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第29話 逃走

 飛び込んだ中は、漆黒の闇だった。


 イーリスがその暗闇に一歩踏み込むのと同時に、隠されていた秘密の通路には、光蘚のようなぼんやりとした明かりが灯る。歴史の中でほとんど失われたという太古の魔術だ。今はこの秘密の通路と同じく、当時から伝わる物や少数の民によってかろうじて残っている。


 その灯った光を頼りに、急いでイーリスは茶褐色の煉瓦で作られた階段を見つめた。


 リーンハルトが言ったとおり、残っている足跡は、同じサイズの同じ靴跡と思われる一種類だけ。


 だが、それを道標に急いで階段を駆け下りる。


(この足跡をたどれば、リーンハルトの部屋にいけるはず……!)


 そうすれば助けを呼ぶことも可能だ。


 かっかっかっと踵を響かせながら走ったが、靴音の反響がひどく邪魔だ。


「もう!」


 足音で追いかけられては、元も子もない。だから、急いで靴を脱ぎ捨てると、階段を駆け下りた、しかし、下りた先で広がっていたのは荘厳な迷宮だった。すぐに道は二つに分かれ、右を見ても、左を見ても、どちらも灰褐色の石で作られたアーチ型の天井だ。土を掘り出して作られているはずだが、つるりとした壁の素材はなんなのか。壁には椿、タンポポ・ニゲラ、沈丁花など様々な花の装飾が通路に従って精緻に施されている。それは、まるでこの迷路が、過去には秘密の儀式にでも使われていたのではないかと思われるほどの荘厳さだ。


(王妃宮のなら、百合が目印なのに……!)


 どこかにこの迷路の道標はないかと探すが、どれがそれなのかすらわからない。


「どっち!?」


 下りて、更に下へと広がっていく通路に息をのんだ。


 今いるところからでも、伸びている通路は二つ。ここから見える先は薄暗いが、そのどちらもが少し先で更に下るように道が分かれ、どちらを選べばリーンハルトの部屋に辿り着くのかがわからない。


 有事の時のためなら、万が一ここに反乱兵が追いかけてきた時に備えて、違う道にはいくつかのトラップが仕掛けてあってもおかしくはない。王妃の実家が裏切った場合も想定してあるのか。王妃教育でさえ教えられなかった迷宮に、ごくっとイーリスも息をのむ。


「いいこと? 落ちつくのよ?」


 自分に言い聞かせるように呟き、急いで床の上に残った足跡に目をやった。長い間使われていなかったのだろう砂埃の上には、いくつかだが、うっすらと跡が残っている。


「待て!」


 しかし、イーリスが足跡の続く方向に目をやる間にも、後ろからは階段を駆け下りてくる声がする。


 走る音からすると、追いついてくるのにあまり時間はないだろう。だから、通路の砂の上に微かに残ったリーンハルトの足跡を見つけると、急いでそちらに向かって駆け出した。


 はあはあと息が切れる。


 手が前に縛られているせいで、走りにくい。


 だが、捕まれば――今度こそ、殺されてしまうだろう。


 ぐっと裸足で走るつま先に力を入れる。


「嫌よ! 誰がおとなしく捕まってやったりするものですか!」


 じゃりと、指が土埃を掴むが、薄明かりの中を必死に駆け抜ける。


 この道を通って生き残れば、その先にはリーンハルトがいるのだ。


 ふと、リーンハルトの顔を思い浮かべて、笑みがこぼれた。


 もし、今急にイーリスが部屋に現れたりしたら、リーンハルトはどんな顔をするのだろう。この道が、繋がっているのは執務室かくつろぐ居間か。それとも寝室なのだろうか。もし寝室ならば、イーリスが現れれば、あのリーンハルトのことだ。最近よく見せる表情のように、真っ赤になってうろたえるのに違いない。


 すごく驚いて――でも、きっと笑いながら出迎えてくれるだろう。


(そうよ! 今度は、きっと笑って迎えてくれる!)


 前みたいに、怒られたり、睨みつけられたりはしない。今ならば、リーンハルトは必ず、驚きながらも喜んで、イーリスを受けとめてくれるのに違いない。それどころか、ひょっとしたら、この間の朝みたいに抱きしめてくれるかもしれないではないか。


「会いたいわ……」


 その顔を想像して、ぽつりと言葉がもれた。


 走る通路は薄暗くて、追っていたはずの足跡も今ではどこにあるのかすらよく見えない。


 迷宮の闇の中を進むにつれて、道はどんどんと入り組んでいく。


 まるで、わざと人を迷わせようとしているかのようだ。


 それでも――。


「会いたいの……」


 ぽつりと言葉が洩れた。


 どれくらいの階段を駆け下りたのか。さすがに前世と同じように階段で死んでは洒落にならないので、気をつけて下りては曲がり、また走るを繰り返している内に、息がどんどんと上がってきた。その間にも周りを照らす光は更に薄くなり、ぼんやりと通路の形が見えるので精一杯になってしまう。もうこの暗さでは、リーンハルトが残していたはずの足跡も見えなくなり、走っている方向が、出口にあっているのかすらわからなくなる。


 道が分かれる度に、何度か地面を見下ろして探したが、床に残る砂がこの辺りは少ないのだろう。途中から、足跡は完全に消えてなくなってしまっていた。


 きっともう三十分以上は走り続けただろうか。出口を探しているはずなのに、のぼったり下りたりを繰り返している場所は、なぜか同じところをぐるぐると回っているような気さえしてしまう。


 だが、薄闇が広がる後ろからは、イーリスを追ってくるハーゲンの足音が確実に聞こえてくる。


 きっと裸足になったとはいえ、走るイーリスの反響音を目印に追いかけてきているのだろう。


 まっすぐに追いかけてきているのか、近くを走っているのかはわからない。


 でも、おとなしく捕まってやるつもりはない。リーンハルトのいる側に帰るのだ、と広がる迷宮の壁を見つめた。――今度こそ、気持ちの通じ合った夫婦としてやり直すために。


 息を切らしながら走り、殴られたせいでまだ少しふらつく頭を通路の壁で支えたところで、また道は三つに分かれた。


「また!?」


 今度はどれが正解なのか。じっと、目を凝らすがわからない。目の前の薄闇にぽっかりと開いた三つの穴を見比べるが、どれがどこに通じているのか。違うのは、壁に彫られた様々な花の順番ぐらいで、穴の奥に広がるのは、ただの闇ばかりだ。


(だめだわ……)


 沈丁花、薔薇、桜。どれが手前のを選べば、リーンハルトの部屋に繋がっているのか。


 いや、そもそも今通ってきた道で合っているのか――。


 思わず、ぐっと指を握りしめる。


「だめよ、ここで諦めたりはしないわ……!」


 響いて聞こえてくる足音が、先ほどよりも近いような気がする。後ろなのか、横なのかすらわからない。いや、反響のせいなのだろう。まるで四方から足音が迫ってくるような幻聴に、イーリスは頭を振ると、きっと前を見つめて急いで左側の通路へと飛び込んだ。


 頭をさっき殴られたせいなのか。足がふらついて走りにくいが、それでも通路の先にでると、そこは階段の踊り場だった。


 近い足音に、はっと周囲を見渡す。


 すると、自分のすぐ上で足音が響いているではないか。


「見つけたぞ!」


 あっと驚く暇もなかった。ハーゲンだ。上下で別れたすぐ上の通路にいたのだ。足音を近く感じるのも無理はない。


 そのまま飛び降りるように、迫ってくる刃物に、衝撃がくるのを予想する。横殴りか、再度頭を狙われるのか――。


 毒を飲ませて、死因をわからなくする方法が狙いなのだから、一撃で刺し傷が残るようなやり方は望まないだろうが、ここが迷宮で腐敗するまで死体の見つかる可能性が低いと考えたのなら、話は別だ。


 気を失わせて毒を飲ませるか。口封じにそのまま殺す気か。迫ってくる赤みがかった髪の中から見つめてくる狂気を宿した瞳に、急いで逃げ場を探そうとした瞬間だった。


 まるで自分を庇うように、誰かの影が後ろから自分の前に走り込んできたではないか。


 その人物の腕に触れたナイフの先端から、赤い血が皮膚を裂かれていくのに従い飛び散っていく。


「なに!?」


 咄嗟に自分を後ろに押しやり、代わりに剣先を受けとめた相手を見つめて、イーリスの金色の瞳は大きく見開いた。


「グリゴア!?」



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