第22話 抱きしめてくれる手
どうして、いつの間に後ろにいるのか――。
そんなことさえ考えつかないほど、今後ろにいる姿を離したくはなかった。
「なっ――」
リーンハルトが驚いているが、手を伸ばして抱きしめた瞬間、再婚を約束した時に嗅いだ匂いがふわりとイーリスを包んでいく。
少し男らしい――広くなった肩に似合う香りだ。その匂いと温もりを離したくなくて、必死にその体に縋りついた。
「バカッ! どうして、こんなに遅くなるまで来なかったのよ!?」
リーンハルトの目が、驚いて開いている。初めてイーリスに抱きしめられたから、動揺しているのが丸わかりだ。
「えっ……!」
声も出せないほどうろたえているが、かまわずに叫んだ。
「私が、離婚したいのはあなたから逃げるためじゃないわ! あなたとうまくいかなかった時間、それを全部過去にしてきちんと終わらせたいから離婚したかったのに!」
なにも言わないまま、イーリスを受けとめている体をぽかぽかと叩く。
「怖いのよ! また、前の六年間と同じになったらと思うと! だから、全部終わらせて、あれはもう終わった時間なんだと、区切って忘れる努力をしたいから離婚を希望したのに!」
どうして、勝手な誤解をしているの! こっちは同じにならないかと怖くてたまらないのに、頑張っているのはやり直したいと思ったからに決まっているでしょう――!
ぽかぽかと両手で叩きながら、これまで胸の中にため込んでいたものを全て叫ぶ。
「イーリス……」
ぎゅっとリーンハルトの腕が、イーリスの体を包みこむように抱きしめてきた。それに、ぐすっと鼻をすすり上げる。
「なのに、なんで! 一回喧嘩しただけで、今日顔を見せないのよ……。怖かったんだから……」
今度こそ、とうとう終わったのかと。やっと、やり直す決意を固めて、もう一度リーンハルトの側に立つ勇気をだしたのに。
「ごめん……」
泣く耳元で、囁くように謝られた。
「遅くなったのは、大臣達に捕まっていたからだ。それは、本当だ――。本当に、ごめん……」
耳元で掠れる声に、ひくっと喉が鳴ってしまう。
「大臣?」
「ああ……どこかで君と俺との約束を知ったらしい。だから邪魔をされて部屋からなかなか出られなかったんだが……」
そっと広い手が、涙で濡れたイーリスの髪を掻き上げる。
「たとえそうだとしても、謝るよ……君が、そんなふうに考えていてくれただなんて知らなかったんだ……」
また、ひどいことを言ってしまったと耳元で蚊の鳴くような声で囁きかけられる。
「やっと気がついただなんて……私だって、あの時もう一度一緒に生きたいと思ったから、頷いたのよ……。本当はすごく一大決心だったのに――なのに、なんで……」
ぽかっとやり場のなくなった悲しみを知らせるように、力なくリーンハルトの胸に手を置いた。
その手のあまりの弱さに、リーンハルトがぎゅっとイーリスの体を抱きしめる。
「そうだな……。俺はすぐに君に自信がなくなる」
だが、甘くてたまらないように顔は泣きながら微笑んだままだ。
「わかっている、俺の悪い癖だ。自信がなくて――それなのに、君が俺以外を見るのは嫌で……。いつもひどいことばかりを言ってしまう。今度は、君に誰よりも優しくしたかったのに」
「リーンハルト……」
泣きながら笑っているアイスブルーの瞳に、イーリスの金色の瞳も釘づけになったままだ。それなのに、リーンハルトはまだ抱きしめた存在が愛おしくてたまらないように、そっとその金の髪に頬を寄せてくる。
「好きなんだ。ずっと……自分でも、余裕がないとわかるほど」
頬にかかる涙で濡れた髪をすくい上げられる。
「おかしいだろう? 久しぶりに君と離れて朝を過ごし、気がついたのがやっぱりそれだなんて」
「そんな……」
くすんと鼻をすすり上げた。
「俺は、今日外で朝陽を見て、どうして君が隣にいないのだろうと思ったよ。変だよな、君が家出をして離れていた間は、朝陽を見る度にいつもひどい焦燥感に駆られたのに。今日は、ただ――ただ君の顔だけが思い浮かんだ。笑った顔。泣いた顔。その全部に早く帰りたい――君に会いたい……。我ながら情けないぐらい、朝の風景に君がいないことが、寂しくてたまらなかった」
ゆっくりとこぼされてくる声音に、頬の涙を静かに拭う。
「俺は馬鹿なんだ。だから、いつもすぐに不安になってしまう。だけど、もし君が過去の俺の仕打ちを忘れようとして――もう、終わったことだと側にいるのを許してくれるのなら、これからは絶対に別れたいと思われるようなひどいことはしないから……」
微笑みながらも、抱きしめてくる腕は、少しだけ震えている。
きっと――今日、ずっとそのことを考えていたのだろう。離婚のことを考えるといった翌日なのに、どうやったらもう一度一緒に生きていくことができるのかとずっと悩んでくれていた。自分と同じように――。
それが、嬉しくて、つい口からはふふっと笑みがこぼれてしまう。
「喧嘩をしないようにする――じゃないのね」
「努力はする。だが、やきもちだけは許してくれ。俺が君を好きなのは、もうどうすることもできないのだから――」
「なによ、それ」
更に笑みがこぼれてしまう。
「本当だぞ。六年も好きなのに、やきもちばっかり焼いていたんだ。回数と程度は減らす努力をするから、俺が君を好きなせいなんだというのは覚えておいてくれ」
好きなせい――その言葉が、温かく胸にしみていく。
「私もよ……」
だから、ふと言葉がこぼれた。
「イーリス?」
「きっと、最初の結婚をした時から……」
心細い異国で、出迎えてくれた少年。いくら前世の記憶があるとはいえ、いやあるからこそ政略結婚なんて、人質に等しいと知って緊張していた自分に、馬車を降りるなり差し出してくれた温かな小さな手の持ち主。
しかし、それを口にのせた瞬間、リーンハルトは驚いたようにイーリスの顔を覗きこんできた。
「それは……! 俺を好きだということか!?」
「でなければ、再婚を承諾したりなんかしないわ……」
ぎゅっと強く抱きしめられる。息すらもできないかと思うほど――。
「ありがとう! それなら、俺は今度は君を絶対に大切にする! そして、必ず君の望み通り過去の時間も終わらせてみせるから――」
その腕の強さが嬉しくてたまらない。
「ありがとう……」
そっと胸に頬をよせた。なんて、嬉しい誓いだろう。今度こそ、好きな人と一緒に人生を歩いていける。
頬に伝わってくる温もりを感じ、ふとリーンハルトの体から走ってきた汗の匂いが微かに残っているのに、気がついた。
「あ、でも今はいつの間に来たの? 私、まだかと思って玄関まで迎えに来たのに……」
つい暴露してしまった迎えという言葉が嬉しかったのだろう。イーリスの前でリーンハルトの顔が緩むと、いたずらを教えるように耳に顔を寄せてくる。
「ああ。それは、この離宮の一階の物置には、王の部屋からの秘密通路が繋がっているから――」
だから、ここは普段使われない離宮なんだとこそっと囁いてくるのに、なるほどと思ってしまう。確かに王の私室宮までは、イーリスも詳しくは知らない。
「じゃあ、今までも遅くなった時はそこから抜け出して?」
「君と再婚できなくなるようにと画策している奴がいるようだったからな。鼻を明かしてやるのは当然だろう?」
「確かに――」
くすくすと笑みがこぼれてきてしまう。
「イーリス」
笑うと、細い体を強く抱きしめられた。
「再婚しよう。そして、今度こそ夫婦として一番近くで、寄り添って生きていこう」
「ええ――」
抱きしめてくれる腕の、なんと温かいことか。
だから、イーリスは今だけは自分たちの邪魔をしてくる者達のことも忘れて、やっと気持ちが通じたリーンハルトに、心からの笑みを投げかけた。