らしているのです」
「歴史!」
飛び出した大好きな言葉に食いつきそうになれば、ナディナは一層困ったように笑っている。
「彼らは今では、ただ静かに暮らすのを望んでいるだけの一族です。ささ、それよりも」
今にも飛びかかりそうになっている自分の足を促すように、歩き始める。
「陛下がお帰りをお待ちになっていますよ? さっきから何度も、こちらに帰ってきたかとお尋ねになっておりましたし」
(忘れていた!)
帰ってきて、歴史という言葉を聞いたから――。
というか、実を言えば忘れていたかった。
これから戻るのはリーンハルトとの寝室。あんなことがあって飛び出してきてしまった以上、どんな顔をして戻ればいいのかがわからない。
(どうか、寝てますように! 寝てますように!)
着いた扉を見上げれば、体の前で両手を組み合わせて、さっきナディナに教えてもらった夜中の二時という時間に祈りを捧げる。
(もし、リーンハルトが寝ていたら、起こさないようにそっと入って……明日の朝謝ろう!)
朝に謝れば、これ以上さっきのことを持ち出したりもしないだろう。誠意をこめて謝れば、きっと許してくれるはずと、ごくりと唾を飲み込みながら、開いていく扉をみつめる。
カチャッと開いた扉の向こうでは、しかしまだ灯りが点っていた。
そして、テーブルの前に置かれた椅子では、座ったリーンハルトが、開いていく扉をじろりと睨みつけているではないか。
(まずい――! 起きていた!)
どうしようと思いながら、パタンと後ろで閉まる扉の音に、イーリスの体には冷や汗が流れ出てきた。