第12話 約束
互いの名前が記された離婚状を、ほっとしながらイーリスは眺めた。
(約束を――守ってくれた)
あの日、みんなの前で交わしたやり直すという約束の一つ目が、確かにリーンハルトの綴った文字でここにある。
(これで、やっとあの辛かった日々に区切りをつけることができる……)
やり直すと決めたとはいえ、ふとした瞬間に、心の中ではどうしてもあの辛かった日々が悪夢となって甦ってきた。
(でも、これでやっと……)
渡された離婚状を、愛おしそうにぎゅっと抱きしめる。
引き換えに、目の前に座ったリーンハルトは、どんよりと澱んだような瞳だ。
「リーンハルト?」
「別れたくなかったのに……君と、離婚だなんて」
「大げさねえ、今すぐ神殿に提出するわけでもないのに」
そのために、普通ならば名前の下に書き込むはずの日付は、今も空白のままだ。
あまりの落ち込みぶりに、逆にのんきな声を出してしまったが、それが癇に障ったのか。くわっとリーンハルトのアイスブルーの瞳が開かれた。
「当たり前だ! 日付を入れて、今すぐ神殿に提出するなんて言われたら、なにがあっても書いたりなどするものか!」
再婚を決意する百日後まで待つということだったから、渋々書いたんだと、いらいらと両手を組み合わせている。
「本当に! 本当にまだ神殿にはださないんだな!?」
「疑り深いわねー。最初にした約束の通り、きちんと百日待ってあげるから」
あまりの焦りっぷりにこちらの方に、余裕が出てきてしまう。
それだけ別れたくないのだと思うと、やはり嬉しい。
(きっと、リーンハルトも今度は同じようにならないよう、やり直してくれると思うし……)
だから、ほっとして微笑みかけた。
その時、後ろでこんこんと扉を叩く音がする。
「あの……玄関に、元老院のグリゴア様からのお使いという方が、来られているのですが」
きっと、また離婚状の催促だろう。
「そう。昼間に来たのと同じ人?」
「いえ。今度は違う官吏みたいですが」
最初の人物では埒があかないと踏んだのか。それだけ相手も必死なのかと呆れるが、今は手の内にこの離婚状がある。
相手の思い通りと考えれば癪だが――。
「そう――まあ、今度は手ぶらでは帰さないし、これ以上の嫌がらせはできないはずよ」
「では」
ぱっとハーゲンの顔が輝く。
「ええ。相手が散々せかしてくれた離婚状も、こうして用意ができたし」
とにかく、これで静かに離婚の日々を過ごすことができるのだ。あとは再婚するかを決意する百日目まで書司部で保管してもらえばよいだけ。自然と微笑みながら、振り返った。
「ああ、そうね。使者に渡すのに、なにか入れる箱を用意してくださる? それと、コリンナを使者と共に王宮書司部まで遣わしたいので、ここに呼んできてほしいのだけど」
すぐ神殿に出すわけではないが、王家にとっては重要文書だ。念のために、コリンナを使者に同行させて、書司部に保管されるまでを見届けさせておいた方がいいだろうとハーゲンを見つめると、赤毛の姿はすぐに背を翻していく。
「はいっ、すぐに!」
言葉の通り、ハーゲンはすぐにコリンナを呼びに走り、ついで一つの黒塗りの箱を持ってきてくれた。
正式な文書などを送る時に使う文箱だ。前世で使っていたノートぐらいの大きさだが、表面が黒く塗られた中に、螺鈿で蘭が描かれている。見たことがないほど優美なものだ。
「美しい箱ね、この離宮にあったの?」
「いえ、私個人の物ですが……。昔、ここの管理者になる前は商務省に勤めていましたので、その時に」
「ああ」
商務省――日本でいえば、経済産業省のような部門だ。
「いろんな製品に触れる機会が多い場所ですものね。その時に見かけて?」
「いえ、私の友人がこういうのを使う仕事をしているので、美しいのがほしいと頼まれて探したのです。その時に見かけて気に入ったのを、自分用にもと――」
少し話しにくそうなのは、ひょっとしたら相手は女性なのかもしれない。
「あら、そうなのね」
(それだと、今のリーンハルトの前で詳しく訊くのはかわいそうよねー)
なにしろ、まだどんよりと死んだ魚のような目をしている。その間に離婚状を渡すと、受け取ったハーゲンが入れて、丁寧に蓋を閉めてくれた。そして、きゅっと美しい飾り紐で、箱を封じる。
パタンと扉が開く音がした。
「イーリス様! 遅くなりました」
「ああ、いいのよ。みんなで楽しくお食事をしている最中に呼び出して、ごめんなさいね」
「いえ、私は女狐にテーブルマナーの特訓していただけですから」
どうやら強制的に、こちらでのマナー講習をさせられていたらしい。
(ごめん、陽菜。明日からはきちんと言っておくから)
その間にも、ハーゲンは紐で結わえられた下に紙を入れ、少しだけ蝋を垂らしている。もちろん、下の箱にはかからないように、細心の注意を払ってだが――。そして、イーリスに封蝋用の刻印を差し出した。
「ありがとう」
ぽんと赤く溶けた蝋に、重要書類である証明の印を押す。じっと見れば、封蝋が施された螺鈿の箱は、灯されたシャンデリアの下で、これからの二人の門出を祝うようにきらきらと美しく輝いている。
「これで、やっと――」
全部が過去になっていく。
あとは、この離宮で残る九十九日を過ごし、ゆっくりとリーンハルトの態度に心を決めていけばいいだけだ。
(本当に、やり直しても同じにならないのかどうか――)
大丈夫よねと、心で頷く。その間に、ハーゲンは使った刻印や蝋を片付けに、部屋を下がっていった。
扉の閉まる音がして、やっと見つめていた箱から顔をあげる。
「では、コリンナ。これをどうか来た使者と一緒に、書司部まで届けてほしいの」
「はい、承知しました。書司官様にお預け次第、またご報告に戻って参りますね」
「よろしくね」
しっかり者の彼女のことだ。来た使者と一緒に王宮の書司部に行こうと、たとえそこでグリゴアが待っていようと、毅然とした態度で怯むことはないだろう。
ぱたんと扉の閉まる音を聞き、イーリスは「さてと」と振り返った。
後ろでは、まるで牢獄の扉が閉まったかのように、リーンハルトが絶望しきった顔をしている。
その顔に、思わず両手を腰にあてた。
「あーもう! まだ預かってもらっただけなのに!」
どうして、そこまで落ち込んでいるのか。
「離婚状は約束だったでしょう!? それにあと残りの九十九日をすぎたら、ちゃんと再婚も考えてあげるんだから! 今はそんなに落ち込まなくても――」
「わかっている」
だが、リーンハルトは机を見つめたまま呟いた。
「え?」
「国民の前で約束したことだ。離婚状を書かねばならないことも。それが、君とやり直すための約束であることも」
ただと、マホガニーの机に置いていた両手をぎゅっと握りしめる。その両手は微かにだが、震えているようだ。
「俺の自信がないだけだ。俺は、君にとって良い夫ではなかった。いや――むしろ、不幸にした夫だといってもいいいだろう。だから――」
もう一度選んでもらえるかの自信がないと、俯いている顔になんといえばいいのだろう。
「リーンハルト……」
そっと座って、顔にかかる銀の髪の間を覗きこんだ。
ひどく――憔悴したアイスブルーの瞳が、こちらを見つめてくる。
伸ばした指で、さらりと銀の髪を持ち上げた時だった。
がたーん。
「何事!?」
まるで、廊下に立つ彫像が倒れたか、どこかのシャンデリアが落ちたかの音のようだ。
「どうした!?」
急いで立ち上がったリーンハルトと一緒に廊下に飛び出したが、急いで走って角を曲がると、階段に続く途中でコリンナが倒れているではないか。
倒れる時に手が引っかかったのだろう。側には、ばらばらに砕けた緑の花瓶の欠片と、色とりどりの花々が、水浸しになったまま絨毯に散乱している。
「コリンナ!?」
なにがあったのか。
助け起こそうと走り寄り、慌てて意識のない体をかかえあげる。
「コリンナ!? コリンナ、しっかりして!」
膝に抱えれば、頭の後ろから血が出ているのに気がついた。まるで、暗がりから何者かに殴られたかのように――――。
「どうして、こんなことに……」
一体、誰がと呟いたところで、目を見張った。
倒れているコリンナの白い指の先。欠片だらけになった絨毯の上には、封じた蓋が開き、空になった螺鈿の箱が転がっているではないか。
その様子に、イーリスの金色の瞳がこれ以上ないぐらい大きく開いた。