第6話 家出決行
「今すぐ荷物を纏めてちょうだい! ああ、嵩張る物や贅沢品などはいらないから」
けれど、怒りのまま、つかつかと部屋の中に入ってくるイーリスの様子に、コリンナは戸惑ったように両手を胸の前に持ち上げている。
「ど、どうされたんですか。出て行くって、急なご旅行かご視察の予定でも」
「残念ながら、そんな優雅な話ではないの。私は、たった今離婚して王宮から出て行くことに決めたのだから」
「ええっ! どうして、そんなことに!」
さすがに、あまりにも急な話すぎたのだろう。さっきまでパーティーの身支度に使っていた化粧小道具を、まだ片付けている途中なのにもかかわらず、コリンナが急いでイーリスの元へと走ってくる。
「一体なにがあったんですか? どうして、突然家出だなんて……」
だから、イーリスは机の側にある椅子に座ると、ぎりっと爪を噛みしめた。
「陽菜……今まで明るくて無邪気な子だと思っていたのに、まさか私を嵌めるだなんて……!」
「え、嵌める!? じゃあ、あの女狐が陛下にだけじゃなく、イーリス様にもなにかを仕掛けたってことですか!?」
「お蔭で、私は王宮の中で、王の寵愛を争って敗れた挙げ句、ライバルを殺そうとした王妃よ。しかも、リーンハルトまで、あの女の嘘を信じるだなんて……!」
思い出しても、腸が煮えくり返るようだ。
「ええっ!」
さすがに言った内容があんまりだったのだろう。コリンナも驚いたように、机の向こうから身を乗り出してきている。
「だから、私は決心したわ! あの女が私を嵌める気で、しかもリーンハルトがそれを信じるのなら、私だってもうこんなところに用はない! 今すぐ、ここから出て行くことにしたの! 聖女殺害未遂なんて、つまらない罪で牢屋に閉じ込められる前にね」
イーリスの身に降りかかったことの重大さがわかったのだろう。さっとコリンナの顔色が青くなると、慌てたようにイーリスを見つめている。
「で、でもどこにいかれるのですか? あの、私にできることがあったら……うちの領地は狭いですが、イーリス様には父も大恩がありますし、身を隠すぐらいならできますから」
「いくらコリンナの身内でも、そんな迷惑はかけられないわ。迂闊に匿えば、コリンナの一族が罪に問われかねないし」
心配して言ったが、次の瞬間しゅんとしてしまったコリンナの顔に申し訳なくて、つい微笑んでしまう。
「だから、急で悪いけれど、荷造りを手伝ってほしいの。ドレスも豪華なものはいらないわ。ほんの二、三着。一番地味なものと、あとは逃げるのに最低限の品を」
「はいっ! じゃあ、化粧品や旅に必要なものを纏めますね! それと、できたら旅費になりそうなものを」
「リーンハルトからもらった品はできるだけ置いていきたいの。それで咎めるとは思えないけれど、念のために」
「はい。じゃあ、ご実家から嫁いで来られた時に持参された物を中心に纏めます!」
言い置くと、もう彼女は奥の部屋へと走って行ってしまう。そして、なにかを引き出すごとごとという音だけが聞こえた。頭の回転が速い彼女のことだ。きっとイーリスが、王室の財産を横領したといわれる可能性を心配していると、少ない言葉からわかってくれたのだろう。
その様子に安心して、イーリスはいつも執務で使っている机の引き出しを開けると、中から白い紙を一枚取りだした。
そして、それを紅葉で作られた天板の上に置く。王室の紋である三頭の鷹の絵が浮き彫りにされた正式な公文書にも使われる紙だ。
いつも使い慣れたそれを手に取ると、羽根ペンを取り上げてインク壺を開けた。
そして、たっぷりと浸したペンで、淀みなく書き綴る。
『リエンライン王国の法に基づき、この両者の婚姻の解消を神に報告する。
イーリス・エウラリア・ツェヒルデ』
あとは、この下にリーンハルトが自分の名前を綴れば、晴れて離婚が成立だ。
勢いで一気に書き上げたが、見返しても後悔はわかない。
(これでいいのよ)
少なくとも二人の間に信頼はあると思っていたから、これまでは耐えてこられた。けれど、リーンハルトの気持ちが陽菜に移り、あまつさえ共に自分を陥れようとするのなら、もうここに留まる意味はない。
「でも、少しだけぶっきらぼうかしらね……」
というよりも、なにか一言残してやらなければ、腹の虫が治まらない。
だから、もう一枚。今度は薄く白百合を透かし彫りにした紙を取り出すと、そこにペンを下ろした。
『今までありがとう』
「なにが……」
とは思うが、一応行き場のない身の上を聖女というだけで六年間食わせてくれていたのだ。最低限の礼を守ってから、嫌味は綴るべきだろう。
『あなたと陽菜との間に、もう私は必要ないようです。私は、ここから出て行きますので、二人で幸せになってください』
「完璧!」
一見丁寧に書いたが、本音はありありと出ている。
『お邪魔虫で悪かったわね! もう、あなた達に関わりたくなんかないから勝手にしなさい!』
我ながら、嫌味を可憐に見せた究極の嫌がらせだ。
「よし! これであとは荷物だわ!」
とにかく、どこかに幽閉されたり、人知れず監獄に送られたりする前に脱出しなければならない。
「さて、コリンナの様子は――」
(手際のよい彼女のことだから、もう纏める物の目星はついているでしょうけれど)
だから様子を確かめようと、がたんと机の前から立ち上がろうとした。けれど、不意に大きな音が近づくと、まるで駆け込むようにギイトが部屋の中に入ってくる。
「お、王妃様……! 事件を聞いたのですが……」
その顔は、汗だらけになっていて、必死にここまで走ってきてくれたのがわかる。慌てている神官の態度に、イーリスはおかしそうににっこりと笑った。
「事件? ただ、陽菜殿が滑って階段から落ちただけよ? それがどうしてか、後ろにいた私が突き落としたといわれているのだけれど」
「やっぱり! ヴィリの奴! イーリス様がそんなことをするはずがないと思ったんだ!」
けれど、イーリスが答えた途端、ギイトは拳を握りしめながら、震わせている。
「あいつ! 神殿の中の地位がほしいからって! まさかここまで強引にイーリス様をはめようとしてくるだなんて!」
ほんの一言いっただけなのに、即座に信じてくれるギイトに、イーリスの方が呆気にとられてしまう。
「疑わないの?」
だから、さすがにぽかんとした顔で尋ねてしまった。
「ほかの皆みたいに。私が落としたのじゃないかって……」
不思議そうに首を傾げて尋ねるが、こほんと咳払いをして居住まいを正したギイトは、まっすぐにイーリスを見つめてくる。
「私の知っているイーリス様は、たとえどんな理由があったとしても、姑息に人を貶めるようなことはなさいません。戦うときは、いつも正々堂々と正面から。私は、ずっとイーリス様を側で見てきましたから、違うと断言できます」
「ありがとう……」
まさか、こんなに簡単に信じてくれる人がいるとは思わなかった。
「リーンハルトでさえ、私がやっていないって信じてくれなかったのに……」
「それは、毎日後ろで、イーリス様が見事に敵を論破される様子をみてきておりますから。常に真っ向勝負で挑まれるイーリス様のご性根に、小細工など不必要!」
「どうしよう。良い話っぽかったのに、一気に私が脳筋なだけな気がしてきたわ……」
しかし、ギイトは単語の意味がわからなかったのか首を傾げている。
「脳筋?」
「あ、いえなんでもないのよ」
説明すると、なんか的を射てそうで怖くなる。だから慌てて誤魔化したが、ギイトは急いでイーリスの前に駆け寄った。
「ですが、それなら尚更一刻も早くみんなに事情を説明して、イーリス様がはめられたことを知らせるべきです」
「そうしたいけれど、陛下に部屋での謹慎を命じられたから……」
「なっ!」
信じられないというように、ギイトが身を乗り出してくる。
「では、陛下はあちらのいうことを信じられたと!? そんなあまりな!」
「だから、私もこのまま私を信じないリーンハルトに、自分の未来を委ねる気はないの。向こうが私を邪魔だと思うのなら、好都合! こんな王宮、自分から出て行ってやるわ!」
「えっ! えええっ!」
さすがに突然の決意にギイトも混乱したようだ。
けれど、奥からは、コリンナが大至急纏めた荷物を持って出てくる。手には少し大きめの旅行鞄が一つ。
「逃げるのに、最小限にしましたが、これ以上減らすのは無理でした」
「十分よ。逃げるのに、ごてごてとした物はいらないわ」
「え? もう、準備が整うところまで……?」
青い顔でギイトは止めるように手を伸ばしてくるが、やめるつもりはない。
「リーンハルトが私の言うことを信じない限り、どんなに釈明したってよくて幽閉。悪くて牢屋か処刑だわ。王妃なんて名目で、聖女の知識を独り占めしようとしているリエンラインが、簡単に聖女を手放すとも思えないしね」
だからと、鞄を持ち上げる。中味は重たいが、これぐらいならば持てないこともない。
「そんなことになるぐらいなら、自分からさっさと出て行くわ。ギイト、今までありがとう。それとコリンナも。特にコリンナは、荷物を纏める前に、私から暇を出されたといっておきなさい。そうすれば、私が出奔しても、罪に問われることはないから」
「王妃様……」
ぐっとコリンナが、涙を拭っている。
「ギイトは、しばらく神殿内部での保護を。さすがに王宮も神殿には迂闊に手を出せないと思うし」
「嫌です」
けれど、きっぱりと返された言葉に、怪訝そうに振り返る。
「私は、イーリス様をただ一人の主、我が聖女と思ってお仕えしてきました。イーリス様が国を出られるのなら、このギイト。どこまでだってお供をしてゆきます」
相変わらずの真面目な言葉に、思わず金色の目をしばたたいてしまう。
なんて、誠実な対応なのだろうか。それなのに、拳は悔しさと悲しさで震えていて、彼にとってはイーリスが迎えたこの事態がどれだけ我が身のように辛いのかがわかる。
(私よりも悔しがっていてくれるなんて――――)
ふと、なぜか嬉しくて笑みがこぼれてしまった。
「私についてきても、苦労するだけよ?」
「かまいません。いざとなったら、私が托鉢をしても、イーリス様を飢えさせることはしませんから……!」
きっと、行き場のない自分の未来を心配してくれているのだろう。
だから、つい笑みが溢れてしまった。
「嫌だわ。これからは王妃じゃないんだから。主従ではなく、旅仲間になってよ?」
「では、イーリス様――――」
はっとしたように、ギイトが顔を上げる。
その顔を見つめながら、イーリスは鞄を持ったまま歩き始めた。
「じゃあ、行くわよ。まずは怪しまれないように王宮を出て、街で遠距離用の馬車に乗るから」
「はいっ!」
「どうか、お二人ともお気をつけて。何かあれば、うちに手紙をください。必ず、なんとかお助けしますので」
これから馬車に乗る。そして、街から新しい人生へと羽ばたくのだ。今までの辛かったなにもかもを捨てて。これから来る未来を思い描いて、イーリスは颯爽と大股で歩き出した。