第8話 異世界の毒
「ごめんなさい、待たせたわね」
頬がまだ赤くないかと不安だったが、慌ててイーリスが近寄った神女の表情を見る限り、気がつかれてはいないらしい。
「いえ、こちらこそお休みの時間に申し訳ありません」
それより、儀式の疲れをとっているところへ邪魔をしたのが、気になっているようだ。
不安そうにこちらを見つめてくる顔に、中でしていたことはどうやら勘づかれてはいないとほっと気持ちを切り替えて、聖姫らしい表情で尋ねた。
「大丈夫よ、それより助けてほしいってどんなことなの?」
「それが……どうやら、身内が異世界の毒にやられたと叫んでいるのです」
異世界の毒?
暗い廊下を灯すために持たれた手燭のゆらゆらとした明かりを見ながら、イーリスは咄嗟に告げられた言葉について考えた。
「それは、家族がなにか異世界の毒を食べてしまった、ということなの?」
「詳細はわかりません。ただ、助けてくれと泣きながら縋るばかりで……。聖姫様はお疲れだからと申し上げたのですが、どうしても会わせてくれといって話を聞き入れず」
戸惑っている神女の様子から、嘘ではないようだ。
「とにかく、イーリス様に会わせてくれ。そうでないと子供が死んでしまうと泣き叫んでいるのです」
(子供!)
聞いた言葉に、はっと表情を変えた。
「それならば、どういうことか訊いてみなければわからないわね!」
なぜ、異世界の毒なのか。どうしてそれを手に入れたのか。疑問に思うことは山ほどあるが、毒が異世界からのものなら、そして被害者が子供だというのならば、取りあえず今自分がすることは、会ってみることしかない。
ましてや、毒物というのなら――時間は少しでも早いほうがいい。
急いで走ることを促して、神女に、相談にきた女性が待つという質素な石造りの部屋へと案内してもらった。息も整えずに部屋に入るなり、一人の女性が、目を泣き腫らしてナディナに訴えている姿が目に飛び込んでくる。
「お願いします、どうか聖姫様に会わせてください! お礼が必要ならば、なんでもしますから! やっと一緒に暮らせるように戻ったあの子を失ってしまったら、私達夫婦は――。どうしたら」
「少しお待ちなさい。今、聖姫様にお伺いに行ってますから」
「お願いします! 何でも作りますから! どんな物だって、言ってくだされば! だから、どうか――」
「その聖姫よ。まだ、正式にはただのイーリスだけれど。私にご用事かしら?」
わざと、まだただのイーリスと言ったのは、彼女が望んでいるのがミュラー神から授けられる力だった時には、今はなんの力にもなれない可能性があるからだ。
しかし、声をかけた途端、泣いていた女性が取り縋っていたナディナの裾から振り返った。
「聖姫イーリス様……」
泣いて掠れかけた声で見つめると、そのまま体を投げ出すようにして訴えてくる。
「お願いします! 私の子供を助けてください!」
茶色の髪に、温かな紅茶色の瞳。着ている服も品がよくて、お金がないという様子ではない。それなのに、まるでほかに縋れるところがないかのようだ。
「子供が……、子供が、毒を口にしてしまったようなのです! どんな毒なのか、わからなくて……! でも、苦しんで! あの子を失ってしまったら、私達は――!」
(あの子を――)
言われた言葉に、少しだけ瞼を下げる。自分の前世の母も、イーリスが死んだ時にこんなふうに嘆いてくれたのだろうか。そして、人質同然に嫁入りさせるイーリスを案じていた今世の母の面影も思い出す。
ふと頭振って、脳裏にその姿を押し込むと、気をしっかりさせるように、女性の両肩をがしっと掴んだ。
「落ちつきなさい、街のお医者様には診せたの? それに、どうして異世界の毒をあなたの子供が?」
「そ、それは……。お医者様にはお願いしたのですが、嫌がって診てもらえず……」
診てもらえなかった? この身なりで?
清潔で毛玉すらない衣服は、それなりに金を持っている家庭だという証しだろうに。眉を顰めたが、女性は大粒の涙を浮かべて、言いにくそうに俯いている。
「子供が食べたものに、この世界ではない文字が書いてあったので、多分異世界の品だと思うのです。聖女陽菜様の降臨の際に、空から一緒に降ってきたと聞いている品ですし……」
陽菜の降臨という言葉に、思わず瞳を開いた。もっと訊きたかったが、言いにくそうにしているのは、人伝えで自信がないからなのだろうか。
(うーん、気にはなるところだけど)
今は、とにかく彼女が心配している子供のことが先だろう。
しかし、毒ならば現物を見てみないと始まらない。
「わかったわ。取りあえず、あなたの家に行って、その毒と子供の容態を診てみましょう」
「聖姫様……」
正直、本当に異世界の毒だったとして、医療の勉強をしたわけでもない自分に、その子供を治せるとは思わない。だが、少なくともなにか治療の手がかりを探ることはできる。それに、随行させている軍医に診せればなにかわかるかもしれない。
「今すぐ、軍医とギイトを呼んできて。毒を飲んだ子供の治療に向かうからと伝えて」
「軍医……」
後ろの神女に言った言葉なのに、なぜか女性の体がびくっと強ばった。軍ということで、怖いイメージがあるのだろうか。
「大丈夫よ、軍医といっても、ほとんど普通のお医者様だから。応急処置とかなら、軍医の方が手慣れていることも多いし」
言いながら、薬物は得意だろうかと悩むが、毒を使っての攻撃などもあるから詳しいはずだ。
「そうですか」
ほっと女性の体が緩んだ。
なぜだろう。軍医と聞いた時の彼女の反応。医者に断られて、ここに来るほど子供を助けたいはずなのに。
(なにか、変な気がするけれど……)
とにかく、行ってみなければわからないとイーリスは急いで立ち上がった。