第17話 夜更け
準備のために陽菜が部屋に帰っても、まだリーンハルトが訪ねてくる気配はない。
窓の外は、もう真っ暗だ。時計を見れば、針はとっくに九時を過ぎている。
「遅いわね……」
ぼーんぼーんと、時計が重たい音を流してからどれぐらいの時間が過ぎたのか。すっかり冷めてしまったお茶をマホガニーのテーブルの上に置きながら、イーリスはまだこちこちという重たい音を、静かな夜の中に流し続ける時計を見つめた。
「毎日来る約束なのに……」
それなのに、朝に来てから、今日は今まで連絡がない。昨夜から何度も離宮と中央の大翼宮を往復しているから、仕事がたまっているのかもしれないが――。
「きっと陛下も、出かけられていた間のお仕事で、遅くなっておられるのでしょう」
にこっと笑って、心の不安を消すように言葉にしてくれるのはギイトだ。
離宮の中といえど一人になるな――どんな思いで、昨夜のリーンハルトが、そう口にしてくれたのか。
あのあと、離宮とイーリスの周囲に増やされた兵の数だけをみても、リーンハルトがイーリスのことを心から心配してくれているのはわかる。
だから、ハーゲンが入れなおしてくれた熱いお茶をそっと息で吹きながら、イーリスは忠告通り側にいてもらっている二人を見つめた。
「まあ――今朝の朝食も忙しい合間を抜けてだったしね」
動いていく針に不安が増えてこないわけではないが、まだ九時だ。
(きっと、百日通うと約束してくれたもの――!)
まさか、こんな最初から反古にしたりはしないはず。不安を消すように心で呟いたが、それでも、会わない時間が針と共に、日付までこちこちと迫っていく音に、お茶を冷ましていた顔は、少しだけ曇っていたのかもしれない。
「時に、イーリス様」
気分を変えるように、側からハーゲンが声をかけてくれた。
「陽菜様に必要なものを揃えられると伺いましたが。私の昔の知り合いなどに声をかけてみましょうか?」
「知り合い? ああ、そういえば以前商務省に勤めていたとか言っていたわね」
「はい。ですから、女性が好まれるような品を扱う商人もたくさん知っております。王宮に出入りしていた商人達も何人か知っていますから」
「あら? 王室御用達の部門にいたの?」
何気なく尋ねたことだったが、少しだけハーゲンの笑顔は曇った。
「いえ……私は、どちらかといえば王都の市場担当でしたので。ギルドにいた者達を知っているというぐらいなのですが」
「ああ」
なるほどと合点がいく。
「確か、昔は王都の市場はほとんどギルドが独占していたんですよね?」
イーリスの側に立つギイトが、思い出すようににこにこと頷いている。
「ギルドに入らない限り、王都では商売ができないという弊害に気づかれて、イーリス様が市場を開放されるよう陛下へ進言なさったこと。これは、イーリス様の功績を讃える逸話として今でもよく人の口に上っております」
「開放というか……」
「お蔭で、各国の新しい文物が王都の市場に溢れ、民達も安くで良い品を買えるようになったとか。また、商売を始めたばかりの者達も、高いギルド加盟費用を払わずにすむようになったので、国民に非常に喜ばれた政策だったと覚えております」
「そんなたいそうなことじゃないわよ」
(自分は、ただ信長や秀吉様がやった楽市楽座の真似をしただけなのだ)
あの時はうまくいったが、他国との関係にまで広めようとしたところで、リーンハルトから足下を見る大切さを教えられてしまった。
(うーん、政治って難しい……)
紅茶を飲みながら考えたが、その辺りのバランスについては、正直まだまだ初心者だ。
「そうですか? でも、あの政策で王都の民は、明らかに喜びましたし、新興の商人達にも喜ばれたのです。あれは、イーリス様あっての改革だと、民には広く伝わっておりますよ」
しかし、ギイトはにこにことイーリスを見つめている。
「そうですね。お蔭で、市場にはたくさんの商人が出入りするようになりましたし」
側にいるハーゲンにまで頷かれると、少しだけ王妃としての自信が湧いてくる。
「だったら、嬉しいわ――」
あの時は苦い顔で聞いていたリーンハルトも、数日後には、自分の意見をきちんと大臣達に諮っていてくれたと周囲から聞いた。
行き違いはあっても、互いに少しずつ近づこうとしてここまできたのだ。
――でも。
ぽーんと、時計の九時半を告げる音が部屋に響く。
「遅いわね……」
「少し、外を見てきましょうか」
来ると言ったのだ――なのに、こちこちと進む鐘の音に少しだけ不安が広がってくる。
(もし、このままリーンハルトが来なかったら――)
ひやっと指が冷えた瞬間、外からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。そして衛兵達が、慌てて挨拶をする声。それさえ「うむ」の一言で終わらせて、階段をのぼってくる足音。
「大丈夫よ」
だから、扉が開けられて待っていた顔が覗いた瞬間、ほっとして茶器を置いた。
「リーンハルト……」
「すまん、遅くなった!」
足を止めるのももどかしいのか、そのままかつかつとイーリスの側にまで近寄ってくる。
「くそっ! グリゴアの奴! 俺が朝脱走したのを根に持って、裁ききれないほどの仕事を押しつけやがって」
「あらら」
ばさっと上着を椅子に投げ捨てているところを見ると、よほど焦って走ってきたのだろう。
「もう、夕飯は食べたのか?」
「ええ。リーンハルトは?」
皺にならないように、投げられた上着を拾って抱えると、こちらを見つめるアイスブルーの瞳が少しだけ柔らかくなった。
「俺は、ポルネット大臣とストレンバーグ大臣に左右を囲まれながら無理矢理会食をさせられた」
「それは……」
絶対においしくない夕ご飯だったことだろう。
いかめしい顔を眺めながら、遅れている仕事の重要案件について、針で重箱をつつくような協議を重ねるのだ。
味だって、どれくらいわかるものなのか――。
「なにか、軽い物でも用意しましょうか?」
さすがにかわいそうな気がして、横から手を伸ばしてくれるギイトにリーンハルトの上着を渡しながら尋ねると、途端にアイスブルーの瞳が鋭くなっていく。
「ギイト。お前、俺が命じた今日の分の罰はやったのか?」
罰!?
思わず驚いてギイトの横顔を眺めるが、肝心のギイトは少し焦った笑顔を浮かべるだけだ。
「あ、いえ……夜のがまだ。イーリス様を、お一人にするのはどうかと思い」
「ならば、今は俺が来た。すぐに、お前は俺が決めた罰をやってこい」
まるでうるさい蝿を追い払うように、しっしっとギイトへ手を振っているが、もらされた単語に、慌ててリーンハルトへと駆け寄ってしまう。
「リーンハルト! ギイトへの罰って――」
まさか、追放とか。いや、わざわざ今日のと区切っていたのだ。日によって、四肢を少しずつ切り刻んでいくとかいう、東方の残酷な刑罰を導入したのかもしれない。
「なんだ、やけに奴のことを心配しているな!?」
むっとしているが、今はそれに怯んでいる場合ではない。
「当たり前でしょう!? 毎日刑罰って、いったいどんなひどいことを――」
「ひどい? ああ、ひどいかもしれないがこれぐらいは当然だろう」
「だから、ひどい罰って一体なにを――」
場合によっては、また喧嘩になっても止めなければと思うのに、リーンハルトはいけしゃあしゃあと笑っている。
「別に。ただ一時間おきに離宮の全部屋を回り、すべての部屋に神の祝福の祝詞を上げてこいと命じただけだ」
(ひどい嫌がらせの罰が来た――――!)
待って待ってと、予想外の内容に、思わず頭を抱えてしまう。
(確かに、考えていたのよりはずっといいわ。ギイトが特に危害を受けるわけでもないし、どこかに追いやられるわけでもない)
だが、一時間ごとに離宮の全部屋巡り。それは、どう控えめに考えても、単なる嫌がらせとイーリスの側から引き離すのだけを目的とされていないだろうか。
「なんだ、不満か? 俺としては、宮殿追放でもよかったんだが」
「不満だなんて――」
言ったら最期、これ幸いと追放して、人目につかない山中で首を落とさせようと狙うのに決まっている。
「やはり――もう少し、違う刑罰にした方がいいか?」
だから、精一杯の笑みを作った。
「ううん! それだったらこの離宮にも神様の祝福が一杯になって安心ね」
言えない――――今、みみっちいと思っただなんて。
でも、イーリスが笑ったことで、リーンハルトもふっと顔をほころばせた。
「お前絡みでなければ、誰がこんな寛大な処置で許してやるもんか」
「リーンハルト……」
ふと、少しだけじーんと来てしまった。
(そうよね……あれだけ、ギイトを嫌っているリーンハルトがこんな嫌がらせぐらいで許してくれたんですもの)
決して、イーリスと長時間二人にしないためだとしても。そう考えると、少しだけ嬉しくなってくる。
「ありがとう」
だから、微笑みながら、リーンハルトの横にとんと腰かけた。
「ギイトを許してくれて――ギイトに私が持っているのは、ただの信頼だけど、リーンハルトが私の気持ちを大事にしてくれたのがすごく嬉しいの」
見つめながら手を取れば、面白いぐらいにリーンハルトの顔が赤く染まっていく。
(あ、かわいい)
前には感じたことのない穏やかな気持ちだ。
照れたようにリーンハルトの顔がこちらを見つめて、それでもイーリスに掴まれた手を外さないまま訊いてくる。
「それで――あれから進展はあったのか?」
「離婚状のこと? まだだけど……」
しかし、途端にリーンハルトの顔は険しくなった。
「そうか……まずいな」
兵達にも、逐次報告を入れさせているが進展はなしか、とひどく考えこんだ表情を浮かべている。
(やはり、二度とやり直せなくなることが不安なんだわ――)
私と一緒でと思うと、少し嬉しい。だから、思い出したアンゼルのことを急いで口にのせた。
「ただ、陽菜の新しい神官が、今日全員の部屋を調べた時に、なにかを隠しているみたいだったの。部屋を探す間中、トイレにこもって出てこなかったし。だから、明日陽菜と一緒に、もう一度身ぐるみもはいで調べてみるつもりなんだけど」
「身ぐるみ!?」
「あ、もちろん疑われないようにね。それで離婚状を隠していないか、探そうと思うんだけど――」
しかし、その瞬間リーンハルトのアイスブルーの瞳が射貫くようにイーリスを見つめた。
「俺もいく」
「え?」
突然のリーンハルトの言葉に、きょとんと目が丸くなる。
「俺と君がやり直せるかどうかの瀬戸際だ。そんな時に、君だけに離婚状の件を任しておけるはずがないだろう」
「で、でもたまっているという仕事は……」
抜け出してこられるほどの量なのだろうかと焦るが、リーンハルトはひかない。
「なんとかする! 第一」
ぐっとリーンハルトの銀色の眉根が険しく寄せられる。
「男が裸になる側にいるんだろう? そんなところに、君を一人でやれるか!」
(なんの心配をしているの!?)
「いや、私が担当するのは部屋の方で……服は、陽菜が」
「どちらでも同じだ! 君が一人で俺以外の男の部屋に入るなど――俺がいないところでは、絶対に許さん!」
(あ、これ絶対に後者が本音だわ……)
忘れていた。リーンハルトの独占欲と、嫉妬がどれだけ強いのかということを。
そして、翌日は三人で決行と話が纏まった。