第2話 手がかり
――ポルネット大臣が、陽菜を異世界から呼び寄せた。
予想さえしていなかったことに、喉がごくりと鳴ってしまう。目の前に座るリーンハルトも考えてもみなかったのだろう。
「なんだって!?」
自分の元指導役がもたらした情報に、アイスブルーの瞳を開き、視線を逸らすことさえ忘れてしまったかのようだ。
「ど、どういうことなの……?」
口がこの一瞬で渇いて、ひりつくようだ。それでも声を絞り出すと、グリゴアは静かに瞼を伏せた。
「はっきりとしたことはわかりません。ただ、ポルネット大臣に接触して部屋を行き来する内に、大臣が訪れてきた誰かとこっそりと話しているのを聞きました。そこで大臣は、陽菜様について『折角、苦労してこちらの世界に呼びよせた聖女なのに』とぽろりと漏らされていました」
「それは――……」
では、ポルネット大臣が陽菜を日本からこの世界に呼び寄せたということなのだろうか。
「でも、どうやって!?」
その辺の国々との行来ではない。次元さえおそらく違う、まったく別の世界なのだ。
思わず詰め寄ったが、グリゴアは僅かに唇を噛んでいる。
「もう少しこの件についてなにか掴めないかと、ハーゲンが捕まってからも、大臣の周辺を調べさせましたが、今のところ明確な情報は残念ながら手に入っておりません。おそらく、大臣の娘御であるポルネット伯爵令嬢では、陛下のお心を射止めることができなかったので、思い切った手段に打って出たのだと思うのですが……」
ポルネット伯爵令嬢。
ずっと記憶の淵に沈めていたミルクティーベージュの髪を揺らした甘い顔立ちを思い出す。
「陛下は、なにがお好きですか?」
「今度の夜会では、ぜひ私と踊ってください」
婚約者候補として、幼い頃からよく顔を合わせていたというだけあって、彼女の行動はイーリスの前でも大胆だった。
アクアマリンの瞳で、甘えるようにリーンハルトに近づき語りかけていた姿を思い出す。
(もっとも――)
「生憎だが、今は忙しくて話す時間がない」
「公式の夜会では、王としての立場が優先だ。約束はしかねる」
今から思えば、リーンハルトの態度も随分な塩対応だったが。
(名前は、たしかマーリン)
甘えるようにリーンハルトにまとわりつき歓心を買おうとする姿には、当時どんなにリーンハルトが相手にしていなかったとはいえ、内心穏やかではなかった。しかし、その様子にマーリンではダメだと、ポルネット大臣がリーンハルトに近づける女性のターゲットを変えたのだとすれば。
「これは推測ですが、おそらく聖女として王妃の座に立つイーリス様に対抗するには、同じ聖女を用意するしかないと思ったのでしょう。大臣が、どうやって陽菜様を向こうの世界から呼び寄せたのかは、わかりませんが」
まさか、イーリスに対抗するためだけに新たな聖女を呼び寄せるとは。
どうやってと思うのと同時に、脳裏では以前に陽菜とした会話が甦ってくる。
「私、昔これに出てくるのと似た話を読んだことがあるんですよね――」
(そうだ、もしあれが本当にリエンラインから帰った聖女の話だったとすれば)
逆に呼び寄せることも可能なのではないだろうか。二つの世界の境界を扉で行き来をするようにして。
辿り着いた結論に、噛みしめた唇が切れてきそうになる。
(そんなことのために、陽菜は――!)
家族も友達も、大好きだったいいねさえも捨てさせられたというのか!
人にいいねと言ってもらえるプチ幸せと楽しそうに生きがいを話していたというのに! 懐かしそうに高校の学生生活を語る姿。向こうで培ったいいねの作品を語る顔は、本当にあどけないほどの笑みで、彼女が日々の生活をどれだけ幸せに暮らしていたのかがわかったというのに。
「許せない……! 陽菜の人生をそんな私欲のために、使っただなんて!」
ぎゅっと手のひらを握りしめれば、いつのまにか向かいから側に来ていたリーンハルトが、イーリスの肩にそっと手を置いてくれる。そして、同じようにグリゴアの方を真剣な眼差しで見つめた。
「この件については、早急に調査をするように。ハーゲンの件で共謀の疑いということで謹慎になっている今ならば、相手も手を出せない。監査でもハーゲンの件でも、なんでもいいから理由をつけて、どうやって陽菜を呼び寄せたのか調べろ」
「リーンハルト……」
「俺にも陽菜の辛い気持ちはわかる。だから、どうやって向こうの世界から呼び寄せたのか、それを調べよう」
「ええ、そうね……」
そうだ、きっと突然違う境遇に放り込まれて、重い責任を押しつけられた陽菜の辛さは、過去の自分に似ていると感じていたリーンハルトが、一番よくわかるのだろう。
見上げれば、今までに見た中でも厳しい顔だ。
内心では怒りを感じているのか。ぎゅっと寄せた眉には、口には出さない憤りが滲んでいる。
(リーンハルトも、怒ってくれているんだわ……)
それに、少しだけ心が強くなるような気がした。
「……そうね。それに、もし呼んだ方法がわかれば、陽菜を元の世界に帰してあげられるかもしれないし」
そうすれば、彼女はまた以前のように元気に高校に通うこともできるはずだ。
ひょっとしたら、こちらで過ごした時間の分だけ、出席日数が危なくなって、補習や居残り授業をさせられるかもしれない。
状況次第では、友人達より一つ学年が遅くなったりするかもしれないが――それでも、懐かしい家族や風景の中に帰って行くことはできるだろう。
思い浮かべた向こうの世界に、少しだけ涙がこぼれた。
「イーリス……」
「大丈夫よ。少し懐かしい世界を思い出しただけだから」
向こうの風景。高校のざわめき。その中に帰って行くかもしれない陽菜の姿。
懐かしいのに寂しい気もするなんて、そんなのはただの自分の我が儘だ。
「ああ。なんとか見つけてやろう。そのためにも、急いでこの件の調査を進めて」
リーンハルトが、イーリスの涙を拭いながら告げた時だった。
「あの……」
後ろに控えていたギイトが、ひどく困惑したように声をあげているではないか。
「どうしたの、ギイト?」
いつも誠実な神官らしくない戸惑った様子を不思議に思いながら尋ねれば、リーンハルトも側で振り返り、ぎろりとギイトを睨みつけている。
「なんだ、なにか問題があるのなら、早く言え」
「あ、あの。こんな時にどうかとは思ったのですが……。実は大神殿からイーリス様に、近々ギルニッテイの神殿においでいただきたいという要請が入っておりまして」
お話が終わられてから、お二人にお知らせしようと思っていたのですと、申し訳なさそうに砂色の頭を下げている。
「ギルニッテイ?」
側のリーンハルトが、眉を寄せてギイトから聞いた都市の名前を繰り返した。不審そうだが、その名前は聞いたことがある。
「確か、副都よね。建国当時、リエンラインの首都があったという――」
「はい。そして、初代の聖姫様が御降臨された地でもあります。聖戴祭をおこなわれる前に、聖姫となられる方は、準備としてこの地を訪れていただくそうなのです。ポルネット大臣の件でお忙しくなるのはわかっておりますが、たいして時間のかかる儀式ではないので、イーリス様になんとかご訪問をいただけないかと思いまして」
ほんの数日で、イーリス様の聖姫としての格を確かなものにできますしと、申し訳なさそうに深々と頭を下げている。
「それは――」
だが、ギルニッテイは王都から最速の馬車でも三日はかかる距離だ。
「でもその間中、陽菜を一人にしておくことはできないし。それに、こんな時に――」
できるならば、一日でも早く陽菜を家族の下に帰してやりたい。
「いや、行こう」
しかし、泣いていたイーリスを慰めるように、手を両肩に置いていたリーンハルトは、はっきりと頷いて自分を見つめた。
「リーンハルト?」
その瞳に、きょとんと目を丸くして見上げてしまう。
「むしろ、こんな時だからこそ行くべきだ。ポルネット大臣が陽菜を呼び寄せたのなら、いつまた同じことを企むかわからない。その前に、君の聖姫としての立場を固めておくべきだろう」
真剣なアイスブルーの瞳に見つめられていると、今まで迷っていたのにそうかもしれないという想いが湧いてくる。
「そうか……。私が聖姫として、聖女の最高峰の地位を固めてしまえば、たとえこの先ポルネット大臣が、聖女でなにかをしようとしても――」
「ああ、もう利用することはできない」
確かに、聖戴祭を終えてイーリスが聖姫として就任してしまえば、もう聖女を使ってなにかを仕掛けることは不可能だろう。
「それに、心配ならば陽菜も連れて行けばいい。一緒に行って、周りに変な誤解をされないように、向こうでは基本別行動となるが。それならば誰かが利用しようとしても簡単に近づくことはできないはずだ」
なるほど。言われてみれば、その通りだ。
「それに、俺もついて行くよ。いくら神殿とはいえ、君の失脚を企んだ者がいる以上、そんな遠くまで君をやるのは不安だ」
「え、でも……。リーンハルトは、毎日仕事が忙しいのに」
「なんとかする。それに今は、各部門への折衝がうまい有能な元老院がいてくれるし」
にこっと笑っているが、これは間違いなくグリゴアにスケジュールを調整させる気だ。
(帰ってきてからが、地獄を味わいそう……)
とは後ろで眼鏡を光らせている姿に思ったが、確かに励ましてくれるリーンハルトが側にいてくれれば心強い。
気持ちを決めて、ぐっと拳を握った。
「そうね! それなら、私も行くべきよね! それに聖姫についての神殿だったら、聖女を向こうの世界に帰す方法についてもなにか知っているかもしれないし!」
勢い込んで力強くリーンハルトを見上げれば、アイスブルーの瞳がふっと笑う。
「ああ。それぐらいの意気込みの方が、君らしい」
「ありがとうございます! イーリス様!」
長の滞在はできないと事前に神殿に伝えておきますのでと、ギイトも喜んでいる。
「そうね、お願いするわ!」
たが、なぜだろう。ちらりと振り返ると、後ろでリーンハルトが、ぐっと親指を立てているではないか。
「リーンハルト?」
不思議に思って尋ねたが、なぜか慌てたように指を隠されてしまった。