第11話 離婚状
「待って! 離婚届は約束でしょう!?」
さすがに、二日続けて逃げられては困る。
咄嗟に、立ち上がったリーンハルトの服をむんずと掴んだが、それでも諦めが悪く、なんとかこの場から立ち去れないかと足を動き出そうとしている。
上着が、縫い目で裂けてしまいそうなほど強く掴んだ。
「別に今日じゃなくたっていいだろう!? 急ぐものでもなし」
「そんなことをいって、いったいいつなら書くつもりなのよ!?」
「君が再婚届にサインをする決意をしたら書いてやる!」
「さては、離婚期間を実質ゼロにするつもりね!?」
往生際が悪いと思うが、服を掴まれたリーンハルトも必死だ。なんとかイーリスの手から服を離し、この場から立ち去れないかと格闘している。
それを見て、咄嗟に上着の裾を引っ張っているリーンハルトの手を握った。
一瞬、ぎょっとしたようだが、振り払うつもりはないらしい。その隙に、大きく口を開く。
「だいだい、あの時私が書いて渡した離婚届にサインをするだけでしょう!? ちょっと名前を書けばすむだけなのに、どうしてそこまで」
「あんなもの、もうこの世にあるか! 忌まわしかったから、見た瞬間暖炉に投げ込んで、これ以上誰の目にも触れないように抹消したわ!」
「はあああああー!? あなた、人が心をこめて書いたものになんてことをしてくれているのよ!?」
咄嗟に開いた口が塞がらない。
「心は心でも、怒りだろう!? まるで、真心をこめたみたいにいうな!」
確かに勢いで書いた時に、文字にこめたのは怒りと悲しみだったが、それが相手に渡るや否や灰にされていようとは――。
しかし、目の前に立つリーンハルトは、置かれていた離婚届を見た瞬間を思い出したのか、完全に苦虫を噛み潰した顔だ。
「あんな忌まわしいものを何度も見たいものか。確かに、離婚は約束した。だから書くがいつとまでは宣言していない」
(すごく潔くない宣言がきた――!)
「ちょっと待って! 王宮に帰ったら、書くって約束だったのに……!」
まさか。約束したその直後に反古にするつもりだったのだろうか。
「宮殿に戻ったら書く。確かにその通りだが、宮殿に戻ったその日とまでは約束はしていない」
「はあああああ!?」
(ちょっと待って! これ、ひょっとしたら本当に百日間引き延ばすつもりなんじゃない!?)
冗談ではない。そんなだらだらとした気持ちで切り出した話ではないのだ。
だから、だんと取り出した白紙をマホガニーの机に叩きつけた。
「書いてよ――!」
あの時、血を吐くような苦しみの中で、やっと交わした約束なのに。
(また、あんなことになったら、私……)
脳裏には、結婚してから六年の間に過ごした日々が駆け巡っていく。挨拶しかできなくて、見送った喧嘩したての頃。少し話せるようになっても、二人の間に開いた距離は変わらなかった。ほかの臣下や令嬢とは談笑をしているのに、なぜかイーリスがギイトを伴って近づくと、いつも笑っていた瞳が針のように鋭くなって――――。
話しかけようと思うのに、怒りを含んだような眼差しで見られると、体が竦んでなにも言葉を出せなくなってしまうのだ。
――仲直りをしたいと思っていたはずなのに。いつのまにか、それさえも諦めてしまうほど。
(もう、あんな思いはしたくはないのに!)
ぐっと白い紙の上で、拳を握りしめた。
「書いてよ……! お願いだから……」
確約がほしいのだ。もう、一度やり直すといってくれたリーンハルトが、あの時の約束を守ってくれるという保証が。
じっとリーンハルトのアイスブルーの瞳が、自分にかぶさるイーリスを見上げた。
小刻みに体が揺れる。
「約束を……守ってほしいの……」
ぽーんと、八時半を示す時計の鐘が鳴った。
静かな、針がこちこちと動き続ける音だけが、イーリスが肩をふるわせる後ろで響き続ける。
「――――――わかった。書こう」
長い沈黙の後に、やっと返されたリーンハルトの言葉に、ぱっと顔をあげる。
「本当?」
「――ああ。だが」
下を向いたリーンハルトのアイスブルーの瞳が、羽根ペンを持った瞬間、くわっとイーリスに向かって開かれた。
「本当に、百日後には再婚届にサインをしてくれるな!? 絶対に!?」
「それは、百日間通う約束を守ってくれたらするつもりだけれど――」
まさか、ここでまで念押しをされるとは思わなかった。
渋々リーンハルトの手が、インク壺にペン先を浸しているが、口からこぼれてくるのは、呪詛のような泣き言だ。
「……君には、わからないんだ……。俺が、どんな気持ちで、あの時結婚届にサインをしたかなんて……」
この世で一番幸せな気持ちだったのに――と呟いているが、それならば後に続く六年間をなんとかしてほしかったとしか、言葉が出てこない。
まるで泣くように、とぷんとペン先がインクに浸される。
そして、公文書にも用いられる白い紙に綴られていく文字は、あの夜にイーリスが綴ったのとまったく同じ文面だった。
『リエンライン王国の法に基づき、この両者の婚姻の解消を神に報告する。
リーンハルト・エドゼル・リエンライン・ツェヒルデ』
かりかりと綴る音さえもが、まるで泣いているかのように紙から響く。音が消え、無言のまま渡された紙を眺め、その下にイーリスもほっとしたように自分の名前を綴った。
『イーリス・エウラリア・ツェヒルデ』
これにより、二人の正式な離婚届――すなわち離婚状ができあがった。