第35話 お披露目
開けられた大広間の扉の向こうでは、たくさんの貴族達が列をなして待っていた。
華やかな黄色や赤い色のドレスが揺れ、正装した夫と並んでシャンデリアに照らされている様は、圧巻の華やかさだ。
宣言していた通り、リエンラインの全ての貴族を呼んであるのだろう。
初めてではないから今更緊張することはないが、貴族達が、現れたイーリスに向ける視線は初めてのものだ。
「王妃様? どうして、例の事件で追放されたという王妃様がここに……」
ちらりと大広間の横を眺めると、そこにはあの事件が起こった夜と同じように緋色の絨毯を敷かれた階段が、二階から広間へと伸びている。
誰もが、あの夜自分と陽菜に起こったことを思い出しているのだろう。
ざわざわというざわめきが、一際大きくなった。
「でも、この間大翼宮でお買い物をされていたと伺いましたよ?」
「だが、あの事件では陛下のお心は陽菜様にあるという様子だった――。それで、王妃様が離婚したがっておられると聞いたが」
あの夜にいた少し年老いた伯爵までもが、困惑した顔だ。
「では、今日陛下がみんなを集めて発表されることとは……」
「やはり、王妃様との離婚を決意されて?」
「長い間、不仲でしたものね。陛下もイーリス様も改めて新しい相手を探された方が、お互いに幸せになれるでしょうし」
ひそひそと扇の陰で、こちらを見つめながら囁いている。
(勝手なことばかり言ってくれて!)
家出をして、離婚をすると息巻いていたのは事実だから仕方がないが、それにしてもなんと好き勝手に囁かれていたことか。
「なるほど、これが貴方が私の披露目のパーティーを行いたいと言っていた真相なのね」
ちらりと後ろを振り返ると、グリゴアが慇懃に身を屈めている。
化粧料もなしでふさわしい仕度ができるのかと散々嫌味のネタにしてくれていたが。
苦い記憶を思い出しながら振り返って見たが、その視線の先でも、グリゴアが顔色を変えた気配はない。
だが、宮廷でずっとこれを耳にしていたというリーンハルトは、内心ではどんな気持ちだったのか。
(きっと、私が思っているよりもずっと不安だったのね)
別れた方がいいと囁かれ続けて。その胸中を思うと複雑で、心配になって見上げたが、その視線の先では、リーンハルトはまっすぐな瞳を向け、「行こう」と明るい顔でイーリスに微笑みかけてくれる。
今では、迷いを振り切ったかのように、力強い笑みだ。
きっと今でも葛藤はいくつも抱えているのだろうが、リーンハルトにとっては一番不安だったことが消えたのだろう。
意志をもってまっすぐに見つめてくれる瞳に、こくんと頷く。そして、手を重ねて一緒に歩き出した。
ざわめきながらも、頭を下げている貴族達の礼は、リーンハルトに向けたものだ。イーリスに対しては、あからさまになにを発表するつもりなのかと好奇心を隠そうともせずに見つめてくる。
その何百という瞳の中を歩き、上座に設けられた二つの席の前に着くと、側に立つリーンハルトを一度見つめた。
ゆっくりとアイスブルーの瞳が、優しく瞬いている。
その瞳に背中を押されるように、白と金でできたヴェールの裾をさらりと引くと、身を屈めた姿勢のまま向けられる貴族達の好奇の視線に振り返った。
きっと、これからイーリスの離婚が発表されるのを待ち構えているのだろう。
王妃の位が動くとなれば、次に誰につくのが得策か。めまぐるしく算段している者、不幸な王妃の境遇を茶会の噂の蜜にしようと考えている者達に、自分の身を晒す。
「皆の者」
リーンハルトの重たい声が、しーんと静まりかえった広間に響き渡った。
「今日は、皆に重大な発表がある」
ごくりと息をのむ音が伝わってくるかのようだ。それを視線で見回し、リーンハルトは一度言葉を切って口を開いた。
「この度、イーリスは皮傷病の治療を行うという功績を奇跡と認められ、神殿より聖姫の位を賜ることとなった。正式な聖戴式はまだだが、これよりは皆聖姫として扱うように」
「えっ! 聖姫!?」
「しかも、本物の奇跡で!?」
慌てた貴族達が驚いてイーリスを見上げ、ついで我先にと次々に床へ膝を折っていく。
(あら、まあ)
今までの好奇に満ちた視線はどうしたのか。ぶしつけな視線を投げかけていた夫人達や令嬢が、我先にと床に身を屈め、神殿の像に捧げるように両手を組み合わせて畏敬の念を表していくではないか。
まるで波がよせたかのように、ざっとドレスの裾が床に広がり一面に屈められていく姿には、息をのむ暇さえない。そのあまりの変わり身の早さに、イーリスの方が思わず呆気にとられてしまった。
「これは、一体……」
聖姫が聖女でも高い位なことは知っていた。だが、それにしても、この反応は――。
「言ったはずだ。王にも並ぶ位だと」
驚いて目をぱちぱちとさせていると、側に立つリーンハルトが面白かったのか。少しだけ苦笑に近い顔でイーリスを見つめている。
「え、ええ。それは聞いていたけれど。それは、あくまで権力の二重構造を防ぐためだって、グリゴアが――」
困惑しながら尋ねれば、二人の後ろに控えていたグリゴアが、ゆっくりと頭を下げている。
「はい、その通りです」
「だったら……!」
この反応は、なんだというのか。しかし、普段不遜なグリゴアまでが、少し貴族達の反応に面白そうな笑みを浮かべているではないか。
「ご存知の通り、聖姫は王妃の中の王妃としてリエンラインでは遇されてきました。それは、確かに聖姫という、神から王に並ぶ位と認められた聖女を王室の外に出し、権力の二重構造を引き起こさないために行われてきたことでしたが、言い換えれば、リエンラインの王に並ぶということは、各国の王とも対等。つまり、イーリス様は、神の国の信者を従える姫として、もうどの国の王族にも膝を折る必要のない存在となられたということなのです」
「なんですって!?」
まさか、この聖姫という位に、そこまでの意味があったとは――!
ミュラー神教において、聖女は神の使い。そしてその聖女の最高峰である聖姫は、大陸に広く信者を抱えるミュラー神教にとっては、王にも並ぶ存在ということになるのか。
たらりと、思ってもみなかった重圧に汗が出てきそうになるが、そんなイーリスの気配を察したのか。グリゴアが一歩前に出ると、貴族達の方を向いた。
「噂の通り――陛下とイーリス様は、先日の事件で意見がすれ違われ、一度離婚をされることに同意されました」
グリゴアの言葉に、大広間に再び静寂が広がる。
「ですが、話し合われた結果、改めてお互いに縁を結び直し、聖姫として再婚されることになりました。リエンラインの王と、新しく迎える聖姫である王妃に祝福を」
「祝福を――!」
ざっと、全員が深く頭を垂れている。
(あらら)
まさか、こうなるとは思わなかった。
一斉に下がった頭に驚いて見回すと、その中を一人の女性がしずしずと歩いてくる。
茶色に近い髪に、昔よく見た黒い瞳。清楚な白のドレスを神殿風の装いにして近づいてくるのは、陽菜だ。
「聖姫様」
今までに聞いたことのないような真面目な声で、伏せていた瞳をあげると、初めての呼び方でイーリスの前にそっと膝をついた。
(なになに!? こんな演出は聞いていないわよ!?)
驚いて、思わず手を伸ばそうとしたが、陽菜は手にミュラー神教の円形のロザリオを持ち、震えるように俯いている。
「どうかお許しを――。私が、あの夜思い違いをしたために、陛下と聖姫様の仲にすれ違いを作ってしまいました。本当は、私を助けようと聖姫様は手を伸ばしてくださったのに、人前で転んだことが恥ずかしくて。私は咄嗟にイーリス様のせいだと口にしてしまい……」
(ははーん)
震えながら懺悔をする姿を見つめ、ぴんときた。
ちらりと振り返れば、リーンハルトの後ろに控えた人物が、微笑むように頭を下げている。だが、その笑みのなんと狡猾なことか――。
(ここで、陽菜に懺悔をさせて、私への疑いを晴らそうという腹ね)
そして、跪く聖女を聖姫となったイーリスが許す。それで、誰の目にも二人の聖女の上下関係は明らかだろう。
今後のリーンハルトとの関係のためにも考えたのだろうが、本当に喰えないと呆れながら、青い顔をしている陽菜に手を差し伸べていく。
「いいのよ、許しは――心から乞う者には、必ず与えられます」
「イーリス様……!」
きっと、陽菜の懺悔は形だけではなかったのだろう。真っ青な顔で、震えながら涙をこぼしている様子を見ると、彼女は自分が壊してしまったリーンハルトとイーリスの仲を、本当に後悔していたのかもしれない。
「ありがとうございます……!」
とんだからくりだが、イーリスの役にたてたことで、陽菜の罪悪感が少しでも軽くなるのなら、それにこしたことはない。
「陛下、この度は二人の聖女様に続き、御代に聖姫様の御出現。まことにおめでとうございます」
前に進み出て、丁寧に頭を下げているのは、ギイトだ。
「大神殿よりも、祝福をお伝えし、イーリス様には改めて大神殿にて聖姫の聖戴式を行うことをお伝えするよう承っております。ミュラー神教を代表しまして、聖姫となられましたイーリス様に祝福を」
朗らかに響き渡るギイトの祝詞の文言に続き、貴族達が共に神に唱えるように手を組み合わせている。
「イーリス」
その様を見ながら、そっとリーンハルトがイーリスの肩に手を伸ばした。
「これで君は、俺と並ぶ立場になった」
「リーンハルト……」
「遅くなったが、今なら素直に言える。長い間、辛い思いをさせてすまなかった」
まさか、リーンハルトがみんながいる前で、こんなことを言ってくれるとは思わなかった。驚いて目を見張ったが、銀色の髪の中に浮かぶアイスブルーの瞳は、今はまっすぐにイーリスを見つめている。
そして、貴族達が視線だけで見つめてくる中、僅かに笑顔を浮かべた。
「だから、君と一からやり直すのを受け入れることに決めた。百日後に出す離婚状は先ほど渡したが」
そっと振り返ると、後ろに控えた侍従が捧げ持った一枚の紙を取り上げる。
「俺は、別れても何度でも君とだけ結婚したい。その証拠として、これを――」
巻いたまま手渡されたそれを広げてみれば、中には以前にも見たことがある紙に、リーンハルトの名前が綴られているではないか。
離婚状と同じく正式な文章に用いる紙だ。だが、書かれている内容は――。
紙に目を落とし、はっと瞳を開いた。
『私ことリーンハルト・エドゼル・リエンライン・ツェヒルデは、イーリス・エウラリア嬢を妻として迎え、これより先の幸福な時、また病める時の全ての時間を、互いに慈しみあいながら共に人生を過ごしていくことを望みます。
どうか、この切なる心を認め、なにとぞ私の求婚に承諾をいただけますよう。
リーンハルト・エドゼル・リエンライン・ツェヒルデ』
綴られている文章を見つめ、大きく瞳を開いたまま振り返る。
「リーンハルト! これ……!」
求婚書ではないか。
六年以上前に一度もらったが、あの時とは文面がかなり違っている。驚いて見上げたが、視線の先で、リーンハルトはイーリスを見つめながら微笑んでいる。
「前に俺との結婚を君に申し込んだ時は、父が中の文を全て書いた」
「え、ああ」
そういえば、イーリスが親から見せられたそれは、確かにリーンハルトの父の名前で、息子の妃に聖女を嫁がせてくれないかという内容だった。代わりに、いくつかの政略的な取り引きについても記され、王族間では、正式な結婚の申し込みをする際には必ずするやりとりだと聞かされていたが。
戸惑いと驚きを隠しもせずに見上げたが、リーンハルトはイーリスの視線を受けて優しく微笑んでいる。
「離婚状は書いたが、俺の妻はやはり君しかいない。だから、イーリス。お試しとはいえ、婚約者を名乗るのを許された身では順番がおかしいのかもしれないが……俺はこの百日の間に、最初からきちんとやり直したい。そしてどうか、今度は政略結婚ではなく、俺の恋人として妻になってくれないだろうか?」
「リーンハルト……!」
まさか、恋人としてやり直したいと言ってもらえるとは思わなかった。
「――嬉しいわ……! まさか、恋人として結婚したいといってもらえるだなんて」
ほんの一月前には考えられなかったことだ。きっと嫌われている、きっといつかはほかの人を選んで捨てられる時がくると、そればかりを考えていた。
だが、今目の前に立つリーンハルトは、少しだけ泣きそうになっているイーリスにそっと手を伸ばすと、眦に浮かんでいたものを指で優しく拭ってくれる。
「俺は、君に好きだといってもらえたお蔭で、少しだけ自分に自信がついた。だから、これからは、君に本当の気持ちを伝えて、絶対に俺をもっと好きにさせてみせる」
だから、恋人からやり直そうと、いつもとは違うアイスブルーの瞳が、力強くイーリスに笑いかけてくる。
「そして、いつか――、君がくれた百日の期間の間に、君が俺と再婚しても大丈夫と思えたのなら。その時は、その求婚書の返事をくれないだろうか。百日の、いや、残り八十一日の間に、俺は必ず君に再婚してもよいという確信を与えてみせるから」
その時こそ、改めて本当の夫婦になろうといってくれるリーンハルトの笑顔に、温かいものが頬にこぼれ落ちてくる。
恋人としてやり直して、夫婦になる。
まさか、結婚して六年もたってから、もう一度そんな言葉を言ってもらえるとは思わなかった。
なによりも、恋する人へとして求婚書を書いてくれたリーンハルトの今の気持ちが嬉しい。
だから、またこぼれてきそうになった涙を一度指で拭いながら、ゆっくりと溢れてくる笑みでリーンハルトを見つめた。
「そうね、今度は恋人としてやり直しましょう……!」
今度は、国のためでもない。聖女だからでもない。ただ一人のイーリスとリーンハルトに戻って、お互いに恋する相手としてやり直していくのだ。
あなただけが好きだと。これからは二人の気持ちと気持ちで繋がるように――。
絡み合っていた肩書きが、互いの心から溶けていくのを感じたのか。リーンハルトが、そっと優しくイーリスを抱きしめた。
「君が好きだ、イーリス。だから、どうか今度は恋人として俺と一緒にいてくれ」
そして、いつか、俺と結婚してもいいと自信をもてた時に、再婚してくれるように――と、乞うように手の甲に口づけをされていく。それに幸せな気持ちが笑みに溢れ出た。
「ええ……。私も、貴方がいいわ。今誰かに恋をして、恋人と呼ぶのなら」
そして、いつかもう一度夫と呼ぶのなら。
今度こそ、心で繋がっていこう。政略結婚でも、王と聖女だからでもなくただの二人として。
イーリスの返した言葉が嬉しかったのか。見つめると、体を起こしたリーンハルトの唇がふわりとイーリスへと下りてくる。
「ありがとう」
その瞬間のリーンハルトの嬉しそうな笑顔といったら。口づけを交わしながらも、微笑んでいる彼の顔に心臓の鼓動を止めることができない。きっと、この口づけは、今から何年経ってもイーリスの心の中で繰り返し思い出されることになるだろう。
優しい感触が唇に触れているのが、嬉しいけれど、みんなの前で少し恥ずかしい。
「ちょっと、リーンハルト」
みんなが見ているわよと止めるよりも早くに、再度注がれてくる口づけのなんと甘いことか――。
見ていた貴族達も、みんな突然で言葉も出ないようだ。
だが、奥にいた一人の令嬢が座ったまま、ぽつりと言葉をもらした。
「ええと……。つまり、今の言葉からすると、国王陛下はずっと王妃様がお好きだったということ……?」
その瞬間、大広間には「えええええっ!」という、どよめきがまるで波のように広がっていく。
その貴族達の驚きを見ながら、イーリスは渡された求婚書を握りしめ、今日からは恋人として始めていくリーンハルトを見つめた。そして、お互いに幸せそうに笑い交わした。
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