第7話 二人きりの時間
入った部屋にあったのは、一つのベッドに二つの枕。
神殿の宿泊所とはいえ、こちらに王や貴族達が来た時に泊まるための部屋なのだろう。石の壁には、豪華なつづれ織りがかけられ、神殿とは思えない華やかさだ。石造りの部屋で、体を冷やさないためにか。床には赤茶色の絨毯が敷かれていて、とても居心地のよい雰囲気を醸し出している。
(だけど、どうしてベッドが一つしかないの!?)
ひょっとして、寝相が悪くて手で落としてしまった時のために、枕が二つ用意してあるのだろうか。現実逃避にそんなことも考えてもみたが、二人が案内された先にキングサイズのベッドが置いてあるのでは、どうにも無理があるような気がする。
「あの、これって、もしかしてだけど……」
リーンハルトも同室ってこと? と、ごくっと息をのんで振り返れば。
「なにか足りないものなどがございましたか?」
少し年配の神女は、さも当たり前のように首を傾げている。
「いや、これでいい」
「リーンハルト!?」
(どうして!? 今まで公式の訪問や、ここまでの道中でも泊まる部屋は全て別々だったのに!)
なのに、どうしてそんなに満更でもない顔で、神女の微笑みを受けているのか。
「そうですか、ではなにかありましたらお呼びくださいませ」
にこっと笑って神女は落ちついた所作で出て行くが、それを見つめているリーンハルトの笑顔には、やられたという思いしか湧いてはこない。
(そうよ……。公式の視察や道中は、王室が手配をするから……)
国王夫妻の仲が悪いことなど、職務上熟知していた宮中省は、旅先で敢えて火種を作るような真似はしてこなかった。いや、ひょっとしたら、何度かは仲直りをさせようとしていた節もある。だが、さすがに年齢的にどちらもが幼かったせいで、これまでは同室にしようという計画はなかったのだ。
加えて、神殿からイーリスにつけられていた側近のギイトは、このことについて最近まで知らなかったときている。
それは、つまり神殿側は、王室と別のパイプをもつようなごく一部を除いては、イーリスとリーンハルトが、いまだに清い関係だということを知らないということになる。
(あああー! そうよね、いくら神殿だからといって、ミュラー教の教えに夫婦は清麗な関係であれなんて言葉はないし!)
あったら、大問題だ。国内の人口を左右される問題に、王室といえども口出しをしないわけにはいかなくなる。
(でも、わざと神殿に部屋の希望を伝えなければ――)
世間的には不仲といわれていても、六年も一緒に暮らしていた国王夫妻を、あえて別室にするという考えにはいたらないだろう。いや、むしろ王都から遠く離れていて、中央の事情を知らないだけに、一時は離婚することになっても、仲直りの末再婚まですると宣言した国王夫妻を別の部屋に分けるという発想自体が思い浮かばないのに違いない!
(抜かった――!)
わざと、連絡をしない。それだけで、簡単にこのシチュエーションは完成してしまうのだ。
「イーリス……」
後ろから、近づいてくる足音に、びくっとしてしまう。
どうしてだろう。いつもと同じ呼びかけなのに、普段とは違う土地で、二人きりという状態のせいだろうか。
それとも、ほかには暖炉ではぜる薪の音しか聞こえないからか。呼ばれた名前に、つい背筋が硬くなってしまう。
後ろから、そっとリーンハルトの手がイーリスの肩に伸ばされてきた。大きくて、温かい手だ。だけど、今はそれがぽんと置かれただけでも、体がひどく緊張して強ばってきてしまう。
「あ、あの。リーンハルトも疲れたでしょう? お茶でも淹れましょうか」
「今は、いい。それより、イーリス」
ぐいっと振り向かされて、正面に見えたアイスブルーの瞳に息を呑んだ。
「やっと、二人きりになれた――」
「リーンハルト……」
近づいてくる顔から、目を逸らすことができない。
こんなに端正な顔だっただろうか。幼い頃から、毎日眺めてきたはずなのに。今頬を少し赤らめながら、自分を見つめているリーンハルトの姿は、見たことがないような男の雰囲気を醸し出している。
「ま、待って待って!」
思わず近づいてきた体をぐいっと両手で止めてしまった。
「私たち、まだ再婚をしていないし」
「そうだな。だから、再婚するために恋人からやり直すことにしたんだろう?」
「リーンハルト……」
見つめてくる瞳はひどく甘い。拒んだはずなのに、どうしてだろう。手の先には、力が入ってこないではないか。
「イーリス。俺は、君が好きだ」
耳に響いてくる声が心地よくて、ずっと聞いていたくなってしまう。
「だから、もっと側にいたい。そして、欲しい。ほかの誰でもない、俺だけを見ていてくれる時間が」
いつもは冷たいアイスブルーの瞳が、柔らかく微笑んでいるのに、どきんと心臓が跳ねていく。
(こんな声だったかしら)
こんなに包みこむように見つめてくる眼差しだっただろうか。愛おしくてたまらないように、イーリスを眺めているのに、その瞳の奥には微かにだが、ちらちらと熱情のような光が瞬いている。
「もっと、もっと――君が俺だけの存在でいてくれる時間がほしくなってしまう。イーリス、君は?」
(私――?)
そっと頬に触れてくる手から伝わってくる温かさのせいだろうか。答えは考える間もなくするりと唇からこぼれていく。
「私も――好きよ。だから、恋人からやり直すことにしたんだし」
「イーリス」
嬉しそうに、ぎゅっと抱きしめてくる体が熱い。重なるようによせられてくる胸は、こんなにも広かっただろうか。頬から耳へと触れてくる太い関節を持つ指。
毎日見ていた綺麗な容姿なのに、いつのまにか顎の線は、幼い頃とは違う男性にしか見えないものになっていて。
見つめていると心臓がばくばくとして、頬に触れてくる指だけで、頭がショートしてしまいそうだ。
「ま、待って! そ、その恋人なんだし、まだ……」
(あら? 恋人って、こういうこともするんじゃなかったかしら?)
前世でも今世でも、恋愛に縁がなかったせいで自信はないが、確か転生する前の同世代の友人は彼氏と旅行にいったと惚気てくれたことがあったような気がする。
「そうだな。だけど、恋人でもするものだろう?」
キスも抱擁も、その先も。と甘い声で囁かれては、もう完全に頭の中は、爆発だ。
「リーンハルト……」
(え? 確かに、恋人でもするものよね? そして、今私たちは恋人同士なのだし)
なにも問題はないはずだ。
(えっと、えっと。でもまだ再婚するかの婚約期間で)
ぐるぐると回る頭で焦るが、過去の友人の記憶は、恋人だからって絶対に結婚するわけじゃないしねーと笑っている。
『でも、今の恋愛と真正面から向かい合うのが大事と、私は思っているのよ』
そのために、相手をより深く知りたいと思うのは普通でしょうと頭の中で微笑むが、残念ながら経験値ゼロのイーリスには完全にオーバーヒートだ。
「イーリス、好きだ」
甘い声とともに唇が下りてくるだけで、絡めとられたように身動きができなくなってしまう。
「リーンハルト」
好き――そうだ。自分も好きだ。でも。
真っ赤になってしまった頭の中では、考えがうまく纏まらない。下りてくるリーンハルトの唇に、瞳を閉じたらいいのかどうかさえわからなくて――。
迷いながら、近づいてくるアイスブルーの瞳に覚悟を決めたように瞼を下ろそうとした。
その後ろでコンコンと、先ほど閉まったはずの扉が控えめな音を上げる。
「あの、お休みのところ申し訳ありません。聖姫様に、ぜひ助けていただきたいという面会の者が参っているのですが」
(助かった!)
「はい、すぐに」
慌てて閉じかけていた瞼を開けて、リーンハルトの胸をぐいっと押すと声をあげる。
「イーリス」
リーンハルトが驚いたように声をかけてくるが、何しろ自分たちは今回は聖姫として来ているのだ。
「困っている民がいるのなら、仕方がないでしょう? ね、取りあえず今は行ってくるから」
不満げな顔をしているが、そそくさと腕の中から抜け出す。
そして、ぱたんと扉を閉めて、助かったと息をついた。あのまま誰も来なかったら、きっと自分は流されていたのに違いない。
ふと、思いだしたリーンハルトの熱い手のひらに、頬がかあっと赤くなってしまう。
(あああーだって、いきなりだったんだもの!)
あまりに突然すぎて、恋愛初心者の自分には、完全にキャパを超えていた。
扉を出た途端、赤くなって石畳に俯いてしまったイーリスに、待っていた神女が、「聖姫様?」と声をかけてくるが、さすがに直前まであったことを知られるわけにはいかない。
「あ、はい! すぐに行くわ!」
悟られてはいけない、なにをしていたのか。慌ててまだ熱を持っている頬をぺちぺちと叩くと、イーリスは神女に向かって歩き始めた