第5話 決断
突然の陽菜の言葉に、華やかな大広間に集まった人々の顔が困惑に揺れている。
「王妃様が、新しく来た聖女様を突き落としたって?」
「まさか。でも、今確かに王妃様が手を伸ばした瞬間、新しい聖女様は階段から落ちましたわよね?」
「最近、王と新しい聖女様の仲がよろしいから……今も、パートナーの座を王妃様から奪おうとなさってましたし」
(ありえない!)
扇を広げながらこそこそと囁き交わす言葉に、咄嗟に叫びたくなる。
それなのに、まだ階段の踊り場では、頬に手を当てたままの陽菜が、見るからにか弱い風情を漂わせているではないか。そして、わっとリーンハルトの胸に抱きついた。
「こんなの、あんまりです! いくら私と陛下の仲が良いのを妬まれたからって!」
驚いたように、リーンハルトがこちらを見上げる。その瞳に浮かんでいるのは、まさかという色だ。困惑するように、こちらを見上げてくるアイスブルーの瞳に、イーリスの頭の中で何かがぶちっと切れるような音がした。
「今のは、あなたが勝手に足を滑らせたのでしょう!? それなのに、私のせいにするなんて。なんて言いがかりを!」
「王妃様は、きっと今朝のことを恨まれているのです。陛下が、昨夜私の部屋で過ごされましたから……。だから、今、邪魔な私にこんな仕打ちを」
「なっ!」
思わず叫んでしまったのは、イーリスだけではない。
「陛下が、陽菜様の部屋で過ごされただと?」
「それは、つまり……そういうこと?」
ざわめきが一層大きくなる。
「陛下とイーリスの様の間に何もないのは、身近に仕える者の中ではよく知られた話だ。だとしたら、やはり陛下のご意向は陽菜様に、ということなのか?」
「イーリス、部屋に下がっていろ」
更に大きくなるざわめきに、リーンハルトが焦ったように口を開く。
「リーンハルト! 私は、なにもしていないわ! 私があなたと陽菜の仲を嫉妬して突き落とすだなんて、そんなこと!」
けれど、叫んだ瞬間、下から声が飛んだ。
「いいえ! 確かに王妃様は陽菜様を突き落とされました!」
「なっ……!」
驚いて振り返れば、下から見上げて叫んでいるのは陽菜に仕える神官。ヴィリではないか。
そして、興奮した悔しそうな顔で、拳を握っている。
「まさか、このようなことになろうとは……! 今朝、ギイトが私に陽菜様と陛下の昨夜のことを尋ねに来た時に、すぐに気がつくべきでした。ですが、私は見ました! 今、陛下に駆け寄ろうとした陽菜様の背を、イーリス様の手が邪魔をするように突き落としたのを!」
なにを言っているのだ、この男は――――!
自分の指は陽菜の背中に触れただけ。決して、落としたりはしていないのに。
けれど、ヴィリの言葉に、ますます貴族のざわめきは大きくなる。
「ギイト神官が確かめに来られたってことは、やはり王妃様はこの件で……」
「では、やっぱり王と陽菜様は既にそういうご関係だということ?」
「嘘よ! 私はやっていないわ! どうしてそんなでたらめを――」
「この後に及んで、我が身かわいさに偽られるとは。陛下、いくら王妃様といえど、同じ聖女である陽菜様を私怨で傷つけられたのは、罪として罰を与えるべきです。ですが、王妃様も聖女。神官としては、王妃様の幽閉を進言いたします」
「騙されないで、リーンハルト! 私は決してあなたと陽菜との仲を嫉妬したりだなんて!」
叫ぶイーリスに貴族達のざわめきが、更に大きくなる。誰の瞳も、ただ腕に陽菜を抱えている王へと集中する。
「陛下……打った体が、痛いです……」
うっうっと泣く陽菜の体だけが、震えている。それに、リーンハルトの瞳が迷うように動いた。
「陽菜……」
「まさか、ここでこんな仕打ちをうけるなんて……王妃様は、同じ世界の記憶をお持ちだから、本当は親しくなりたいと思っておりましたのに……」
この言葉に、貴族達の瞳が非難するようにイーリスを見上げる。
「この件については、追って下知をする。今は陽菜の手当てをする方が先だ。イーリス、お前は部屋に下がっていろ」
「リーンハルト!?」
(信じてくれないの!? 今までずっと一緒に暮らしてきたのに!)
けれど縋るようにかけた言葉には、激しい眼差しが返される。
「いいから下がっていろ! この件については、後で沙汰をする!」
(沙汰――――――)
側で涙する陽菜を抱えながら叫ばれた言葉に、頭の中でなにかが切れた。
「なん……ですっ、て……」
(私より、その女の言葉を信じるというの!? 夫婦としてはうまくいかなくても、ずっと側で支えてきたのは私なのに――)
握りしめた拳が、怒りでぶるぶると震えてくるのを感じてしまう。
(もう怒った!)
きっと金の瞳を持ち上げると、長い金髪を翻した。
こちらを興味深く見つめる貴族達の視線が、とんでもない醜聞に、ひそひそと追いかけてくるが、もう振り返るつもりはない。
「馬鹿にして!」
今までどれだけきついことを言われても、リーンハルトの側に居続けたのは、それでも長く側にいる内に最低限の信頼は築けていると思ったからだ。
(それなのに、六年も一緒にいた私ではなく、つい最近現れた女の嘘を信じるだなんて――!)
これほど馬鹿らしいことはない!
考えれば考えるほど、尽くしてきた自分が愚かではないか。
だから、薄い金髪を翻すと、イーリスは壮麗な天井画が並ぶ王宮の廊下に高い靴音を鳴らしながら進んだ。歩く廊下は、壁に美しい花の模様が描かれ、床には大理石の寄せ石細工で作られた幾つもの果樹の姿が描かれている。いつもならば、歴史を感じさせる見事な建築に溜息をつきたくなる廊下なのだが、今はそんなことを考えている余裕はない。
(よくも、ここまで馬鹿にして――――!)
今のリーンハルトの言葉。そしてわざと転がり落ちて、リーンハルトに寄りかかる陽菜の仕草を思い出すだけで、目の前が真っ赤になってくるようだ。
だから戻った自室の扉をばんと開けると、中にいたコリンナに叫んだ。
「荷物を纏めてちょうだい! 今すぐ王宮を出て行くわ!」
(そっちがその気なら好きにするといいわ! もうこれ以上好き勝手に利用されるのはたくさん!)
胸にたまった思いを吐き出すように叫ぶ。突然のイーリスの言葉に、中にいたコリンナは驚いたように瞬きを繰り返した。