第21話 現れない姿
真っ暗な中で、よく知っている背中が遠ざかっていく。
「リーンハルト……っ!」
呼びかけて誤解を解かなければと思うのに、なぜか声が出ない。
怖いのだ。また、あの怒りを含む冷たい薄氷色の瞳で睨まれたらと思うと――。
『君は、本当はほかの者達がいうように、離婚だけが狙いで、俺から逃げるために再婚という餌を――』
(違うっ! そうじゃないのに!)
追いかけて、誤解を解かなければいけないと思ったが、声が出ない。
「待って――っ!」
やっと、手を伸ばせたと思ったところで、はっと目が覚めた。
見回せば、今いるのはクリーム色の壁に囲まれた離宮の寝室だ。少しだけ開いたアイボリーのカーテンの隙間から、優しい朝の光が差し込んできている。
「夢……」
ベッドの上で頬に手を当て、イーリスはほうっと息をついた。
(最悪の夢見だわ……)
よほど、昨日のことが気になっていたのだろう。
緩慢な動きで、ベッドから出ると、気がついたコリンナが急いで顔を洗う水を持ってきてくれた。少しだけ温められた湯で顔を洗い、コリンナに手伝ってもらいながら着替えたが、まだ気持ちは晴れない。
「今日は、良いお天気でございますよ」
「ええ――そうね」
「これならば、陛下も早くお帰りになりますね」
珍しくイーリスが一人で、食事をとることになったのを気遣ってくれているのだろう。
だけど、変な気分だ。
朝食を食べる部屋は、いつもと同じように暖炉の上で子供の彫像が花を抱いている。青い布を張られた椅子を引けば、白いテーブルクロスの上に並べられた銀食器は、朝陽に眩しいほど輝いているというのに――。
ひどく物足りないのだ。ただ、向かいにいつも座っている面影がないというだけで。
(変ね……。家出をしていた時は、ずっと別々に朝食を食べていたから、初めてでもないはずなのに)
ただ、この王宮で朝にリーンハルトと顔を合わせないのは初めてだ。
郊外への視察だと聞いている――仕事だから仕方がないのに、ただ目の前に、いつもの銀色の髪をもった面差しがないというだけで、こんなにも食事が味気ないとは。
(変ね? 私、いつもどんなふうにパンを飲み込んでいたかしら?)
いつも、こんなにももそもそと喉に張りつくような感じだっただろうか――。
なにかひどく物足りないような気がして、閑散とした部屋を見回した時だった。
「あら、イーリス様! 今日はお一人ですか?」
食事をとるのに、隣の部屋に向かって歩いていた陽菜が、開いた扉から中にいるイーリスに気がついたのだろう。ひょこっと覗きこんでくる。
少しだけ、どきっとした。
「ええ、今日はリーンハルトは仕事があるらしくて――」
「珍しいですね! じゃあ、私と一緒に食べませんか? 私も、今朝はギイトさんが捕まらなくて」
「アンゼルは?」
「昨夜から、あの図面を徹夜で仕上げていますよ。もうこれで隠す必要がなくなったとかなんとか言って」
もう、なんであんなにスカートのひらめき方にこだわるのですかねと、陽菜はいささかげんなりとした顔だが、入ってきてくれて助かった。
「そう。じゃあ、一緒に食べましょうか」
「はい!」
陽菜のお蔭で、朝食の席ではあまり考えこまずにすんだが、それでも離宮でじっとしているとどうしても心をしめてくるのは、昨日のことだ。
(やっぱり……怒らせたわよね……)
まさか、リーンハルトが自分との離婚をそんなふうに捉えているとは思わなかった。
「ちゃんと、説明をしないと……」
気がつかなかった。自分が離宮に閉じこもっている間に、王宮でリーンハルトが今回の件について、周りからどんなふうに言われていたかだなんて。
いや、きっとあれこれ噂されているだろうとは思ってはいたが、まさか、やり直すために条件とした離婚が、イーリスがリーンハルトから逃げ出すための、ただの手段と囁かれているとは考えなかったのだ。
「そりゃあ……グリゴアだって、怒るというものよね……」
どうして、きちんと話しておかなかったのだろう。
「大丈夫よ……、まだ今からでも」
そう思って、時計の針を見れば、時間はいつのまにか昼の三時を過ぎている。
だが、リーンハルトが来る気配は、まだない。
少し翳りだした日射しの中で、ちくちくと過ぎていく針を見ていると、だんだんと気持ちが焦ってくる。
「まだ帰っていないのかしら……」
早く話さないといけないのに。肝心のリーンハルトが姿を見せない。落ち着かなくて、部屋の中をうろうろとしたが、結局コリンナを呼び出した。
「はい、なんでしょうか」
「リーンハルトと一緒に出かけた近衛騎士団が、もう帰ってきているか確かめてほしいの」
きっとまだなのだ――。手を握りながら、そう思うのに、もし帰ってきていて、イーリスに会いに来ないのだったらと思うと、指がひやりとしてくる。
まさか――と思うのに、指の先が震えだして、握りながら自分に言い聞かせることしかできない。
(大丈夫よ――こんなことで、私達の間が壊れたりはしないわ)
だから、すぐに確認をしてくれたコリンナが、「まだらしいです」と返事を持ってきてくれた時には、心の底からほっとした。
「そう――」
ならば、帰ってくればきっと話せるはずだ。
一刻も早く話さなくてはと焦るのに、陽が西に傾き、窓の外に重い夕闇が広がるようになっても、まだリーンハルトは姿をみせない。
「今日の陛下は遅いですね」
これ以上、リーンハルトに誤解をさせないためにも離婚状を探し出す手がかりを考えようとしたが、まとまらない思考のまま椅子に座っていたイーリスは、ハーゲンの声にはっとした。
気がつけば、時計はとっくに七時を回っている。
顔を上げれば、壁にかけられたまま、ちくたくと動き続ける静かな音が、ハーゲンが夕食用のカテラリーを机に並べる音と一緒に響いている。
「どうされますか? 先に召し上がりますか?」
「そうね――」
外を見れば、庭はもう梢の見分けもつかないほどの夕闇に覆われてしまっていた。寒風が窓を叩き、遠い城門の方では騎士達が見回りのための赤いかがり火を焚いているのが、ちらちらと見える。
「まだ、帰ってこないのかしら……」
(もう、日もとっくに暮れたというのに……)
いくら郊外まで出たとはいえ、さすがにもう夜だ。いくら騎士団が屈強とはいえ、陽が落ちてからでは、山野での警護はしにくいはずなのに――。
(まさか……道中で、なにかあって……)
嫌な予想に、どうしても心の中が占められていく。だから、もう一度かたんと席を立つと、コリンナを呼び出した。
「悪いけれど、もう一度リーンハルトがまだか確かめてきてくれないかしら?」
「承知しました」
心配そうなイーリスの顔に、二度目の命令だというのに、コリンナが察したように出て行ってくれる。
「食事は――並べてだけおいてくれたらいいわ。陛下が来られたら、食べるから――」
「冷めてしまいますが……」
「かまわないわ」
ハーゲンが躊躇っているが、一緒に食べたい。前に、リーンハルトの手が思っていたのよりずっと大きいと気がついて、笑いながら夕食を食べた時のように。
誤解だったのよと話して、きちんとなぜ離婚をしたいのかを伝えて、もう一度お互いにあんなふうにわかり合えたら――。
そう思って、窓の外の玄関に続く暗い小道を、今にもリーンハルトが王宮から走ってくるのではないかと窓の側に立ち見続けたが、戻ってきたのは、コリンナのショールを巻いた姿だけだった。
「イーリス様……!」
だが、階段をのぼってきた彼女の足取りは重く、まるで報告するまでに誰かが追い抜いてくれるのを期待しているかのように度々振り返っている。
「どうだったの?」
俯きながら扉を開けた姿に尋ねると、コリンナはひどく言いにくそうにイーリスの前で身を屈めた。
「それが……随行した騎士団の者によると、陛下は今日の五時には宮殿に戻られ、王の瑞命宮に入られたということなんです……」
瑞命宮――王妃宮に対しての、王の私室宮だ。
言いにくいのも無理はない。ならば、リーンハルトは帰ってきながらも、イーリスの側には来ていないということになる。
「そう……ありがとう……」
「あの……お仕事で、こちらに来られるのが遅くなっておられるだけかもしれませんし……」
心配そうに気遣ってくれるのがわかる。だから、無理に少しだけ微笑んだ。
「そうね――もう少しだけ待ってみるから」
先にあなたは休んでいてと伝えたが、針はもう八時に近い。
「はい……。では、なにかありましたらお呼びください」
戸惑ったように一瞬逡巡したコリンナが、礼をして下がっていく。だが、扉が閉まるのと同時に体からは力が抜けてしまった。
ぽすんと薔薇色の椅子に体を埋めてしまう。
「そっか……帰ってきているのか……」
同じ王宮内なのに。まだ今日は一度も顔を見ていない。
「じゃあ……来られるのに、会いに来ないってことよね……」
――どうして? 毎日会いに来るという約束だったのに。
再婚するための約束は、離婚をすること。そして、百日間必ず毎日会いに来るということだ。
「まさか――」
いいえ、そんなことはないとまだ八時を過ぎたばかりの針を見つめる。
「きっと、仕事で遅くなっているだけよ……」
約束をしたのだ。必ず会いに来てくれると。そして、もう一度、今度こそ良い夫婦になるための、努力をしてくれると。
(そうよ! 実際、リーンハルトはこれまでも約束を守ってくれていたじゃない!)
震える手で、必死にドレスの裾を握りしめる。高級品だが、家出してから何度も着ていたせいで、握った生地はひどく柔らかくなっているような気がした。
コリンナが、メイドに頼んでこまめに洗ってくれているのだろう。汚れているということはないが、これを見れば、どうしても逃亡をしていた日のことを思い出す。
逃げて――もう、これ以上ここにいるのは耐えられないと思って、逃げ出したはずだった。夫婦仲のなにもかも諦めたつもりだったが、それでもこれ以上リーンハルトに冷たくされるのには耐えられなかったのだ。
(きっと――いつかは、私以外の誰かを好きになるのだと思っていた……)
最初は、昔の婚約者候補だった令嬢かと思ったけれど、舞踏会や晩餐会で見るリーンハルトは、彼女に対して、表面的な優しさしか示していないように見えた。
――あれは、猫かぶりよね。
頻繁に近づいてくる彼女に対して、本性を出していない笑みで相手をするのを後ろで見ながら、少しだけ安心していたのは、誰にも言えなかった秘密だ。
自分にはよく怒るけれど、ほかの令嬢に本音を見せることもなかったから――心が通じないのは諦めながらも、どうにか暮らすことができた。
陽菜がくるまでは――――。
だから、陽菜に心から笑いかけているリーンハルトを見て、「ああ、もう無理だ」と感じたのだ。
苦しくて。腹が立って。どうして、こんな想いを今更つきつけてくるのか。それならば、いっそ全部陽菜にくれてやると思って、王宮を飛び出しのに、リーンハルトは追いかけてきた。
「どうして……今になって、会いたくないのなら、追いかけてなんてきたのよ……」
絶対に気がつきたくなどなかった。怒られるのが怖いのに、毎日それでも同じ朝食の席に座っていた理由。ほとんど諦めてしまっていたのに、何度もなんとか少しでも距離が縮まらないかと、会話を続けようとしていた理由を。
「好きで――未練があったからだなんて、絶対に気がつきたくはなかったのに……」
ぽろりと耐えていた涙が、金色の瞳から手の上へとこぼれていく。
どうして、あのまま放っておいてくれなかったのだろう。今になって、イーリスとの仲を考え直すぐらいなら。
「気がつきたくなかったのよ……」
好きだなんて気がついたら、なんとか耐えていたリーンハルトとのうまくいかない生活も、いつか離れる覚悟も、全てが辛くてたまらなくなってしまう。
ほんの一ヶ月。結婚してからの今から思えば、うたかたのように短い日々だったが、毎日リーンハルトと声をあげて笑っていた。結婚式の時に、そっと握ってくれて赤らめられた頬。たどたどしいような誓いの口づけを交わして、まだ幼いが婚姻の夜だからと一晩だけ一緒に眠った夜。年が近いせいで、お互いに妙に気恥ずかしかったが、気がつけば、二人していたずらの話で盛り上がっていた。
――自覚さえしなかった、不器用な不器用な初恋。
だから、リーンハルトに再婚を申し込まれた時には、心のどこかが躍った。もう、とっくに全部を諦めたはずだったのに。
「でも……」
ぐっと両手を、胸の前で抱きしめる。
「六年間は長すぎたわ……」
やり直そうと言われても、また前のようになったらという不安をどうしても拭うことができなかった。
やり直して――もう一度一緒にいて、本当に今度は違う未来が来るのか?
六年間、何度頑張っても無理だったのに。
「だから……離婚をしたかったのよ……」
すべてを一度、イーリスの中で終わらせるために。
(でも、その考えが、リーンハルトに余計に不安を抱かせてしまった……)
「違うのよ。あなたときちんとやり直したいと思ったから、離婚を譲れなかったのに……」
どうして、またすれ違ってしまったのだろう。
ぽろぽろと涙が手に落ちると、壁にかかっている時計が、ぼーんと十一時半を告げる音を鳴らした。
(あと、三十分!)
もし、あと三十分以内に、リーンハルトが来なければ、それはやりなおすのを諦めたという無言の意思表示だ。
驚いて顔を上げたが、テーブルの上に並べられた食事はそのままで、誰かが気がつかない間に来たという様子はない。
窓の方を向いたが、外は、既に漆黒の闇だ。ただ、木枯らしが闇の中の見えない梢を揺らしていく音だけが、イーリスのみの部屋に響いている。
(来ないの……?)
今日、来なければそれだけで二人の間は終わりだ。
やり直したいと思ったから、あの日、別れるのを諦めて王宮にまで一緒に帰ってきたというのに――。
いても立ってもいられなくて、急いで玄関に向かう階段を駆け下りた。
そして、ばたんと玄関の扉を開いたが、目の前にいるのは離宮を警護している騎士達だけだ。
「王妃様!?」
「こんな夜更けにどうされました!?」
並んだ二人が驚いているが、かまわずにイーリスは闇の中に目をこらした。
どこかにこちらに向かって歩いてくる人影がいないか。慌てながら、今にも駆け込んでこようとする姿が見えないか。
(――いたら、絶対に十二時の鐘が鳴る前に、あなたの胸に飛び込んでいくのに!)
しかし、外で動くものといえば、遠くのかがり火の明かりと、荒れ狂う風の音ばかりだ。
「冷えた空気は、お体に障ります。どうか暖かいお部屋に」
「でも――」
ひょっとしたら、今にも来てくれるかもしれない。約束をしたのだ。必ず百日会いに来ると。
だが、その瞬間後ろから手が伸びた。
「なにをしているんだ! 冬の夜に外に出て風邪をひいたらどうする!?」
すごく聞き慣れた声だ。そして、抱きしめてくるこの温かな温もり。
「リーンハルト……っ!」
見上げた覚えのある姿に、咄嗟にイーリスはその腕の中に飛び込んだ。