第30話 恩には恩
自分を押しやり、頭上から下りてくる刃を受けとめていく貴族の袖を見つめる。元老院の衣だ。高い品だろうに、容赦なく裂かれたところからは、その下の肉も一緒に切られたことを示す血が、赤く暗闇の中に飛び散っていく。
「どうして、グリゴア様が……!」
はっとハーゲンの栗色の瞳が開かれた。
しかし、答えることなく、グリゴアのもう片方の腕が容赦なくその胴体を薙ぎ払うと、驚いているハーゲンを更に階下へと突き落としていくではないか。
「うわっ!」
まさか、ここで落とされるとは思ってもいなかったのだろう。見開いた瞳が、そのまま激しい音と共に、背中から階下へと転げ落ちていった。
「グリゴア!? どうしてあなたが!?」
ここにいるのだろうか? 彼は、自分に対して怒っていたはずなのに――。
思いながらも、自分を庇って怪我をした腕を咄嗟に取る。
ひどい傷口だ。やはり、イーリスを殺すつもりだったのだろう。ざくりと裂かれた腕からは、おびただしい血がこぼれ落ち、暗い迷宮の床を赤く染め上げていく。
「陛下に……怒られました……」
だが、腕を持ったイーリスを見つめながら返された言葉は、少し楽しそうに笑っているようだった。
「えっ……」
裂かれたグリゴアの緑の袖を千切り、その布の切れ端を傷口にあてながらグリゴアを見つめる。手が縛られたままなので不器用にしか動かないが、目は笑ったグリゴアの姿にまだ縫い止められたままだ。
「リーンハルトに怒られた?」
「はい。私がポルネット大臣の意見に賛同して、決議の承諾に動くことを知られたのでしょう。イーリス様が大翼宮を出られてすぐに、顔色を変えた陛下に詰め寄られました」
「リーンハルトが……!」
まさかそんなすぐに動いてくれていただなんて!
予想外のことに驚くが、目の前ではグリゴアが少し嬉しそうにくすくすと笑っている。
「そして、一つの紙をつきつけられましたよ。もし、私がリーンハルト様の味方ならば、すぐにイーリス様を唯一の伴侶として認め、これにサインをしろと。まさか、こんなに早くに手を打ってくるとは――予想外でした」
こぼしながらも、笑う顔は楽しそうだ。いつもは嫌味な光を放つ顔が、今は完全に弟子を思う師匠のものになっている。
今までに見たことのないグリゴアの顔に困惑しながら、イーリスはあてたままになっていた布を指でぎゅっと縛った。
「それで承諾をしたの?」
「私が、リーンハルト様の本当の敵になるはずがございません。降参でしたよ、指導役としては嬉しい完敗だ」
「でも、あなたは私に対してあんなに怒っていたのに」
それなのに、リーンハルトのためならば我慢をしたのだろうか。しかし、とてもそうは思えないほど、グリゴアはいっそ清々しいほどの笑みで座っている。そして、ふんと鼻で笑う仕草をした。
「リーンハルト様が心から望まれるのであれば、私がそれに逆らうことはございません。それに、陛下の信頼の厚い私が、先頭を切って反イーリス様の行動をすれば、隠れているお二人の反対派は、必ずや私に近づいてくるでしょうし」
「貴方……! さては、最初からそれが狙いで!」
笑う姿にはっと目を見開く。
では、最初から正面切ってイーリスを攻撃してきたのは、敵を自分におびき寄せるためだったのか!
「どうして、そこまで!」
お蔭でイーリスのみならず、リーンハルトからさえも疑われる立場になったというのに。
「リーンハルト様は……」
思わず覗きこんだが、グリゴアの顔は、ふっと懐かしむように笑った。
「私が今の妻と結婚して、家から勘当された時に、たった一人助けてくださった方なのです」
ふわりと優しい笑みとともに、イーリスが知らなかった過去が言葉となってこぼれてくる。
どうしようもなく好きになり、貴族と平民という身分の違いを乗り越えて行った結婚。だが、その若いグリゴアに待っていたのは、実家からの根回しで働く場所すらない生活と、生まれたばかりの赤子に飲ませる乳さえ出なくなるほどの困窮だった。
「このままでは我が子が餓死してしまう――焦った私は、昔の伝手を頼って、宮廷にいる友人に日雇いの仕事でもなんでもいいからないか相談にいきましたよ。その時でした、リーンハルト様に出会ったのは」
――お前、頭がよいのだって?
友人との話を聞いていたのだろう。アイスブルーと言われる目を持つ王子が、とことこと無邪気な顔で、自分の側へと近づいてきた。
豪華な絹の服。血色のよい肌は、どれも自分の子供に与えたくても適わなかったものだ。それでも、今は少しの仕事でもいいからもらえて、子供の乳を買ってやることができるのならばと膝を折った。
「はい、どんな仕事でもこなしてみせる自信はございます」
だから恭しく頭を下げたが、余程その答えが気に入ったのか。
「ふーん、じゃあ試しに俺の教師をやってみろ。今の教師は、どいつも歯ごたえがない上に、貴族の世界しか知らなくて面白味がない」
言われた言葉に、驚いて顔をあげた瞬間、どれだけその無邪気な笑顔が神々しく思えたか――。
「これで、我が子の命が助かると思いました。なにもいらない、子供の命さえ助かるのなら。と思っていたのに、リーンハルト様のお蔭で、私の子供は小綺麗な服を着て育ち、きちんと教育を受けさせてやることもできました。熱を出せば医者を呼んで薬を買ってやれたのも、すべてはリーンハルト様のお蔭なのです」
(ああ、だから――)
こんなにも、グリゴアはリーンハルトのために怒っていたのだ。
「では、あなたがこの年になるまでエヴリゲ家を相続しなかったのも」
「勘当されていたからですよ。ですが、陛下の信任が厚いということで、やっと高齢の父も折れてくれたのです。もっとも、近年は何回もこっそりと子供に贈り物をしていたようですが――」
なのに、とグリゴアの顔は、くしゃりと歪む。
「私はリーンハルト様のお蔭で幸せな結婚と家庭を手に入れたのに、肝心のリーンハルト様はそうではない。毎回、遠くの外国にいる私の元に届く手紙には、あなたとのことを泣くように綴られていました」
どうしたらいいのかわからなくて、懺悔をするように相談をされていた文章。
「最初は謝りなさいと返しました。でも、すぐに謝ることすらできないほどの失敗をしてしまったと深い後悔を綴った文が返されてきて――」
それは、きっとイーリスの故国が滅びてしまった時のことなのだろう。
(――どんな想いで、リーンハルトは私の故国滅亡の知らせを聞いていたのか……)
あの頃は、自分も国内の災害、すれ違ってしまったリーンハルトとの関係と急な故国滅亡の知らせで手一杯で、とてもそこまでリーンハルトの気持ちを推し量ってあげることができなかった。
ただ、「大丈夫よ。家族は無事だから」と笑うのに精一杯で。今から思えば、無言でも、リーンハルトは真っ青な顔で立ちつくしていたのに。
(あの時の――)
思い出した光景に、イーリスがぎゅっと膝の上で手を握りしめると、ふっとグリゴアが息を吐いた。
「リーンハルト様は、不器用な性格です。幼い頃から、ただ命じる立場として育てられ、謝ることもどうすれば人に愛情を伝えることができるのかも、全て必要がなく育ってこられた。ですから、私はそれらをリーンハルト様に伝えてくれるような、誰よりも温かで幸せな家庭をもってもらいたかった。過去に私が味わい、そして、今でも幸せでたまらないと思えるような家庭を」
「だったら余計にどうして? リーンハルトと離婚する私のことをあんなに怒っていたのに」
「リーンハルト様に、それを自分に与えることができるのはイーリス様お一人だと宣言されては仕方がないでしょう? だから再婚を容認しろという陛下に降参して書類にサインをしたら、直後に離宮からあなたが行方不明になったという知らせが届いた」
「それで来てくれたの……」
「はい。ハーゲンは元々怪しいと思っていたのです。なにしろ、私がイーリス様に反旗を翻して、真っ先に近づいてきた人物でしたから」
だから、すぐに陛下に伝えて二人で離宮に貴女を探しに行ったのですと笑う姿には、なぜここにいたのかを納得したが、
「二人でって」
そちらの言葉の方に目を見開いた。
「じゃあ、まさか! リーンハルトもここに来ているの!?」
「一緒に開いている隠し通路の扉を見つけましたので。今も貴女を追いかけて探されているはずです。途中で足跡が消えたので、二手に分かれましたが」
(リーンハルトがここに来ている!)
その言葉に、心に元気が戻ってくる。
今まで、誰にも知られることなく殺されるかもしれないと思っていたのに。
表情が、明らかに弛んだのに気がつかれたのだろう。すっとグリゴアの眼差しが天井を見上げた。
「陛下からのご伝言です。見つかったら、通路に彫られた沈丁花を伝って外に出るようにと。そして、すぐに騎士達に助けを求めろと」
言うと、手を伸ばし、イーリスの両手を括っている紐を解いた。片手を怪我しているから簡単にはいかないが、それでも結び目を緩めれば、腕を拘束していた紐がぱらりと落ちていく。
「突き落としたとはいえ、ハーゲンはきっとまたすぐに戻ってきます。なにしろ、自分と自分の一族の命がかかっていますから」
「でも、あなたを置いては」
自由になった手を振りながらいうイーリスに、グリゴアは首を横に振る。次いで、自分の座っている足を見た。
「ハーゲンの狙いは、私ではありません。私は目撃者として不都合でしょうが、イーリス様ほどではない」
今まで気がつかなかったが、太ももにも刃物の先端が当たっていたのだろう。座った膝の近くには、少しだが血が滲んでいるではないか。
だからと、イーリスを見つめ、すっと天井の花を指す。
「行ってください! あいつが追いかけてくる前に、早く陛下の元へ!」
足を怪我して、速く走れないことを気にしているのだろう。
「私のことは大丈夫です! それよりも、リーンハルト様のためにどうか!」
「わかったわ」
そこまで言われては、いかないわけにはいかない。
「でもね、私の中で恩人を見捨てるという言葉はないの」
だからと、座り込んでいるグリゴアの肩に腕を回すと、立ちにくそうにしている姿に手を貸した。立ち上がった時にぐっと歪めた瞳を見れば、出血は少なくても、グリゴアの足の怪我はかなり痛そうだ。
「貴方には不本意でしょうけれど」
笑いながら体を引きずり、陰になっている通路へと連れて行く。
「貴方は、ハーゲンが私を殺そうとした証人として必要なの。だから」
「なにを」
驚いている姿を通路の角を曲がったところまで連れて行き、そこの奥に座らせる。
「口封じに殺されては困るのよ。その足で走るのは難しいでしょう? 私が助けを呼んでくるから、それまでここに座って隠れていて」
「イーリス様」
驚いたようにグリゴアがイーリスを見つめてくるが、今はこれぐらいしかしてあげられることがない。
「いいこと!? 動こうとなんて考えたら、今度こそ職場がなくなって、子供達のご飯が危なくなるんだからね!」
笑っていったものの、離婚をした今そんな権限などないことは、イーリス自身がよく知っている。それでも、一瞬怯んだグリゴアの顔に気分をよくすると、イーリスは急いでさっきの階段の踊り場にまで戻った。
そして、言われたとおりに見上げれば、いくつかある階段と通路にそって様々に彫られている鈴蘭や竜胆、ダリアといった花の中に、たまに控えめに沈丁花の姿がそっと隠れているではないか。
(通路の沈丁花!)
闇夜でも存在を知らせるほどの芳香をもつ姿の通り、暗い通路の端に現れては、これから進むべき方向を教えてくれる。
その方向に走り出そうとして、イーリスは一度グリゴアを隠した通路を振り返り、自分の足下に簪を落とした。
(これで、ハーゲンはグリゴアのいる方向には興味をもたないはず!)
あとは、自分がこの迷路を抜けるのが早いか、ハーゲンが追いついてくるのが早いかの戦いだ。
もっとも、今簪を落としても、この行く先には迷路がまだ続いているとは思うが。
急いで走り出し、天井に沈丁花がある方向を探す。迷路は続くが、沈丁花は右に二度、次いでまっすぐ下りて更に曲がった左の道に三度現れてくる。そして、次を曲がったところで、続く白い通路にイーリスは目を見開いた。
ここは、以前にも通ったことがある道だ。
突然白くなった通路を見上げれば、現れた階段の側にある壁には沈丁花と並んで百合の紋章が刻まれているではないか!
(王妃宮からの出口だ!)
ここからのぼれば、外に出られる!
はっと気がついた出口に、急いでイーリスは白い階段を駆け上った。