第34話 取り戻した離婚状
はっと振り返って見れば、今日のリーンハルトは白に金の刺繍の正装だ。白い上着にかけられているモールも全て金で、銀色の髪と合わさり眩しいほどの輝きだ。
リーンハルトが入ってきたことにより、周囲にいた陽菜やアンゼルが、頭を下げて部屋を退出していく。
代わりに、扉からつかつかと近づいてくるリーンハルトは、イーリスを見つけると、生来の端正な顔立ちに微笑むような表情を浮かべた。
そのまま嬉しそうにイーリスに近づいたが、振り向いたイーリスが、今までグリゴアと話していたかのように体が向かい合っているのに気づいて、僅かに眉を寄せる。
「なんだ、二人でなにを話していた?」
むっとした顔をしているが、グリゴアは平静そのものだ。
「陛下、誤解なさらぬよう。私はイーリス様にポルネット大臣の件について、お話ししていただけです。陛下の妬心に触れるような行いは一切いたしてはおりませんので」
(って、まさかグリゴアにまで今やきもちを焼いたの!?)
さらりと言われた内容に驚くが、こほんとリーンハルトは誤魔化すように咳払いをしている。
「あ、ああ。ポルネット大臣の件か」
本当に焼きもちを焼いていたのかと確かめたいところだが、今はそれよりもこちらの話題が先だ。
「リーンハルト、ポルネット大臣って」
「今回の件で、今は自宅謹慎をさせている。ハーゲンの証言が得られれば、一族もろとも捕まえる予定だが」
「そう」
聞いた言葉に、少しだけ瞳を伏せる。
「残念ながら、ハーゲンの家宅捜索ではポルネット大臣との繋がりを示す証拠は手に入れられませんでした。ですが、ハーゲンの証言をとれれば、すぐに朗報をお聞かせできると思いますので」
「ええ……」
相手も、伊達に長年政界を渡り歩いてはいないということなのだろう。グリゴアの言葉に思わず視線を落とせば、後ろからぽんと頭に手を置かれた。
「心配するな。絶対に君を守るから」
「うん――……」
振り返れば、銀色の髪の間で優しく薄氷色の瞳が微笑んでいる。
「そうね」
きっと大丈夫と、イーリスもうんと頷いて顔をあげた。
「大臣については、それだけ?」
「いえ、あとで別にお知らせしたい内容がございます」
「そう、わかったわ」
後でとわざわざいうことは、緊急ではないが複雑なのか、今はこちらを優先しろということなのだろう。
だから、イーリスは今の話題を取りあえずおいておくと、くるりとリーンハルトを振り返った。
動くと、白いサリーにも似たドレスの裾が優雅に引かれ、金色のベールと合わせてきらきらと光を受ける。
この金色のベールは、シュルワルツ地方特産のレースだ。極細の糸で編まれた贅沢なレースをふんだんに使って作られた品は、ドレスと合わせるように繊細な百合模様が描かれ、美しいきらめきでイーリスの全身を覆っている。
「綺麗だ……」
全身を白と金とで覆われたイーリスを見て、リーンハルトがぽつりと呟いた。
「そう?」
「ああ、まるで花嫁衣装を着ていた時の君みたいだ」
言われてみれば――白絹に金の花のデザインは、どこかウェディングドレスにも似て見える。
リーンハルトに褒めてもらえたのが嬉しくて、思わずふふっと笑みがこぼれ落ちた。
「ありがとう。じゃあギルド長にもお礼を言わなければね」
「ギルド? あちらから買った品なのか?」
「ええ、買い物をするのに王宮へ招いた時に」
最初はハーゲンの紹介ということで、招いたギルド長達にも疑いの目が向けられたが、尋問で今回の件にはなにも関わっていないことが判明したらしい。
床に頭をすりつけるようにして、ギルドに加わっている者達はただの商人なので、今回の事件には無関係だと知ってほしいと懇願された。
「まあ、確かに商品はいいし」
さらりと流れるベールを手に持ち、優雅に広げてみせる。
「国内の市場開放のためにギルドの特権を廃止したとはいえ、それでこれらの品が埋もれていくのは惜しいわよね」
なにしろ、彼ら商人の後ろには、顔も知らないあまたの生産者達がいる。都の民達のために、新興の商人にも市場を開放したが、それで彼らが困窮しては本末転倒だ。
「こんないい品を扱っているのだったら、もっと彼らの力を輸出に使えないかしら」
「ギルドの扱っている製品をか?」
「ええ、他国にということになれば、輸送や経費、そして商談力がいるわ。そういう分野こそ、個別の商人ではなく、組織力のあるギルドの方が強いでしょう?」
「そうだな。一度、ギルド長とも会ってそのことを相談してみよう」
「リーンハルト……」
(私の意見を取り入れてくれた……)
微笑みながら頷いてくれる瞳は、確かに前とはなにかが二人の間で変わったことを示している。
「うん――ありがとう」
きっとこれからは何かが変わっていく。
心の底から笑って答えると、見つめていたリーンハルトが赤くなって、一度こほんと咳払いをした。
「それと、式が始まる前に君にこれを……」
振り返ると、後ろの侍従に持たせていた銀の盆に載せていた一枚の紙を取り出す。
そして、リーンハルトが侍従から受け取ると、丸められていたリボンをイーリスの前でしゅるりと解いた。
「リーンハルト、これ……!」
そこには、あれほど探し回った二人の離婚状があるではないか。
『リエンライン王国の法に基づき、この両者の婚姻の解消を神に報告する。
リーンハルト・エドゼル・リエンライン・ツェヒルデ
イーリス・エウラリア・ツェヒルデ』
並んだ署名もあの日のままだ。
だが、その下に書かれた一つの文に、目を開いた。
『キネンライヒデ暦1211年4月2日』
そこには、なかったはずの日付が入っているではないか。
書かれている日付は、二人が離婚状にサインをしてからちょうど百日後。離婚状を神殿に出すと約束した日にちだ。
「リーンハルト、これは」
はっと上を向けば、アイスブルーの瞳が弱ったように笑っている。
「もう、こんなふうに利用されることのないように――日付を入れようと思ったんだが、どうしても百日後のしか入れることができなかった」
弱い俺を許してくれと笑っているが、あれだけ離婚状を嫌がっていたリーンハルトが、完成に必要な最後の一文を入れてくれたのだ。そして、力強く笑っている。
「君が俺のしたことを許してくれると決めたんだ。だから、俺も君のその気持ちに応えていきたい」
「リーンハルト……」
(これで、本当にあの六年間は二人の間で過去になった……)
これからは、新しい伴侶としてもう一度一緒に歩いて行くのだ。今までの全部を、この離婚状の中に過去として整理して。
渡された二人の名前の記された離婚状を、ぎゅっと一度抱きしめる。
(大丈夫、これでもうこれからは新しい人生なんだと踏み出すことができるわ)
イーリスの心のために、あれほど離婚状を嫌がっていたリーンハルトが、自分の不安や本音を抑えてまで、この書類を書いてくれたのだ。その気持ちがなによりも涙が出るほど嬉しい。
「ありがとう……!」
だから、素直にお礼が言えた。これできっと自分は前を向いて歩いていける。
「うん――」
イーリスの笑顔が嬉しかったのだろう。いつもは離婚状のことになると、嫌そうな顔しかしなかったリーンハルトが、イーリスの笑顔にはにかむように笑っているではないか。
「それで……実は、あとでもう一つ渡したいものがあるのだが」
「え? なにを?」
不思議に思って首を傾げたが、その後ろで、かちゃりと片眼鏡を持ち上げる音がした。
「ああ、陛下。その書類の直後に命じられた国境の関所通行監視強化の件ですが。どうやらうまくいきそうだということです」
「ば、馬鹿……! お前、ここでっ」
リーンハルトがひどく焦っているが、後ろに立つグリゴアはどこ吹く風だ。
「リーンハルト?」
どうして、離婚状を完成させた直後に、国境を越える者の監視を強化しているのか。
(まさか、私の気が変わらないかと不安で……?)
嫌な予感がして振り向いたら、すぐにリーンハルトが焦ったようにくわっと目を開いている。
「いいだろう、それぐらい! あくまで万が一の時のための、精神安定剤だ!」
「やっぱり……」
イーリスが告白して、少しは余裕ができたのかと思ったが、どうやらまだ予防策なしまでは自信がもてなかったらしい。
「もうっ……!」
言いながら、つい噴き出してしまった。
(リーンハルトらしい)
きっと彼なりに心のバランスをとるための方法なのだろう。
「安心して、もう勝手に飛び出したりはしないから」
「そんなのはわかるものか。今回だって、急にいなくなったし」
どうやら、あの事件でますます心配性になってしまったらしい。
ばれて、しゅんとした瞳に思わず笑ってしまったが、そこに側に立つグリゴアから声が降ってきた。
「お二人とも、お時間です」
言われた言葉に、二人して扉の方を振り返る。
「もう、そんな時間か」
そして、歩こうとしたイーリスに向かい、リーンハルトが手を差し出してくれた。
「行こう。皆が待っている」
「ええ」
だから、差し出された広い手にそっと右手をのせる。
これから始まるのだ。
「では、聖姫のお披露目式典を開始します」
グリゴアの合図で、並んで立った扉が、いっせいに大広間へと向かって開け放された。