第32話 届いた気持ち
はっと顔をあげれば、いつのまにかこちらに騎士団がやってくるではないか。
急いで走ってきたのだろう。先頭で、駆け寄ってくるリーンハルトの顔には、白い汗が浮かんで見える。
「グリゴアから外に出たと聞いて、急いで追ってきてみれば……!」
手には、イーリスが落としたはずの簪を持っている。
(あ、まずい! わざと庇うために囮になったのがばれた!?)
高い細工物だから、ハーゲンが拾ってせめて換金しようとかしてくれればよかったのに! 近づいてくるリーンハルトの顔は、明らかに怒りを湛えている。
瞳を吊り上げてイーリスに近寄ってくる姿に、肩がびくっとしてしまう。今度は笑って迎えてくれるかと思ったが、さすがにこれがばれては無理だったようだ。
(怒っている……間違いなく)
自分が無茶をしたからだろう。王妃としての自覚があるのかと怒鳴られるのを覚悟したが、イーリスの側に来た瞬間、リーンハルトは、泥だらけになっている腕をぐいっと掴みあげた。
そして、顔を見つめ、まるで壊れ物のように覗きこんでくる。
「どこも――怪我をしていないか?」
確かに今まで怒っていたはずなのに。覗きこんでくるアイスブルーの瞳は、まるで水面のように揺れているではないか。
きっと心の底から心配してくれていたのだろう。不安でたまらないようにイーリスの顔を覗きこむと、そっと頬の感触を触って確かめてくる。
「ええ……。ありがとう、助けにきてくれて」
その瞳が信じられなくて、金色の目を夕日の中で見開きながら答える。すると、強ばっていたリーンハルトの顔が、橙色の大気にほっと泣くように緩んだ。
「よかった、無事で。離宮の見回りを言いつけていたギイトから、君が行方不明になったという知らせが来た時、どれだけ胸の潰れる思いがしたか――――」
頬から伝わってくるイーリスの温もりが、また消えてしまわないかと恐れるように、怖々と腕を伸ばして抱きしめてくる。
両手を背に回し、ぎゅっと力をこめられるのに、イーリスは驚いてリーンハルトを見つめた。
「じゃあ、リーンハルトがあんな罰をギイトに言いつけたのは、私のために……?」
「悔しいが、実直なことにかけては、あいつほど信頼できる奴は珍しいからな。俺たちの離婚状が盗まれた離宮だ。誰が犯人かわからない以上、一つでも君を守る方法は増やしておきたかった」
きっと本当に心配してくれていたのだろう。
今も抱きしめてくるリーンハルトの指先は、細かく震えて、イーリスがいなくなったことがどれだけ怖かったのかを伝えてくる。
「リーンハルト……」
(私が殺されるかもしれないのが、そんなにも怖かったの?)
顔から、血の気がなくなるほど。イーリスを抱きしめている今も、走り続けてきた額からは白い汗がとめどなくこぼれ落ちてくる。
「君が――無事でよかった」
たったこの一言に、どれだけの想いがこめられているのか。
だから、イーリスもそっと汗ばんでいる背中に腕を回した。
温かい。
「私も……、逃げている間中ずっとリーンハルトの顔を思い浮かべていていたわ」
この腕の中に帰るのだと。きっと笑って迎えてくれる――そう予想していたのは、残念ながら怒った顔だったが、代わりに、泣き笑いしながらも今その腕で自分を抱きしめてくれているではないか。
(それに、これで怒らないのは、リーンハルトらしくないし)
ああ――帰れてよかったと、リーンハルトの顔を覗きこむ。
なぜだろう。リーンハルトが怒っているはずなのに、今は前みたいに体が強ばらない。あれだけ恐ろしかったリーンハルトの怒りが、今ではなぜか、自分を大切に思っているからだという不器用な表情に見えてくる。
(ひょっとして、今までもそうだったの?)
これまでは表面の怒りしか見えていなかったから気がつかなかった。その奥に隠されていたリーンハルトのうまく言えない本当の感情に。
「ごめんなさい、心配をかけて」
ようやくリーンハルトの本当の気持ちに手が届いた気がして顔をあげると、見つめた先で、端正な顔はくしゃっと歪んだ。
「まったくだ。俺がどれだけ君のことを心配したか。だけど」
無事でよかったと抱きしめてくれるのに、心の中はどうしようもなく温かくなっていく。
怒っていたはずなのに、なぜだろう。今は不思議とその声が気持ちいい。感じたことのない感情に、そっと広い胸に頬をすり寄せると、くしゃくしゃになっていた髪をリーンハルトが優しく撫でてくれる。
(大丈夫。もう、恐ろしくはないわ)
きっとこれからはリーンハルトの本当の気持ちも見える。だからと、すっと眼差しをあげ、見つめ合ったアイスブルーの瞳と微笑んだ。
「さて、ハーゲン」
言葉と共に、イーリスに向けていた瞳で横を見ると、そこに浮かぶのは、今までのリーンハルトとは違い冷酷ともいえる凍てついたようなアイスブルーの色だった。憤怒にも似た瞳を隠そうともせずに、騎士団に取り押さえられ、地面に伏せたままのハーゲンへと向けていく。
「よくも、俺とイーリスを謀ってくれたな」
見下ろした顔に浮かぶのは、完全な怒りだ。
唇の端を苦々しく上げ、強く眉を吊り上げた姿で、騎士達によって上半身をぬかるんだ地面に押しつけられているハーゲンを酷薄に見下ろしている。
その冷たい怒りに、いつのまにかトリカブトを吐き出していたハーゲンの口が、かたかたと細かい音を上げた。
「な、なんのことだが……。私が……陛下やイーリス様に、背くだ、などと……」
「お前がイーリスの殺害を企んだことは、グリゴアが通路でしっかりと見ている。目撃者がいる以上、言い逃れはできまい」
「ま、待ってください! それは、誤解で……!」
「誤解? 刃物を持って、女を追い回すお前の今の様子で、どこに誤解の余地があるというのだ?」
一瞬、ハーゲンが言い訳を探すように視線を動かした。
その間に、イーリスがそっと怒っているリーンハルトの袖を引く。
「リーンハルト、離婚状を盗んだのもハーゲンだったの」
怒っているから、普段ならば声がうまく出せなくなるのに、今はなぜか見上げても大丈夫だ。だから、酷薄な色を浮かべるアイスブルーの瞳をそっと覗きこんだが、イーリスの仕草に振り返った瞳は一瞬だけ開かれて、すぐに安心させるように頷いてくれた。
「そうか、やはりあれもお前の仕業か」
グリゴアから言われて怪しいと思っていたのか、それとも今のハーゲンの行動から類推したのかはわからない。
だが、見下ろすリーンハルトの様子に、更にハーゲンの顔には焦りの色が浮かんだ。
「わ、私は陛下の為を思って……!」
リーンハルトの見つめる瞳に更に鋭い光が加わったことに怯えたのだろう。必死で、ハーゲンが口を開く。
「陛下は、イーリス様とは仲がお悪いと聞いていました! それならば、無理をして再婚をされるよりも、いっそイーリス様にも非のない方法で別れて、陽菜様とやりなおされた方がよいと思い――!」
「つまり、全ては俺と国とを思ってやったということだと?」
「そ、そうです! 私は陛下と国のために」
リーンハルトの言葉に、救いをみつけたように必死でハーゲンが言い募る。しかし、その前でリーンハルトの瞳は、一層憎々しげに歪んだ。
「生憎だが――」
懐から丸めた書状を取り出し、ばらりとハーゲンの目の前につきつける。
よほど急いで、懐に入れたのだろう。そこには国王のサインと印璽、そしてほかの貴族に並んでグリゴアの名前も綴られているが、乾くまで待てなかったのか。少しだけグリゴアの名前の端が滲んでいる。
だが、取り出された紙の姿に、イーリスは目を見張った。
リエンラインの国章の入った紙に、押された国璽。法律の発行や改正に使われる重要な書類の様式ではないか。
はっと、そこに書いてある法律の内容を見つめる。
「お前達は、俺とイーリスの再婚を邪魔したいようだが、俺はイーリスとしか再婚する気はない! その証拠に、リエンライン国法二十五条附則三、同じ相手と二度婚姻関係を解消した者同士の再度の婚姻は禁ずるというこの条文は、本日付で国王と法務大臣、補佐をする元老院三人の承諾によって撤廃された!」
どんとつきつけられた内容を見つめれば、確かにあれほど自分たちを悩ませ続けた再婚に関する附則が、今日をもって廃止と綴られている。
「これでお前達も俺とイーリスの再婚をとめることはできん! たとえ、お前達が俺とイーリスの仲を阻もうとしても、俺はイーリスだけを選び、彼女とだけ再婚し続ける!」
「あ……」
目の前に突きつけられた法律の改正案に、ハーゲンが息をすることすら忘れている。
「これからお前には、今回の件の全貌と、後ろで共謀していたのが誰か、全て吐いてもらうぞ。眠らせてほしいと思う毎日が続くことになるとは思うが」
「お、お許しをっ! 私は、本当にイーリスを殺すつもりなんてなかったのです! ただ、本当は商務省に戻りたかっただけで!」
「その辺りの話は、騎士団の専門に任せる。もっとも、早くに話した方が楽になるとは思うがな」
お許しをという声を叫びながら、ハーゲンの声が遠ざかっていく。ぬかるんだ地面の上を引き立てられる姿が生け垣の間へと消えていくに従い、イーリスはくるくると紙を巻き戻しているリーンハルトへと目を戻した。
「その法案……」
「ああ、財産隠しの対策なら、ほかの方法でもなんとかできるしな。この際撤廃することにした」
「私のために、ただでさえ忙しいのに、法務省と元老院に掛けあってくれていたの?」
これだったのだ。グリゴアが言っていた、リーンハルトからつきつけられた紙とは。
つんと胸の奥が熱くなってくる。
「俺がイーリスとやり直すために邪魔になっている附則だ。ならば、そんなものはいらん。調べれば、国民にも仲をやり直したい夫婦の邪魔になっている者もいそうだったからな。それに」
こほんと、咳払いをしてイーリスを振り返る。
その頬は、僅かにだが赤い。
「君が俺を好きだと言ってくれたんだ。それならば、俺も君とやり直していくために君の望みを叶えたい。俺がしたあの仕打ちを忘れてくれるのなら――」
「リーンハルト……」
「君が好きだ。俺が結婚をするのなら何度だって君とだけしたい。もう失敗はしたくはないが、万が一の時のために。俺に、君と何度でもやり直すチャンスを作ることは認めてくれるか?」
その言葉がどれだけ嬉しかったか。
だから、まだ周囲を騎士団に囲まれた状態だということも忘れて、思わずリーンハルトに抱きついた。
「ありがとう……!」
――やり直したい。
やり直したい。
きっと二人で繰り返す呪文のようなこの言葉が、これまでとは違った明日を生み出していく。
目を開ければ、夕焼けの中で今まで怒っていたはずのリーンハルトの顔が、飛び込んできたイーリスの姿にくしゃっと崩れている。泣き笑いにも近い表情だ。お互いに息が触れそうな程近い距離に、そっと唇が重ね合わされた。
「約束する。今度こそ君を幸せにすると」
法律はあっても、もう失敗するつもりはないからと囁いて重ねられてくる唇は、先ほどまでひどく怒っていたはずなのに、とても優しい。
きっとこの唇のように、自分は見えていなかったリーンハルトの真実に少しずつ近づいていくのだろう。言葉以上に愛していると囁かれている気がして、壊れ物のように優しく重ねられてくる唇を、イーリスは嬉しい涙がこぼれるのを感じながらそっと受けとめた。
読んでくださりありがとうございます。まだ話は続きます。