第1話 帰ってきた王妃宮
遅くなり申し訳ありませんでした。
また更新していきますので、どうかよろしくお願いいたします。
アステリアス祭も終わり、宮廷内にも落ちついた空気が漂いだした頃、イーリスは長年過ごした王妃宮の一室へと戻ってきていた。
腰かけている金で装飾がされた白い椅子は、六年前にこの王妃宮に入ってから長年慣れ親しんできた座り心地だ。
見上げれば白い壁には、王妃の紋章である百合が金の浮き彫りで描かれ、天井から輝くシャンデリアの光に、時折きらきらと輝いている。視線を下げれば、暖炉の上で微笑んでいるのは、金の燭台だろうか。蝋燭を灯す台座の部分に、お伽噺に出てくる精霊の女性が金で象られ、イーリスが初めてこの部屋に入った時から、見つめるたびに優しく微笑みかけてきてくれる。
なにもかもがよく知った王妃宮の懐かしい自室だ。それを眺めながら、イーリスは少しだけ困ったように溜め息をついた。
(まったく、グリゴアったら)
王妃宮に入るなと言ったり、今度はさっさと戻れと言ったり。口うるさいこと、この上ない。
(帰ってくるな。離婚をするなら王妃ではなくなるのだからさっさと出て行けと言ったのは、どの口よ!?)
自分で追い出したくせにもう忘れたのかと文句を叫んでやりたくなったが、片眼鏡をかけた相手の表情はしれっとしたものだ。
「状況が変わりました。イーリス様の不名誉な噂も一掃でき、再婚することも公表した今、陛下の婚約者として入宮されるのならば、なにも問題はないかと」
第一まだ正式に離婚届を提出されたわけでもありませんしと、明るく笑っているが、それならば最初に帰ってきたときに、どうして妨害したのかと突っ込んでやりたい。
「だいたい、あいつが邪魔をしたから、離宮に行くことになったっていうのに……」
そのせいで、ハーゲンに殺されかけたのだから、いくら反対派を炙り出すためだったとしても、せめてもう少し誠意をこめて謝れと言ってやりたくなる。
本当ならば、言ってやりたいのだが――。
「ああ……! 離宮に帰りたいなあ……」
思わず別の本音がこぼれた。
殺されたかったわけではないが、生活だけでいえばあそこは非常に気楽だった。
「ですが、グリゴア様が反対派が明確になった以上、イーリス様のお立場を固めるためにも、王妃宮に入られた方がよいと仰っていられませんでしたっけ?」
ギイトがきょとんと横から微笑みながら尋ねてくるのに、うっと詰まってしまう。
「それはわかっているわよ。だから、受け入れたんだし……」
(でも、この現状は……)
ちらりと部屋の隅に控えているメイドや女官たちを見つめる。
(やっぱり、ちょっと堅苦しいのよね……)
とは思うが、現王妃であり、次の王妃候補でもある身が、とても口にのせられる言葉ではない。
「まあ、仕方がないわ。その内感覚が戻るだろうし」
元々、王族の生まれで、終始周囲に人がいる環境で育ってきたのだ。前世のような解放感を一時味わったからとはいっても、この生活に耐えられないわけでもない。
リーンハルトの次の王妃な以上やむをえないと頷いて自分を納得させると、ふと気がついて時計を見つめた。
(そういえば、今日リーンハルトの部屋に来るように言われていたのだったわ……)
時間的にはそろそろだ。目で金の柱時計が刻んでいる針を追い、隣のギイトに頷くことで合図をすると立ち上がった。イーリスが椅子から身を起こすのに従い、さらりと紫色のドレスが床へと美しく流れていく。
王妃にふさわしい華やかに輝く絹だ。飾りが少ないのはいつものことだが、その分だけ軽やかで動きやすい。
「そろそろ行くわよ、ギイト」
「はい」
(なんの話だろう。改まって)
わざわざリーンハルトの部屋に呼ぶなんて、よほどの内容のはず。
だから、今までの気持ちを切り替えて歩き出そうとした時だった。
その瞬間、イーリスの後ろに控えていたメイドが廊下に出ようとしていた女官に、慌てて手を伸ばす。
「王妃様、立ち上がられました! 今から、どこかにお出かけになるご様子です!」
「行き先の連絡は?」
「特にありません。陛下の瑞命宮に注進を走らせたほうがよろしいでしょうか!?」
「その瑞命宮に行くのよ!」
たまらずに振り返って叫ぶと、後ろで新人のメイドと新しく配属された女官が、にっこりとイーリスを見つめてくる。
「あ、そうだったのですね」
「申し訳ありません、王妃様が無断で外出される時は、念のため瑞命宮に届けるようにと王妃宮の管理官から言いつかっておりますので」
管理官――!
ハーゲンの時といい、今度といい、宮中省の建物管理官はなにを考えているのか。叫びたくなるが、今それよりも問題なのはリーンハルトだ!
(あいつ……! 私の家出で勝手なことをしてくれて!)
お蔭で新しく配属されてきたメイドたちが全員監視に回り、自分の王妃宮生活は完全に針の莚ではないか!
前からいたメイドや女官の半数が新しい人員に変わってしまったのだから、ことの経緯を聞いた新人たちが過敏になるのは仕方がない。とはいえ。
(わかりはするけど……!)
引きつりながら部屋から出て、巨大な絵の掛けられた廊下を曲がった。すると、そこに立つ一人の女官の姿に足を止める。
「王妃陛下、お出かけでございますか」
丁寧に頭を下げてはいるが、本来ならば一女官が歩く王妃に声をかけるなど許されない。
「ええ、瑞命宮に」
だが、家出するまでは王妃の部屋つきだった女官だ。前と同じように、気さくに答えると、途端に相手の両手がぶるぶると震えだした。
「瑞命宮――! もしや、陛下が王妃様にまたなにか無体なことを……!」
(無体って、いったいどんなふうにリーンハルトは思われているのかしら)
一度訊いてみたいが、リーンハルトの以前のイーリスへの仕打ちを見ていれば、そういう評価もあながち間違いではないような気もしてくる。
「いえ、違うのよ? 今日はこれから相談事があってね?」
「相談……!」
誤解を解こうと言っただけだったのに、イーリスの言葉を聞いた瞬間、女官の瞳がくわっと開いた。
「王妃様! もし、今度陛下がひどい仕打ちをされたらどうか私に仰ってください……! 私、今度は王妃様が家出するほど悩まれる前に、たとえ御前で割腹自殺をすることになっても必ずや陛下を止めて見せますから!」
ええ、王妃様の言われる武士の腹切りですわ! と叫ぶ姿は、どうやらイーリスが過去に話した武士道を取り違えているらしい。
「ありがとう。でも、どうか自分の命を大切にして?」
「そんな……! 賢くて優しい王妃様のためなら、私命だって捨てる覚悟でおりますのに……!」
切腹は勘弁とやんわりと宥めようとした手を、がしっと掴まれる。
「家出されるなんて、どれだけ王妃様がお辛かったのかと思うと……! これまで以上にお側でお支えしたいのに、王妃宮に戻るためには降格を受け入れるしかなくて……! 近くでお仕えできず、申し訳ありません!」
代わりに、これまで以上に心をこめてお世話をさせていただきますからとハンカチで涙を拭っているが、申し訳ないのはこちらの方だ。
「とんでもないわ、戻ってきてくれただけでも嬉しいのに」
だから、これからもよろしくねと微笑むと相手は感極まったようにイーリスを見つめた。
「王妃様……!」
「あなたのことは、そのうち元の職場に戻せるようにするから」
「はいっ!」
嬉しそうに頷いてイーリスを見送ってくれる姿に、背を向けてもまだ罪悪感が湧いてくる。
「やはり、王妃宮でのイーリス様の人気は根強いですね。お蔭で、牢に入れられた半数は降格や減俸をされても王妃宮に留まりたいと申し出たそうですよ」
優しくて無理を言わない。仕える者たちの気持ちを汲んでくれる公平な王妃様だと評判でしたしと、ギイトが言ってくれるのにも更にうっとなってしまう。
「その減俸だけど――」
(まったく……! リーンハルトは怒ると容赦がないんだから)
「前に仕えてくれていた者たちが減らされた給料の分を、私の聖恩料から特別謝礼金として、補填することは可能かしら? ボーナスという名前は、この世界にはないし」
せめて、経済的な損失だけでも穴埋めをしてあげたい。なにしろ、自分の家出で迷惑をかけたのに、まだ自分を主君として変わらぬ忠誠を誓ってくれているのだ。
もしできるのならと、幼い頃から側にいる側近を見上げると、ギイトの顔がぱっと輝いた。
「ええ、できますよ。聖姫様にお仕えしている皆さんです。その奉仕料ということになりますから」
にこにことした笑みをみていると、ほっとしてくる。
「そう、よかったわ」
降格については、いずれなんらかの形で元の役職に戻れるようにしてあげよう。
そう心に決めると、王妃宮の二階から繋がっている瑞命宮への渡り廊下を歩いた。
壮麗な天井画が描かれた華麗な通路だ。歴代の王たちの逸話や、聖女とのひとときを描いた絵が並ぶ下を歩くと、寄せ石細工で花々を描いた床のタイルはそのまま重厚な瑞命宮の中へと続いている。
イーリスの王妃宮が白と金を基調にしているとすれば、こちらの宮殿は茶大理石と黒だ。それらで作られた壁は金の装飾で縁取られ、青みがかかった柱と共に並ぶ廊下は、とても荘厳な雰囲気をかもしだしている。リエンラインの歴史の重さを感じさせる通路だが、意外と明るい印象を抱くのは、通路に沿って金色の窓が広くとられているからだろうか。それとも、通路の角ごとに緑の花瓶にいけられた金色や白の花々がこぼれように咲き誇っているからかもしれない。
(この宮は、どこか、リーンハルトに似ているわね)
気難しい雰囲気を纏っているのに、入ってみると内側には爽やかな空気が漂っている。思わず考えた内容に、笑みがこぼれた。
やはり、建物は住んでいる人物に似るのかもしれない。
(もっともここの建物の雰囲気には、まだ少し若すぎるような気もするけれど)
しかし、あと十年もすれば、まさにこの瑞命宮の主というのにふさわしい貫禄を備えるようになるだろう。
「おや、王妃様だ」
「王妃宮に戻られたそうだな」
歩いていると、端の方から大翼宮に向かっていたはずの貴族達の声が聞こえてくる。
「聞いたか、例の事件。陽菜様が嘘だったと話をされたとか」
「ああ。それを利用してお側付きのヴィリとやらが、王妃様の失脚を企んだというのだから、王妃様にとっては可哀想な事件だったよな」
「でも無事冤罪がはれて良かったよ。更に今度は聖姫様になられて。万々歳だ」
どうやら、グリゴアの演出のお蔭で、貴族達はかなり好意的にイーリスを迎えているようだ。
(まったく、グリゴアの案というところには腹が立つけれど……今回は感謝ね)
心配だった陽菜も、懺悔したことで同じように同情されて、今のところ皆に非難されたりはしていないらしい。
そのことにほっとしながら進むと、イーリスは歩き慣れた瑞命宮の奥にある金で縁取りをされた荘厳な扉の前に立った。
「イーリス様のおなりです」
一瞬、衛兵が言いにくそうにしたのは、慣れ親しんだ王妃の呼称ではないからだ。
おそらくリーンハルトから言い含められているのだろう。元王妃の名前を直接呼ぶということに、ひどく緊張したような顔をしていたが、中から返された「入れ」という声に助けられたように、急いで扉を開けた。
「どうぞ」
きいっと開く音とともに入ったリーンハルトの居間は、白金で装飾がされた薄い香色の大理石の壁が、窓から射す明るい光で覆われていた。
金と茶で統一された執務室に比べればこの部屋の重厚感は少ない。更にカーテンが全てが銀色で統一されているので、ほかの部屋に比べてひどく爽やかな印象だ。壁の横に置かれた花も、廊下と同じように金と白の花々で、それが誰を連想させる色なのか気がついてしまった今となっては、見るたびにどこか気恥ずかしくなる。まるで、いつも自分の髪の色を愛でられているかのようで――。リーンハルトの言葉にならない感情に触れた気がして、思わずこほんと咳払いをしながら赤くなりかけた頬を隠した。
「お話があると伺いまして」
「ああ」
誤魔化しながら笑って礼をしたが、言葉ほど態度はかしこまってはいない。
迎えたリーンハルトもそれを感じたのだろう。いつもは鋭いアイスブルーの瞳が、入ってきたイーリスの姿にほっと微笑んでいる。
「グリゴアから話があるそうなんだ。例のポルネット大臣のことで」
ポルネット大臣――。言われた言葉に、ぴりっと背筋が伸びた。
「あれからどうなったの!? まさかやっとハーゲンが自白をしたとか?」
聞いた言葉に急いで中央にあるテーブルへと近づいていく。新年になる前に捕まえたというのに、いまだに大臣との関係については供述を拒んだままだ。騎士団の尋問を受けて、今は牢に捕らわれているはずだが。
もしハーゲンが一言、イーリスの失脚を謀った事件に、ポルネット大臣が裏で関わっていたと証言しさえすれば、彼を政界から追い落とすことができる。
しかし、グリゴアは静かに首を振った。
「残念ながら」
その顔は明らかに言葉通りだ。
「そう」
「ハーゲン単体ならば、今でも裁判で有罪にすることができます。なにしろ、彼のやったことは、私と騎士たちという大量の証人がいますから」
「でも、それじゃあ――……」
後ろにいるポルネット大臣はどうなるのか。このままハーゲンだけ処罰されて終わりでは、あまりにも幕引きとしてはお粗末すぎる。
「もちろん、俺も今回のことにポルネット大臣が関わっているのなら、お咎め無しとするのは不本意だ。だからこそ、謹慎処分にしている間になんとか証拠を手に入れたいのだが……」
リーンハルトの指が、こつこつと腰かけたテーブルの板を叩く。
「もちろん、私としましてもこのまま陛下とイーリス様の害となる人物を放置しておくつもりはございません。ですからこそ、イーリス様には新年の諸行事が終わり次第、急いで王妃宮にお戻りいただいたのですし」
「どういうこと?」
なぜ、ここでイーリスが王妃宮に戻ることが絡んでくるのか。疑問に思い、紫の瞳を見つめたが、グリゴアはかちゃりと片眼鏡を持ち上げている。
「私がポルネット大臣に接触して手に入れた情報ですが」
そして、まっすぐにイーリスを見つめた。
「おそらく陽菜様を、異世界から呼び寄せたのはポルネット大臣です。ある時、ほかの者と部屋で密談しているのを聞きました」
「何ですって!?」
まさかの情報に、イーリスは金色の瞳を大きく見開いた。