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第28話 本音の言葉

 まだ頭の奥がずきずきと痛むような気がする。


(私、どうしてたんだっけ……)


 頭のこの痛みは、前世で死んだ時のものに似ている。あの頃は、神戸の三宮で見つけた珍しい本達に夢中で、翌日も仕事だというのに、遅くまで読みふけっていたものだ。


(懐かしいな、お父さん。お母さん……)


 今から思えば、早く寝なさいと幼い頃から何度も注意された言葉を、一人暮らしになってからもきちんと守ればよかった。


 起きた後、少しふらついていたのが悪かったのだろう。仕事に行こうと外に出て、マンションの隣の子と階段を下りていたら、彼女が手すりをきちんと掴んでいないのに気がつくのが遅れてしまった。


 あの時、足を滑らせた姿を咄嗟に抱えて一緒に階段を落ちたが、隣の子は無事だったのだろうか。遠のいていく意識の中で、人を呼びながらずっとイーリスの名前を呼んでくれていたが――。最後に玄関の遠くに見えた海と女の子の泣き顔が妙に鮮明に思い出される。


 今でも耳元では、がちゃがちゃと何か騒がしい音が続いているが、ひょっとしたら自分はあの時の夢を見ているのだろうか。同じくらい頭は痛んで、ずっとズキズキとしているが――。


 うっすらと目を開いた。


 夢の中でずっと見ていた懐かしい神戸の海のきらめきが目の前に広がっているかと思ったが、生憎と今自分が寝ているのは、現在では使われていない一階の厨房のようだった。蜘蛛の巣の張った竈が並び、壁にはいくつもの鍋がかかっている。


 どうやってここまで来たのか――。


 ぼんやりと動き始めた頭で周囲を見回せば、大きな布をかけた夕食を運ぶのに使うカートの側で、古びた木のテーブルに向かっている男の姿が見えるではないか。


「えっと……これをすり潰せば、飲ませられるという話だったが……」


「ハーゲン!」


 はっとして、飛び起きようとした。しかし、体の前で両手を縛られているせいか、思うように動くことができない。


「お目覚めになりましたか、イーリス様」


 こちらに向かって振り返る姿は、最初にあった時と同じ愛想のよい笑みだ。だが、今はその胡散臭さを十分すぎるほど知っている。この笑顔で出会ってから、ずっと騙されてきたのだ。必死に上半身を起こして、後じさろうとする。


「お前……いったい、なにを……」


 両手を縛っているところからして危害を加えないという可能性は見いだせない。いや、既に先ほど火かき棒で意識を失うぐらい殴られたのだ。自分に害意があると見た方が確実だろう。


「目を覚まされない方が、このまま幸せな夢を見続けられましたのに」


「生憎、幸せといえる程の夢じゃなかったわよ!」


 前世で自分が死んだ時の夢だなんて。考えてみれば、あれは危険が近づいていることへの警告だったのかもしれない。


「俺はね、最初はイーリス様を殺そうとまでは思っていなかったんですよ」


 しかし、ハーゲンは古いテーブルにもたれながら、はああと大げさに溜め息をついている。そして、肩を竦めた。


「俺は、ただ商務省に戻りたかっただけなんです。誇りをもって真面目に働いていたのに、イーリス様貴女の改革で、俺が勤めていたギルド市場係はいらないと言われて解体されてしまった。挙げ句、次に回されたのはこんな空き家管理の閑職だ」


「それで私をはめて、昔の上司であるポルネット大臣に恩を売ろうとしたの!?」


「そうですよ。ポルネット閣下は、俺が商務省に戻りたがっていることを知って、陛下とイーリス様の再婚をなくし、もう一度王妃として戻ってくることができないようにさえすれば、次の人事で掛け合ってくれると仰ってくださいました。だから、俺はイーリス様の再婚さえなくせればそれでよかったんですが……」


 はあと更に重たい溜め息をついている。


「こうなってしまった以上、残念ながら仕方ありません。俺が離婚状を盗んだと陛下に知られれば、王族反逆罪で一族ごと処刑は免れませんし」


「なにを……」


 こつこつと、足音をさせて近づいてくる姿に、必死に下がるが、後ろはもう壁だ。簡素な板張りが背に当たり、どこにも逃げ場はない。


 思わず、ハーゲンが抱えたままの小さな白いすり鉢を見つめた。


「なに、これをちょっと飲んでいただきたいだけです。昔聞いた商人の話によると、これを口にすれば、息がうまくできなくなって死ぬそうじゃありませんか。これならば、俺が毒を盛ったと気がつかれる心配もありませんし」


 毒――!


 慌てて、ハーゲンが今まで向かっていた机に目をやれば、そこには細い葉をつけたイチイの枝と種が幾つか置いてあるではないか!


「もしかして、イチイの種を――!」


「おや、ご存知の毒草でしたか。さすがは博識と名高い王妃様だ」


 知らないはずがない。ガリア戦記の中でも、自決の道具として出てくる有名な植物だ。強い材質のため、長距離用の弓としても度々活躍する木材だが――。


「冗談じゃないわ!」


 誰が、おとなしく毒など飲んでやるものか!


 急いで立ち上がろうとしたが、腕を縛っている縄が邪魔だ。手を前に括られたまま、必死に床について立ち上がろうとしたが、その間にもハーゲンはゆっくりと近づいてくる。


「大丈夫ですよ、苦しむ時間は比較的短いと聞いています。効き出したら、すぐに回るそうですから」


「嬉しくない情報をありがとう!」


 過去の偉人達と同じ死に方とはいえ、そんなのは少しも嬉しくはない。だから、顔に近づけられてくる陶器製の匙から必死に顔を背けた。


「強情を張らないでください。貴女の命一つで、俺と俺の家族は助かるのですから――」


「私を殺して、リーンハルトが誰も咎めないとは思えないわ! 最悪、この離宮に勤めている者が全員疑われて、処刑されるわよ!」


「そうなる前に、大臣が恩赦を願い出てくださいますよ。一端、追放ぐらいにはなるかもしれませんが、またほとぼりが冷めた頃に呼び戻してくださる手はずになっていますから」


 なにもかもが、打ち合わせ済みだったのだ!


 帰ってきた自分をはめて、再婚させないようにすることも! 離婚状を二通、偽造でもいいから用意することも! そして、最悪の場合には、殺して口を塞ぐことも!


 全てが、全て、最初から仕組まれていた罠だった!


(グリゴアにばかり気をとられすぎていた――!)


 あまりに、イーリスに対してあからさまな態度だったから。


 しかし、睨みつける間にも、ハーゲンの手はイーリスの頭を拘束しようと後ろに伸ばされてくる。


「さあ、イーリス様」


 これに捕まれば、強制的に上を向かされて、すり潰したイチイの実を飲まされるのは間違いがない。


 なにしろ子犬ならば、落ちた果実を飲んだぐらいで死んだという報告もあるほどの猛毒だ。いくらをすり潰したのかは知らないが、助かる量ではないだろう。


「あなたは民想いの王妃様と評判だ。ならば、私の命のためにも飲んでくださいますよね」


「ご免よ!」


 括られてはいるが、腕はまだ動かすことができる。


 だから、近づいてくるハーゲンの腕に向かって、振り上げた腕を渾身の力で落とした。


「なっ……」


 殴られた衝撃で、手に持っていた白い小鉢がひっくり返る。からんと床に転がるのと同時に、急いで自由に動く金髪の頭を持ち上げて、ハーゲンの首に横殴りに体当たりをした。


「うっ!」


 さすがに、少しよろけたところを狙われては、体勢を保つことができなかったのだろう。


 ハーゲンが横に転げた隙に急いで立ち上がり、急いで扉の方へ向かって走り出す。


「待て!」


 慌てて扉まで辿り着いたが、握ったノブは、鍵を閉められている。


 かちゃかちゃと縛られたままの手で押したが、どうしても開くことができない。


 その間にも、後ろではハーゲンが立ち上がり、扉と格闘しているイーリスに向かって、鬼のような目を向けてくるではないか。


「よくも……」


(だめだわ! 間に合わない!)


 ならば、と急いで厨房の奥に走った。ここには来たことがないから、どんな作りになっているのかはわからないが、もう逃げられる場所はそこしかない。


 だから、急いで奥にある古い扉に手をかけたが、生憎と飛び出した先に続いているのは騎士やメイド達のいる住居の方ではなく、食器の保管場所や食べ物の貯蔵庫、そして物置のようだった。


(どこか――外に出られたら)


「無駄です! そちらの出口にも全て鍵をかけてあります!」


 後ろから、立ち上がったハーゲンの声が追いかけてくる。


(くっ――! せめて、どこかに窓があれば!)


 逃げる隙間がないかと見渡すが、目の前にあるのは長年使われていなかった貯蔵庫だ。いや、ひょっとしたら有事の時のために、多少の蓄えはされているのかもしれない。しかし、身を隠せるほどの場所があるとは思えない。


 どうしようと急いで首を振って見回すが、ほかにあるのは小ぶりの武器庫と物置、それに食器などの保管庫だ。


(うん? 物置?)


 ふと、気になった扉を見つめたが、その間にも後ろからはハーゲンの走ってくる音がする。


「待て!」


 見れば、厨房に残っていたイチイの種と細い刃物を掴んでいるではないか。どうあっても、イーリス生かしておくことはできないと思ったのだろう。


「ちっ!」


 逆恨みもいいところだ。そう怒りたいのは山々だが、今は捕まって談判している状況ではない。


「一か八か!」


 急いで、物置の扉に手をかけると案の定、ここには鍵などはなかった。


(そりゃあ、そうよ! あったら、役にたたないもの!)


 なにしろいざという時のための、離宮なのだ。急いで入り込むと、薄暗い物置の中で、イーリスはぐるりと周囲を見渡す。すると、何本か並んでいる石の柱の一つに、ミュラ神教の伝説に出てくる女性の像が小さく刻まれているではないか。


「あった!」


 いざという時に、王室の人間の守るべく作られた秘密の扉――リーンハルトの使っていた隠し通路だ!


 前に括られた手で、不自由ながら茶色い石を思い切り横に押せば、石が滑るに従い、中からはぽっかりと暗い通路が姿を現してくる。


「見つけたぞ!」


 後ろからハーゲンの声が迫ってくる。だが、生憎おとなしく捕まってやるつもりはない。だから、追いかけてきたハーゲンをちらりと振り返ると、イーリスは急いでその漆黒の通路へと飛び込んだ。



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